嵐の前の・・・

 これまたFBつながりで、なんと中学校時代の友人とも再会することができた。京大を出て、今は脳神経科医。で、今は研修というか休暇というか、ま武者修行中ですな、それでヨーロッパに長期滞在中。偶々日本に帰っている、と連絡があったから元町で昼食。


 せっかく初めての店ではあったが、味の方は憶えていない。それくらい互いの話に夢中になってしまったのである。何十年かというブランクなどまったく感じずに、それこそ昔のように話し続ける。ロマン主義について、ドイツ的狂気について、はたまた朱子学について。


 すっかり学生になったかのように気分が若返った半日だった。これでまた明日からは神戸とドイツ、双曲線を描いて離れていくのが不思議で仕様がない。


 さて、当方少しばかり遅ればせの正月休み。明日から四日金沢で暴れて・・・いやいや脊髄がとろけるほどのんびりして参ります。

師弟交歓?

 年の瀬、ユーキちゃんと『田ぶち』へ。三十手前の人間をつかまえてちゃん呼ばわりも無礼な話である。が、元教え子なので主観的にはどうしてもこうなってしまう。


 そんな旧師(そんな立派なものではない)の思いをよそに、いい男に成長していたのが嬉しかった。なんでも最近転職したばっかりとのこと。前の会社では幹部候補として期待されていたが、人生設計を考えて今の職場に移ることを決断したのだそうな。そこそこの年になっての転職だとしんどい思いをすることも多いと推察されるが、その苦労話も愚痴に堕さず、飄々とユーモアを交えて話すところが頼もしい。あの強情で泣き虫のユーキが・・・と心の内でそっと涙を拭う鯨馬。


 無論「ここまで育て上げた」という自慢ではない。そもそも十年近くぶりの再会で、FBがなければつながらなかった縁だろうと思う。


 そう、FB始めたのです。アナクロブログの主としてはなんとなく後ろめたいような気がしていたけど、北窓主人さんもやってらしたのを知り、これまたなんとなく安心する。日本人やなー。


 あだしごとはさておきつ。だからユーキと再会しての感慨は何より「新しい友人が出来て嬉しいな」という質のものであった。サウスピークの「まる。」もそうだが、今の仕事をしていてそう多くはない、しかしたいへん貴重な「余禄」の、これはひとつである。二つ目はと言われると困りますが。


 実際、この日はせっかく移転なった『田ぶち』への初見参だというのに、河内鴨の味もそっちのけで話に夢中になってしまい、二軒目のバーでも話し足らず、また続きをしよう!という次第となった。ま、ワカモノは「わー鴨うめー」「鴨スゲー」と興奮していたが。鯨馬にとってもマズかったわけではありませんよ、念の為。“セリ男”としては、すき焼きの具材に、この時期だけという芹の根の部分がどん、と出てきたところで、密かに取り乱していた。芹でコーフンする姿を見られて胡乱な視線が突き刺さる(ユーキと店の人と)のを惧れて密かにきゃっきゃしていたのである。『いたぎ家』だとおおっぴらにコーフン出来るのだが(もっともいたぎ兄弟も内心こちらを胡乱な目で見ているのかもしれぬ)。


 『田ぶち』さんは移転前に比べ、面積は二倍になったが席数は二つしか増やしていないそう。随分贅沢なつくりとなっている。路地風の入り口も以前の趣を残している。安いとはけして言えない店だが、いいとこだと思います。


 ユーキ氏を終電に乗せて、こちらは『イザラ』のシャンパンパーティーの、正確に言えば宴果てた後、吉田シェフが一人後片付けしているところに押しかける。互いにいい心地に酔いながら話し込み、気がつけば明け方近くというのは例年の如し。


