梅が咲いたら

 あの寒さ(火鉢の炭火の、あの心暖まる色)、あの空の暗さ、魚や酒の旨さ、冬を好む人間にとってはこれからがいちばんわびしい心持ちになる時期。それでも出初めの食材にまだまだ浅い春の心を探るのはこれまた食いしん坊にとっては楽しいものである。外に食べに出る機会もおのずと減って、市場であれこれ物色する日が増える。魚の豊かさなら冬だって少しも見劣りのするものではないけれど、野菜の品揃えばかりはあと一歩、と認めざるをえない。そんなわけで・・・

○新若布の三杯酢(よく乾しのきいたちりめんじゃこをいれてもいいのだが、出来れば針生姜くらいで若布を堪能したい)
○めかぶとろろ(ある時はめかぶだけ、ある時は山芋や納豆と混ぜる)
○花山葵のお浸し(熱湯に浸したあと、タッパーウェアでがさがさがさがさと振ってから密閉。あとは花鰹と薄口醤油・酒を半々にしたものを控えめにかけて)
にらの酢味噌
○菜の花漬(昆布をけちらない)
○山独活の旨煮
○新牛蒡(根は笹がきのあとさっと湯がいて胡麻味噌で、葉は牛コマと炒め煮に)
○ふきのとう(味噌汁の吸口にして―ここからが肝心―それを酒の肴とする)

なんて献立を連日にこにこしながら平らげて、当人は満足していたのですが、ふとこのままでは仙人になってしまいかねないと気づいて、近所の鳥屋に買いに行ったのは、鴨のロース。これで鴨すきをやる。我が酷愛の芹もそろそろ薹が立ってしまう頃だし、名残の宴のつもりである。だから、鴨肉の他は芹と椎茸、白葱のみ。焼き豆腐も入れない。鴨ばかりは薄味ではつまらなくなってしまうので、当方の食卓としては珍しく砂糖を使う。表面には十分な焦げ目をつけて、中は血のいろが残るように焼くためには、酒杯をおいて、集中せねばならぬ。砂糖をぱらぱらと振りかけて、溶けかけたところに濃口と酒をまぶすように注ぐ。じゃっといったらすぐ引き上げて、山椒をふって食べる。肉を焼いた後に芹などの野菜を炒りつける。これを二回も繰り返すと、だいぶ舌が疲れてくるので、煮るときに少し出汁を加えたり、酒の代わりにビールで煮たりする。この日の献立は鴨鍋に、アテとして鮒鮓・酢茎といういたってシンプルなものだったにも関わらず、テーブルいっぱいに調味料の壜が林立する。その合間を縫って、ひとりしゃあしゃあと肉を焼いては酒を呑み、杯を乾しては野菜を炒め煮するのだから、せわしないことこの上なし。鴨が落ち穂を啄む姿とそう隔たりはないのではあるまいか。などと呟いて、また肉を焼く。要するに始終ご機嫌だったのですね。結局ひとりで鴨ロース五百グラムをぺろりといってしまった。菜っ葉や海藻ばかりの食事でも、ちっとも苦にしない代わり、肉を食うときはとことん食べるのである。

 覚悟して春を迎えることにしたけれど、やはり辛いのが花粉症。最近は飲み薬でも目薬でもずいぶんいいものが出ているから、かなりしんどさは減ったとはいえ、外出するのにいちいちマスクをするのは気ぶっせいだし、やはり頭がぼうっとしてなんとなくユーウツである。これはロマン派の特権的病なのである、と自分に言い聞かせてやり過ごしている(ドイツ・ロマン派の天才ノヴァーリスは、その断章を『花粉』と名付けた)。

 身体の不調もさることながら、この三月でついに、とうとう、北陸新幹線が通ってしまうことが、ふさぎの種。「しまう」と書いたのは、いうまでもなく東京方面からの観光客増加で、我が酷愛の、と街と芹とを同じ形容で並べる乱暴なやつもないものだが、金沢の風情が荒れて(すさんで、と言わんか)しまわないか、と憂慮してのこと。しかしながら、そこに住んで生活を持っているわけでもない人間がこういうことを言うのはやはり無責任、少なくとも不躾の謗りを逃れられないだろう。早春の金沢のめざましいほどのうつくしさを(神戸とは違って、北陸の長く暗い冬空に閉ざされたあとの春なのだ)、そう、ここはやはりノヴァーリス流に目を閉じて思い返さなければならない。

