祖母・正司歌江のこと

 行き来が絶えて、もう三十年近くにはなるだろうか。逝去のこともYahoo!ニュースで知ったくらいだから。ともあれ由縁ある者のひとりとして、思い出せることを書き付けておく。

 若い頃に出来た娘が当方の母親で、その後に別の男性と結婚したから、要するに私生児ということになる。母の父、つまり当方にとっての母方の祖父は晩年でも身内ながら色気ある人だった。まあ、若気の過ちというところか。歌江の口からはこの祖父の話がたまさか出て来た。「おにいちゃん」と呼び、懐かしそうな口調だった。

 母は十数年、千里古江台の歌江の家に家政婦として通っていた。そのつながりがあって、当方も小学生の頃には「おばあちゃん」が少なくともその頃はかなり有名な芸能人だと認識していた。そうそう、「おばあちゃん」という呼び方を嫌って、「歌江さん」と幼い孫に呼ばせていたのだった。

 といっても、結婚後おしどり夫婦としても有名だった夫とのあいだには男児が生まれていたし(母にとっては弟にあたる)、また物堅い勤め人の家に育ち、自らも会社員だった当方の父は歌江のことを嫌っていたから、行き来といってもその頃から頻繁にあったわけではない。歌江・当方の両親、それに当方でテレビの「芸能人家族対抗歌合戦」のような番組に出たらしいがこれは幼すぎて記憶がない。

 たまに夫の目を盗むようにして、母は当方(と弟)を千里の家に遊びに連れて行く。庭に何かの祠が有り、二階には無気味なほど大きい座敷(と団地住まいには思えた)のあるその家は、滅多に訪れることもないし、家の正統な生まれの孫でもないことは分かっていたから、鏡花流に言えば胸がキヤキヤする反面、どことなく気詰まりに感じていたのは自然な反応であったろう。

 こんな調子で綴っていたら切りがない。あとは順不同に、記憶に残ったことばを並べてみよう。

*「○○は」と当方の名を呼んで、「本当に眼が大きいな、産院ではじめて見たときには麻雀のイーピンかと思った」。
*「鰻にはにんにくがよく合う。濃いものを同士をぶつけると実は軽くなる」。蒲焼きににんにくのスライスをうんと載っけて食べるのである。これは確かに旨かった。
*(鍋をしてるとき)「野菜や魚のアクはとってはだめ。あれは持ち味の凝縮したところだから」。後に野菜居酒屋『いたぎ家』でこの話をしたら、店主のアニさんがえらく感心していたな、そういえば。
*「○○は」と当方の名を呼んで、「酒が好きなんやな。誰に似たのか」。もう時効だから明かすが、これ、まだ未成年のときのこと。次のことばと合わせて翫味されたし。
*「○○」、「もう私は酒をやめた」。おやあんなにがんがん飲んでいたのに・・・といぶかしげな孫の表情をとっくり見て、一呼吸置き、「これからは焼酎にする」とのこと。実際その後も一升酒ならぬ一升焼酎だったらしい。これは孫にも受け継がれている。伝統芸というべきか。
*これは歌江ではなく、遊びに来ていた照枝(てーばーちゃんと呼んでいた)が見せてくれた(語ってくれた?)藝で、豆絞りかなんかの手ぬぐいをちょっと捻って上に投げ上げる。それが落ちて頭に載ると同時に鉢巻になっている、というもの。おそらく寄席で噺家に教わったのではないか。大学で江戸時代の文化について学ぶことになった孫としては、こういった音曲や藝事のはなしをもっともっと訊いておけばよかった、とこれは会わなくなってから度々悔やんだものだ。無論、女三人の漫才として一世を風靡したには違いないが、元は旅藝人ー本人の口からも「河原乞食」という語は聞いた覚えがあるー、古い藝や藝人気質を身を以て知った最後の世代ではないか。たしか米朝師匠も「こんな話出来るのはもうあんたらだけや」とどこかで言ってはった気がする。

 総体に傍若無人な人柄だった。これは貶めるのでもひねって称揚するのでもない。感じたままを形容するならば、そういうことになる。歌江を媒に会う機会があった何人かの芸能人(藤岡琢也大空真弓茶川一郎その他)の記憶と比べてもそう思う。

 記したように近年はまるで交流がなかったから、「生涯現役」というネットの表現に拠るしかないわけだが、そうだとしたら傍若無人また闊達だった祖母にとっては幸せな晩年であった、ということである。