 大晦日は『いたぎ家』アニーからの一報を受けて店へ。薬科大の元学生四人組(当方がヤッカーズと命名)のうちダイとユウが遊びに来ていたのである。「社会人になってカネあるから、ニイサン(と呼ばれている)に今までごちになった分、お返ししていきますよーうひゃひゃひゃひゃ☆」ということで奢ってくださった酒の味は甘くほろ苦く、また微かに酸っぱいものであった(山廃の原酒ですから)。


 恒例ではなかったのがおせち。今年はふと思い立って、馴染みの鮨やとバー(ビストロ?)に頼んだ。いずれも素人ではむつかしい品で堪能したあげくの感想は、やはり当方にとってはいささか味付けが濃い。おせちの本旨からして仕方ないことだが、酒を呑みながらつついていると、後でしんどくなってしまう。来年はまた自作ですかな。せっかく松本行史さんの、うってつけの手箱も手に入ったことだし。


 二日の夜は名古屋コーチンで鶏鍋。今時うれしくなってしまうくらい、むうっと鶏くさい鶏で(臭いのではない)、これは水炊きでは鶏自体の味を受け止めかね、かといってすき焼きでは後半がしんどくなってしまうだろう、という判断で出汁鍋とした。これは我ながら大正解だった。水炊き、あるいはすき焼きのほうが絶対にウマいっ、というやつは出てこい、いつでも相手になってやる。
※「相手になる」・・・「そうだんなあ、あんさん言やはるとおりでんなあ」と相槌を打ちつつ一献汲むこと。


 ヤッカーズの振る舞い酒が効いたのか、帰宅後、風呂に入るとあっというまに沈没。元日の第一食が年越し蕎麦というていたらくでありました。休みが短かく、本の感想も書けない。長谷川宏訳のヘーゲル(『哲学史講義』河出文庫)を読み続けていたが、読んでも読んでも終わらないので(現在第二巻の途中)、先延ばしとなります。


 ともあれ今年もアナクロブログをよろしくお願いします。


 吉例の戯れ歌一首。

丁酉はじめの日に
 鳥がなくあづまの野辺にのぼる日の東天紅ととそのほろ酔ひ 碧村

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年の瀬怒り日記

 一月に友人の結婚祝賀会をする。会場は拙宅なので、当然料理も出す。これが『いたぎ家』ブラザーズとかをお招きするんだったら完全にこちらの趣味でハードな献立を組めるんだけど(ぜんぶ発酵食品のコースとかね)、今回の会は若い女性も多いからそうもゆかぬ。色々料理の本を漁ってアタマをひねる。

○『イタリアの地方料理 北から南まで20州280品の料理』(柴田書店)・・・わたくしは柴田書店の本に埋もれて死にたい。
○山根大助『全力イタリアン  「ポンテベッキオ」が求める究極の味』(柴田書店)・・・山根さんの料理に埋もれて死にたい。
○岡田幸造『はち巻岡田の献立帖  江戸料理の百年』(世界文化社)・・・関西「風」懐石が席捲した今となっては、江戸料理の数々がじつにヴィヴィッドにうつる。
○野崎洋光・江崎新太郎・堀内誠『やさい割烹 日本料理の「野菜が8割」テクニック』(柴田書店
○川崎誠也ほか『ジビエ・バイブル 野鳥、熊、鹿、猪、ウサギ…素材の扱い方から料理まで』(ナツメ社)
○依田誠志『ジビエ教本 野生鳥獣の狩猟から精肉加工までの解説と調理技法|』(誠文堂新光社)・・・うーむやはり熊撃ちにゆくべいか。
○ガブリエーレ・ガリンベルティ『世界のおばあちゃん料理』(小梨直訳、河出書房新社
○谷部金次郎『天皇陛下料理番の和のレシピ』(幻冬舎

