Ritornare a Venezia(6) (devo)partire per Giappone

 熱い風呂に長めに浸かって、炭酸水を飲んで寝たら翌朝はすっきり快復。教会の鐘が鳴る頃には散歩に出ていた。

 現金なことに我が胃袋は調子を戻したと思ったらぐうぐう鳴っておる。あちこち折れ曲がって歩き回りたかったが、コンビニがあるわけではなし、まずは確実に店があるところをということで、一昨日と同じようにホテルの前の大通りを時計回りにぶらぶら。こちらの皆さん朝が早い。まだ明け切ってないうちに、出勤らしい方がどんどん当方を抜いていく。途中のバールで焼き菓子を食べ、エスプレッソ。

 ホテルを時計盤十二時の方向に見立てた場合、四時から五時見当で文字盤中心部に向かって曲がり込んでいくとリアルト橋にたどり着くわけだが、ヴェネツィア最終日は四時でそのまま外へ外へと逸れていく。サンタ・マリア・フォルモーザ教会を抜けて更に路地を奥へ奥へ。人気が絶えどんどん道が狭くなっても焦らなくなったのが、僅か五日ばかりの滞在ながら文字通り体得したこの街の歩き方心得。

 目指すは「スキアヴォーニの聖ジョルジョ同信会」。カルパッチョ晩年の大作が一面に掛け渡してあるとか。はじめて実物を見ていきなり好きになった画家だから勢いで色々見たくなったのである。

 この「同信会」(スクオーラ)というやつ、日本語ではどうもぴんと来ませんが、江戸時代に大流行した「講」(冨士講とかえびす講)みたいなものであるらしい。教会よりもっと地縁のつながりの濃い、その分親密な集まりだったようで(ただし現在のヴェネツィアではほとんど「生き」て活動していない)、たしかにたどりついた聖ジョルジョ同信会の建物も運河側にひっそりとうずくまるようなたたずまいだった。

 それかあらぬか、観光産業への色気もあまり持たないらしく、ガイドブックで見たよりもずいぶん開館時間が遅く表示してある。その時間からゆっくり絵を見て、そこからホテルに戻ってチェックアウトをして・・・となると、繰り返すが最終日だけに空港へ行く時間までの余裕がない。

 悠々とぎりぎりまで街歩きを満喫できるほどの旅の達人ではこちらは無いので、小心翼々、これも小人らしくたっぷりカルパッチョに未練を残しながら、断念することにする。空男氏、ぜひ敵を討って満喫していただきたい。この言い方、なんか変か。

 となるとかえって時間は出来てしまう。いっそ迷うつもりででたらめに歩いていると、逆に人通りにぎやかな大きめの道に出るのも一興。なるべく地元のオッサンオバハンがたくさん入っているバールを物色して入る。ここではエビとタマゴのパニーニ、それにカプチーノ。格段不味くも旨くもないけれど、これがともかく我がイタメシの(しかし何とお下劣なことばであることか)食べ仕舞となった。

 建物の狭間から海のような光の反射が見えたので、歩いていくといきなり喧噪がはじまり(そうそう、この唐突さなのだ)、手品のようにスキアヴォーニ河岸へと出ていた。柔らかい朝の光に包まれたサンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂がひときわうつくしい。

 冷たい風を受けながら橋の欄干にもたれかかり、しきりにタバコを吹かしては考えたこと。夏の訪問で書いた感想と少し重なることを断っておく。

 それはもちろん「絵のような」美しさなのだが、ぴたっ。と決まった(歌舞伎の見得のように)美しさではなく、どこまでも捉えがたく謎めいた形象であるというところに、第一の特色があるのではないか。

 表面が仮で、真相に真実が隠れている、と言いたいわけではない。どこまでたずね入ってもふわっと手をすり抜けて、でもその夢のような手応えそのものが本質なのだとすれば、見定め難さにぶつかって当惑させられる、その惑いにおいて人はこの都市の核心に触れていることになるだろう。つまりこの探究には終わりがない。

 どの街でも住めば住むほど深い奥行きを見せてくる、という一般論(疑いない真実だろう)のことではない。譬えていうなら、同じく信徒にとっては繰り返し立ち返るべき対象であるにしても、パウロ書簡のいくつかに比べて、『ヨハネの黙示録』が本質的に一義的な解釈を定めようのない聖典である、という事情のようなものである。

 当人としてはいたずらに観念を玩んでいたつもりはない。ヴェネツィアを離れるに当たってこの旅を思い返していると、一等印象深く残っているのは、ヴァルポリチェッラの味でも聖堂の丸屋根でもティントレットの青でもなく、二日目の夜、帰り途を見失ってしまい、運河に添い橋を渡り袋小路に行き詰まりした時の、水の暗い輝きと藻の匂い、屋根が切り取る不規則な夜空の線と石畳の凹凸だった。強がっていうのではなく、いつになっても目的地にたどり着けないのではないかという微かな(微かだったかな)戦慄と恍惚を味わうだけでも再訪した価値があったようなものだった。

 空港まで空男氏が見送りに来てくれる。五日間お疲れさまでした。感謝感謝。搭乗して自分の席に行くと、横の女の子の荷物が置いてある。気が付いた女の子(韓国系らしかった)は「ミ・スクーズィ」と一言。こちらも自然と「プレーゴ」と答える。一拍おいて、お互い苦笑しあったことだった。

 乗り継ぎ待ちのドバイでは、キャビアを肴にシャンパンでひとり乾杯。これは旅の打ち上げというより、日常に戻っていかないといけない自分への景気づけのつもり。

【ランキングに参加しています。下記バナーをぽちっ。とクリックしていただけると嬉しう存じます!!】
にほんブログ村 料理ブログへ
にほんブログ村

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ
にほんブログ村