梅は咲いたか

  くもり日はことにぞ匂ふ梅の花風吹きとづる深き霞に

 『玉葉』あたりに撰入されていてもおかしくないような歌だが、これは上田秋成の詠。思い出して、さすがに感覚が冴えている、と感じたのは北野天満宮の梅園を見て回っている最中のこと。雨もよいの空の下、紅白の花の色が混じっているところを歩いていると、思い出したかのように、気品ある香りがただよってくる。なるほど、桜とちがって、のどやかな陽ざしの中ではなくて、あるいは月夜(疎影膻斜水清浅。暗香浮動月黄昏)、そうでなかったら暗めの色の雲が空を閉ざす日に観賞するのが、凜然たる花容にはふさわしい。そんな花のたたずまいに気圧されたのか、余所ではさぞ行儀がわるかろうと思われる団体の旅行客も子細らしい様子で花を眺めていた。あるいは菅家の威徳というべきか。

 さて、へっぽこ宗匠としても一句なからでやは。お笑い種に記しておきます。

  白梅の咲きみちてやゝしづかなる 碧

 天満宮を出た後は白梅町交差点近くの店で昼食。観光名所の側だから気の利いた料理屋のあるはずもないと観念して、相方に店の選択を任せたところ、案の定「京のおばんざい」を売り物にした飯屋となった。出し巻だとか筍の炊いたのとかをヴァイキング方式で喰わせるのであるらしい。もう一度秋成のことばを借りれば、所詮は「小刀ざいく」なのであるが、まあまあおとなしく瓶ビールを呑む。

 さて、腹ごしらえのあとは十分ほど歩いて平野神社へ。桜で有名なこのお社に、花時分まえに参拝とは風流の極み、とは当人が思うことで、連れ回される方にはおおきに迷惑かもしれないが、何せ我が聖誕祭であるからして、これくらいの我が儘は許されて当然である。

 天満宮と同じく、ここも檜皮の屋根のカーヴが実にうつくしい。新芽のけぶる季節だとなおさらいいのだろう、と思う。ここははじめての相方も感嘆しきりであった。やはり観光客の姿はほとんどなく、掛け茶屋の準備をしているガテン系の方々ばかりが目に付いた。

 白梅町まで戻り、バスに乗って河原町に向かう。もうひとつ当方の要望によって、祇園にある何必館なるミュゼに行くためである。河原町に着く頃には、雨は本降りになっていた。その雨の中、四条通をどこやらの労働組合主催にかかる「原発反対」デモが通っていく。それを見た相方が浅薄極まりないコメントをするのがひどくこちらの気に障る。といって、別段こちらが左翼イデオロギーに芯まで染まっているわけでは全然無い。自分でものを考えた上でのことばではないことが明らかだからなので、ここで再び注釈をつければ、直観や感覚に拠る判断を必ずしも蔑しているということでもない、と言うのはたとえば生来の気質を頑固に守り育てた結果、おのずと一本の樹木のような「全体性」を備えるに至った表現者・思考者(ここではとりあえず内田百輭をあげておこう)をこちらは深く尊敬しているのである。若い層に「ネット右翼」が増えているらしいことが思い合わされる。つまり直観や感情を正当化するのにネットという擬似公共空間の情報を拠り所にしているわけで、要するに知性が欠落しているのだが、嗤えるのは、デモで「原発ハンターイ!」と金切り声をあげている、《信者》のおばはん(むろんおっさんでもにいちゃんでもよい)と思考、というよりむしろ無思考の構造が相同している所である。こうした運動に携わる人々は、もっと若い連中を取り込むための戦術を真剣に検討するべきなのではないか・・・と他人の頭痛を疝気に病むこともなくて、まずは当方自身が、知性を欠くと判断した人間と付き合ってゆけるのかどうかが問題である。

 誕生日だというのに、なにやらあやしい雲行き。しかし当人(鯨馬)はすこぶる暢気に、自分(これは相方のこと)のことを頑強に馬鹿と見做している人間と一緒にいることで変わっていくものだろう、と考えている。こちらも四十過ぎて少しは粘り強くなったのかもしれない。また、変わっていかないようなそれこそ本物の馬鹿に付ける薬はどの道ないのだから、悩むだけ無駄である。

 一向に美術館にたどり着けないな、この調子では。しかし、何必館ではちゃんとお目当ての魯山人の焼き物を堪能したのである。某という画家の特別展をさっさと通り過ぎて、地下にある小部屋に向かう。伊賀や備前の花入れ、黒織部の沓形碗もよかったが、なかんずく、上半分に緑釉をかけ、下には野草文をあしらった織部の平皿がすばらしい。うっとりと見入っていると、相方に「絵を見てるときとは全然目つきが違う」とからかわれてしまった。このミュゼは花入なら花入にちゃんと花を活けて展示しているので、器が生き生きして見える、それがいい。双魚文の平鉢には水を張って、木の葉一枚を浮かせている。木の葉形平向に鮒鮓の食品サンプルを載せているのは少しやり過ぎだと思うが。前に来たのは、全館これ魯山人という展覧会のときで、宿酔気味ながらも仙境に遊ぶ気持ちになったことを思い出したことだった。

 京都あそびの最後は錦市場での買い物。先月来た時(「二都物語」)に買いそびれて心にかかっていたものをまとめて買って帰ってやれ。というわけで、子持ち鮒の旨煮・ぐじの一夜干し・身欠き鰊・ちりめんじゃこ・酢茎が今回の収穫となった。夕食は神戸に戻って、焼き鳥『のんちゃん』で。前回、花見小路の某というひどい店に入ってしまったこと(これも「二都物語」をご覧ありたし)から、幾分羮に懲りて膾を吹く気持ちがあったのかもしれない。ま、久々の『のんちゃん』の唐揚げ、美味しかったけど。

 翌日は昼から二人で餃子パーティー。豚肉はミンチではなく、バラ肉の塊を購入。プロセッサーで細かくするほうが、肉汁が残って旨いらしい(旨かった)。ほとんど呑めない彼女は梅酒(なんちゅー趣味であることか)で、こちらはビールと、プレゼントにくれた会津の『弥右衛門』純米大吟醸で乾杯して、食べも食べたり二人して四十個。『グランドブダペストホテル』のDVDを見ながら。原作者がシュテファン・ツヴァイクだと知ると、映画の最後、「彼(=主人公であるコンシェルジュ)の属していた時代はすでに終わっていた」という台詞の味がぐーんと深くなる。※ツヴァイクはいちばんいい時代のウィーンに生き、ナチスの台頭以後はアルゼンチンに亡命。日本軍によるシンガポール攻略の報を聞いて、「ヨーロッパは死んだ」と判断して自殺した。

 いい誕生日でありました。相方に感謝感謝。
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