 結局献立は出来ず、自分の愉しみとして舌なめずりしながらページを繰っているだけとなった。さてどうなりますか。

 その他の本も。
青柳いづみこショパン・コンクール 最高峰の舞台を読み解く』(中公新書)・・・各コンテスタントの演奏を叙述する文章がすばらしく上手い。といっても鯨馬は楽器は何一つ出来ないし、ショパンにも興味はないのだが。
桐原健真『松陰の本棚 幕末志士たちの読書ネットワーク』(歴史文化ライブラリー、吉川弘文館)・・・もっとみっちり情報と考察が詰まった分厚い研究書で読みたかったぜぃ。
○田口章子編『日本を知る「芸能史」』(雄山閣出版)・・・DVD付けて欲しかったぜぃ。
藤井貞和『日本文法大系』(ちくま新書)・・・ホントに、新書一冊で「大系」しちゃってるのである。著者の「畸人」ぶりについては我が師匠野口武彦のウェブサイトで紹介されているが、通読すると、小林信彦氏の言い方に倣えば「目がテンになる」。
○平岡聡『「業」とは何か 行為と道徳の仏教思想史』(筑摩選書)
○石橋正孝・倉方健作『あらゆる文士は娼婦である 19世紀フランスの出版人と作家たち』(白水社)・・・面白く読んだのだが、達者すぎる文章が少しく耳障り。
○エリック・ワイナー『世界天才紀行 ソクラテスからスティーブ・ジョブズまで』(関根光宏訳、早川書房)・・・同じ饒舌でもアメリカ人ジャーナリストだといかにもそれらしいのであまり気にならないから妙なものである。ウィーンを語るのにショースキー、蘇東坡で林語堂ではあまりに資料がカビ臭くはないですか(急いで付け加えると、林語堂『蘇東坡』は名著であり鍾愛の書である)、などと野暮なことを言わず、お風呂でぴゃーっと読んじゃうのに最適の一冊です(最近フロで読書する癖が付いた)。
○『病短編小説集』(平凡社ライブラリー)・・・「ゲイ」「クィア」「BL」などと続くシリーズ(?)のうちの一冊。たしか筒井康隆さんが編集した同趣旨のアンソロジーはもっとインパクトがあったはずだ。あれはどの文庫に入ってたのだろう。今更らしくソンタグなぞを持ち出すまでもなく、「病気」は形而上的にして存在論的ないいテーマだよなー。あ、日本私小説の「病人文学」みたいなゲテモノは別ですよ。
○ミシェル・ヴィノック『ミッテラン カトリック少年から社会主義大統領へ』(大嶋厚訳、吉田書店)
○中村隆文『カラスと亀と死刑囚 パラドックスから始める哲学』(ナカニシヤ出版)
中野好之・海保眞夫訳『スウィフト政治・宗教論集』(叢書ウニベルシタス、法政大学出版局)・・・「あの」スウィフトが真面目に道徳を語るとそれだけでブキミに響くという、この奇観。

 しかし何と言っても、

○沢井啓一他注『徂徠集 序類』(東洋文庫平凡社)・・・という企画が素晴らしい。儒者の真髄、主著よりもむしろ片々たる小篇にこそひそむのである。今までは頼山陽くらいにしか単著はなかったように思う(竹谷長二郎『頼山陽書画題跋評釈』、明治書院)。どんどん色んな儒者について出してほしい。


