本を憎む記

 岩波書店の本はどれも最悪である。思想体系や古典体系はもちろんのこと、タチが悪いのは岩波文庫である。小兵とあなどっていると不意打ちを食わされる。一般的に言って、文庫には予想を裏切られることが多い。
 大学院では日本近世の学芸について研究していたので、その方面の研究書・資料はそこそこ持っている。これにも手を焼いた。てんでばらばら。それぞれに自己主張が強すぎて、一つにまとまろうとしない。自己主張の強さでは洋書も劣らない。どのようにまとめてもかならずそれに収まりきらない部分が出て来る。ムダが多くなるのだ。
 好ましいのは和本、つまり江戸時代に出版された書籍。版型の統一もさることながら、箱いっぱいに詰め込んだときでも楽々と持ち上げられる軽さがたまらない・・・・お分かりだろうか、以上すべて先月半ばの引越での、「本の箱詰め及び移動」に係る感想である。整理され持ち運ばれる対象、いわば《モノとしての書物》に即して見た場合、その書物が保持する・伝える・喚起する情報内容の量や質を評価するのとはまったく別の“系”が立ち現れてくるものだ、というのが今回の引越における、貴重な「唯物論」的教訓であった。
 本は内容を読むものであって、形にこだわるのは本末転倒。まして、美術品としての意匠や書誌学的価値ならまだともかく、単なる重量と大きさにこだわるのは愚の骨頂。仰せの通り。
 仰せの通りだろうか。本式の学者の蔵書に比べたら、爪の垢ほどにも当たらないだろうけれど、それでも段ボール140箱の書籍を、独身者のつらいところ、ほぼ一人で荷詰めし荷解きしないといけないともなれば、大きさ重さに拘泥したくもなろうというものである。
 重さだけではない。紙はやたらと埃を吸い込む材質である。以前高校のグラウンドと谷一つで向かい合わせのマンションに住んでいたこともあり、おまけに窓・扉を開けてのべつ風を通していたものだから、作業中少し落としても塵が舞い立つ。壁に擦ればすぐに染みが付く。手指は何度洗ってもすぐに真っ黒になる。数年前の禁煙以前から、本を置く部屋で煙草は吸わないようにしていたから、匂いはさほどでもないと思うが、ヘビースモーカーの蔵書はある意味、煙草のけむりそのものよりも強烈に匂う。以前ある人の部屋で、四方の本からにじみ出る煙草の匂いに頭がくらくらしかかったことがある。
 煙草だけではない。食べ物の匂い、香水の匂い、服や絨毯などを含めた「家の匂い」・・・持ち主の体臭もそこに含まれるかもしれない。こうなってくると、そろそろ《モノとしての書物》はそのまま持ち主、読み手の精神世界そのものの象徴ともいうべき性格を帯びはじめる。書庫を見られることは他人に自分の心底をさらけ出すことと同義である。逆に言えば、他人の蔵書を見るとはその人の剥きだしの精神に接することでもある。だからこそ倉橋由美子はいう、「できれば本などという汚らしいものは一冊も見えないのがよいのである」(「ディオゲネスの書斎」)。また吉田秀和はいう、「部屋中の壁が本でいっぱいだったり、その辺にごたごたと積み重ねてある図を始終見かける。そんな時、私には何だか、その部屋の主が、精神的にひどく貧寒とした人物に思えてくるのである」(「中原中也のこと」)。
 書き写しているとどんどん落ち込んでくる気味合いである。いっそ古本屋にぜんぶ売っぱらちまって豪儀に酒盛りといこう・・・・とならないのが膏肓に入った病というやつで、引越のあと書架に本を収め終えて一週間もたたぬまにおとずれたのが神戸三宮のサンボーホールで開催された古書市。両手で持ちきれないだけ仕入れきて喜んでいる次第である。
 でもどこか吉田さんの評言がこたえる部分があったのだろう、今度の書斎は普段生活する空間から本が一冊も見えないようになっている。