***最近読んだ本

○ツヴェタン・トドロフゴヤ 啓蒙の光の影で』(法政大学出版局、叢書ウニベルシタス)
○董若雨『鏡の国の孫悟空 西遊記補』(平凡社東洋文庫
○フランソワ・ギゾー『ヨーロッパ文明史』(みすず書房
池内紀『本は友だち』(みすず書房)…近年の池内さんは、いわゆる文学者・芸術家よりも、職人や(一風変わった)研究者など、「町のひと」の著述を心を込めて取り上げているように思える。いうまでもなく貴重なお仕事。
レベッカ・ラップ『ニンジンでトロイア戦争に勝つ方法 世界を変えた20の野菜の歴史 上下』(原書房)…書名はやや誇張が過ぎるが、食事しながら、あるいは風呂に入りながら読むのに最適。具体的なディテールがおもしろい。たとえば、アメリカ人の嫌いな野菜のワースト(トップ?)10の中には芽キャベツやライ豆が入るのだそうな。そんなもん、ふつうの日本人は一生口にせずに死んでいくぞ。
○ポール・ベニシュー『作家の聖別 一七五〇-一八三〇年 : 近代フランスにおける世俗の精神的権力到来をめぐる試論』(水声社)…論の大筋は副題にあるとおりだが、何せこのぶ厚い一冊を含めて全四巻だとかいう、怪物的なヴォリュームのロマン主義研究である。あとがきによれば、当代の第一線の研究者も学生時代にえらく啓蒙されたとか(そうだろうな)。手元において、繰り返し細部に戻ってゆくべき本なのだろう。
荒俣宏『江戸の幽明 東京境界めぐり』(朝日新書)…著者がいうとおり、珍しく「私」を語っている。それにしてもやけに老い込んできたことを強調する叙述が多い。これも荒俣流の隠居の精神衛生術というところか。
島薗進他『将軍と天皇』(「シリーズ日本人と宗教」春秋社)…天皇の即位灌頂に関する部分が面白い。これは登極に際して、宇宙の本体である大日如来と帝が一体化する秘法。ようやく幕末にいたって、公家の中からあれはおかしいという批判が出てきたのだそうな。これは逆に、いわゆる「神道」なるもののいかがわしさを物語る事実だろう。
○ミュリエル・スパーク『寝ても覚めても夢』(河出書房新社)…新刊小説を追いかけるという習慣は絶えて久しいが、これは成功だった。ひりつくような叙述とブラック・ユーモアの合間に人生の不可思議がちらりと見える。粋な小説だと思う。
○遠山美都男『名前でよむ天皇の歴史』(朝日新書)…神武から昭和帝まで、すべて書いたのは凄いけど・・・あんまりにも叙述に工夫がない。
○村上正和『清代中国における演劇と社会』(山川出版社)…「と社会」にアクセントがある。科挙知識人が役者(男同士)に溺れた、なんて事実が紹介されるから、堅い研究書だけど興味深く読める。
○長谷川郁夫『吉田健一』(新潮社)…吉田健一は我が酷愛の(あ、また使ってしまった)文学者。興味津々で手に取ったのだが、そして片手で鼻をつまむようにして結局読み通しはしたのだが、控えめに言っても感銘は受けず。日本独特の「評伝」という書き方だと、厳密な伝記的事実に筆者の推測(妄想)が大量に雑ってくるのは致し方ないとはいえ、その推測(妄想)の、殊に心理のやり取りに渉る部分において、どうにも了簡が卑しい。もちろんこれは最後まで読んだ方の卑しさをも含めて記すのだが。著者がやっていた出版社の出す本は内容の充実といい、造本の瀟洒といい、ひそかに敬意を持っていたのだけれど。結局吉田健一という存在の謎は、本人が愛してやまなかった「怪物」(ちくま文庫に『私の古生物誌』なる愉快な一冊が収まる)同様、解き明かされないままに残った。それは良かったのか悪かったのか。それを考えることから各々の吉田健一論が始まるのである。

寝ても覚めても夢

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