 食べたものでは・・・

○『海月食堂』の「渡り蟹の煮込みラーメン」・・・炭水化物(固形)がキライな人間を驚倒せしめた味。ホントは3〜4人前の品を無理くり一人前で作ってもらった。隅から隅までカニの内臓で、麺もカニミソにまみれている。もう、なんというか、食べてるうちに「こんなに旨味を詰め込んだらあかんやろ」と沸沸怒りが湧いてくるような味である。敬士郎シェフに「こーゆーのは良くないっ」とぷりぷり文句を言いながら完食。あまっさえ残ったスープで雑炊まで作ってもらってしまった。ふだん冷遇してる炭水化物(固形)に復讐されたような按配であった。敬士郎さんはニコニコしながらこちらの文句を聴いていた。
○『アードベックハイボールバー』の「ヤマシギのロースト」・・・「このジビエはもう、《高級焼き鳥》として出すよりテがないです」とは前田シェフの言。肉質は鶏の胸肉みたいで、かなりパサついているのだが、噛みしめると瞠目すべき旨味が溢れる。滅茶苦茶に濃いのである。浅蜊を大量に使って引いたフュメにトマトのエキス(甘味抜き)を加えたような味がする。ニクなのに面妖なことである。あるいは卑俗な喩えで恐縮だが、ポテチのコンソメ味をべろべろ舐めたらするであろうような味がする。これももちろんぷりぷりしながら、ばりばり骨までかみ砕いてしまう。オレが狐や羆だったらヤマシギばかりを追いかけるであろう、と思う。あ、あとキクイモのペースト(トリュフ入り)も素晴らしかった。前田さんは「あと一羽ありますが、注文がなければボクが食べちゃいます。もちろんお客様からご要望があればお出ししますが、無ければボクが食べます」と語っていた。心底注文が出て欲しくない、という口調であった。
○某洋食店の「鹿のオーソブッコ」。鹿でオーソブッコというのもヘンだが、ともあれ足をどん。と輪切りにしたやつを濃い血のソースで煮込んで出てくる。もちろん真髄は髄の部分にあるので、スプーンでほじくりだしてはせっせと口に運ぶ。言うまでも無いことだが、ぷりぷりしつつ平らげた。ここは初めてだったが、いきなり「お気に入り」登録(キノコのクリームスープも凄かったなあ)。店名は仔細あればしばらくは秘す。ヒントを言うと、「元町のパンダ食堂」であります。

 それにしてもぷりぷりし続けた一月であった。

 では皆様よいお年をお迎えください。

徂徠集 序類 1 (東洋文庫)

徂徠集 序類 1 (東洋文庫)

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「謎は解けた」のか?

 「読書にいそしむ」と言った翌日に、FFⅩⅤが発売になることを失念しておりました。コアなゲーマーではないけど、会社勤めの身でRPGをしていると結構プライベートの時間を喰われてしまう。またこの新作が、オープンワールドという作りになっていて、シナリオとは関係なくいつまでも釣りやキャンプで過ごせてしまう(だからまだクリアしていない)。


 CG?そりゃやっぱり綺麗でしたよ。オルティシアなる水上都市が、露骨にヴェネツィアをモデルとしているのが嬉しい。ゆっくりゴンドラで水路をたどる映像にはうっとりしました。難点は、登場人物たちの歯並びがなんだか不自然なこと。どうも某国次期大統領の口元を連想してしまって、ゲーム世界に没入しようとするのに具合が悪いのですな。追加コンテンツでの改善をつよく希望する。


 ゲームばっかりしてた訳ではない(と偉そうに言えるほど読んでませんが・・・)。

山口瞳選『人生の読本』(日本ペンクラブ編、集英社文庫
清水俊二『映画字幕五十年』(ハヤカワ文庫)
○アントニオ・G・イトゥルベ『アウシュヴィッツの図書係』(小原京子訳、集英社
○ヘルムート・コーイング『法解釈学入門』(松尾弘訳、慶應義塾大学出版会)
○シンシア・バーネット『雨の自然誌』(東郷えりか訳、河出書房新社
湯本豪一『図説・円と日本経済 幕末から平成まで』(国書刊行会
永井龍男『東京の横丁』(講談社文芸文庫
飯田隆『規則と意味のパラドックス』(ちくま学芸文庫
○フェルナンド・イワサキ『ペルーの異端審問』(八重樫克彦・八重樫由貴子訳、新評論)・・・ル・ロワ・ラデュリの名篇『モンタイユー』の南米版とも言うべき本。カトリックの坊主どもの堕落と腐敗が徹底して笑われる。

○ハニヤ・ヤナギハラ『森の人々』(山田美明訳、光文社)・・・引っかかる小説。単なる愚作ならわざわざ取り上げないが、どうもそうではなさそうな様子なので(曖昧な表現で申し訳ない)少し書く。※以降、ネタを割っています。要注意!
 さる南洋の島で不死の人々(凄い設定でしょう)を発見した学者が主人公。島での調査を回想する部分が物語の大半を占める。そのいわば外枠に当たるのが、主人公ノートン・ペリーナをめぐる裁判沙汰(島から連れ帰って養子にした少年少女への性的虐待疑惑)である。最後に真相が明かされるようになっているから、ま、ミステリー仕立と見ていいんだろうが、ペリーナがクロであることは読み始めてすぐ分かると思いますよ。「衝撃のラスト」なんて宣伝文句がついているけど、それは慈善家と見られていた著名な学者が未成年を強姦していたという、いわば社会倫理的にモンダイな事実なのであって、物語の論理としては少しもショッキングではない。
 なぜか。ペリーナが、いかにも卑小で歪んだ自己意識を持った碌でもない人間として、終始一貫描かれているからである。客観描写ではなく、ペリーナの語りが基調を成すにも関わらず、というかむしろそれ故にこの男のグロテスクな自己中心主義がいやが上にも強調される仕組みになっている。被害者の少年には悪いが、「そりゃ強姦するでしょう」と言いたくなる。不審なのは作者がどういうつもりでこういう書き方をしているのかが見えてこないこと。ヤナギハラ氏自身に見えてないとすれば、それこそ「単なる愚作」であろうし、ペリーナが体現する植民地的発想や人種的偏見、そして何より卑しい人間性を嘲笑するにしてはなんだかペリーナの語りに作者が絡め取られてしまっているようでもあるし・・・(イーヴリン・ウォーが登場人物を引きずり回す時の情け容赦ない手つきを思い起こしていただきたい)。
 嘲笑や寓意というなら、《不死》というとんでもないテーマ(これは貶しているのではない)の扱いもそう。ペリーナが学説を発表して以降、島の「文化」が「資源」と見做され、資本主義の食い物にされてみるみる荒廃していく有様を叙する部分はグローバリゼーションの諷刺ととれなくもないが、ペリーナ裁判というプロットとの関わりが余りに希薄すぎる。
 「圧倒的な世界観」なんてものすごい惹句を使った訳者にしても、もっと丁寧に解説する義務があると思いますよ(「訳者あとがき」からはほとんど情報が得られない)。
 ジャングルで遭遇する珍奇な動植物の、言ってみたら「幻想博物誌」的味わいは棄てがたいものがある。やっぱり次作に俟つよりないのか。


 軽い気持ちで読み始めた(誤解が無いように注しておくと、丁寧に書かれた、いい本です)
○青木直己『下級武士の食日記 幕末単身赴任』(ちくま文庫
があまりに面白かったので、本書の主役である酒井伴四郎なる紀州藩士の日記などを翻刻し解説した
○『紀州藩士酒井伴四郎関係文書』(小野田一幸・高久智広編、清文堂出版
も図書館で借り出して読んだ。伴四郎さんが酒好きでついつい飲み過ぎてしまうのを克明に日記に書いているのも愉快だし、また「叔父様」(であり上役でもある)の無神経な人柄に閉口している(またそれを隠さずに書いている)のも、幕末の人間と直に対話しているようで面白い。現代日本の小説はとんと読まない方なので、知らないけどこれを元ネタにした時代小説もきっと書かれてるんだろうなあ。



 最近美味しく食べたもの。
○『いたぎ家』の蛸のカルパッチョ・・・無農薬の田舎野菜を売りにする店で海鮮モノを挙げるにはいかにも鈍な選択だ。でも美味しかったんだからいいじゃない!これが梅肉ポン酢和えとかだったら「そうですか」で終わるところ、ぴしっと角の立ったソースを使ったのが良かった。家に帰ってから「あ、これはアニーの推す生原酒に合わせて味を選んだのであるな」と思い至ったのは我ながら迂闊なことだった。
○『海月食堂』の子持ち鮎の燻製とパクチーの和えそば・・・なんというか、イケナイ味である。人間のヤバイ部分を刺戟してくる味である。立て続けに頬張ったのを嚥み下したそばから「あぁーーっ」と叫びたくなる。
○『ARDBEG HIGHBALL BAR 』のエゾライチョウのロースト・・・事前に脅されていたようには臭くなく、むしろ爽やかな香りを堪能できた。細やかな旨味がいわば襞のように折り重ねられているのも面白い。これで今月末に山鴫を食べに行けばジビエ三部作は完結することになるのである。
○蟹糝薯の椀(蕪あん仕立て)、鰯と菊の手まり鮨・・・わはは。これは自作じゃ。

森の人々

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中食評判

 このところちっとも書物のうわさを伺っておりませんが、十一月はたまたま休日に出る用事が多く、実際なかなか本が読めなかった。


 展覧会はふたつ。一つ目は国立国際美術館『アカデミア美術館蔵 ヴェネツィアルネサンスの巨匠たち』。ま、当方にとっては『舞踏会の手帖』的な意味合いの展覧会というわけ(あれからもう一年「も」経ってしまったのだ)。“神の如き”ティツィアーノの『』受胎告知』『アルベルティーニの聖母』やリチーニオ『女性の肖像』(こーゆー酒場女と放蕩したい)はじめなつかしの絵を見ては熱涙をぬぐい、すっかり贔屓になったカルパッチョの『マリアのエリザベト訪問』(これは初見)ですっかり喜んでしまい、という感じで充実した展覧会。ヒエロニムスなど、陰鬱な聖者像には相変わらず強烈な違和感をおぼえたが。キリスト教はつくづく“救いの無い”宗教だと思う(イエスの説教はひょっとしたら別なのかもしれない)。注文ひとつ。「ヴェネツィアの歴史」てな紹介ヴィデオを流すのはよろしいが、せめて絵を見て回る区域には音の流れないように工夫できまいものか(音声はヘッドフォンにするとかさ)。ティツィアーノの聖母の静かな哀しみを湛えるプロフィールに見入っていて、頓狂なアナウンスを聞かされるのは、ものすごく苦痛です。


 この日は新地の近くで昼食。唐揚げ定食をナイフフォークで食ってるバカがいた(洋食屋ではあったが・・・)。


 翌週は朝からまず東遊園地の「イートローカル神戸」へ。『いたぎ家』が茶粥で出ていたのである。茶粥は旨かった(やはり大量に炊いたほうがよい)。少し寒かったら尚更味が引き立っただろう。卵やハーブなど、買いたい品はあったものの、その足で神戸市立美術館の『松方コレクション展』に向かうつもりだったので、諦めることにする(ナマタマゴを持って美術展に入ろうとしたら、騒動になるんだろうなあ)。「イートローカル」の催しはずっとあるわけだし。さて松方コレクションは、大袈裟に聞こえるのを承知で言えば目の眩むようなヴォリューム。一点一点丁寧に付き合っていたら肩が凝って仕方ないから、はじめにざっと回って、気に入ったものだけを後からゆっくり見ることにした。シャルル=フランソワ・ドービニーというやたらと達者な画家の大気の質感と、ジュール・バスチアン=ルパージュという画家のくすんだ叙情がめっけもんだった。


 この日は久々に『天ぷら定食 まきの』で昼食。塩辛でビールを四杯呑んでるバカがいた(それはわたくしである)。


 それに桂吉弥さんの落語と『ひの』さんのお招きにあずかってございましょう。モウ忙しくって(このあたり圓生演ずるところのお婆さんの口調で)。まだこの上に国立文楽劇場の『錦秋文楽公演』があった。

 昼夜両方を一日で見た。これはある程度体力がないと出来ないことである(と思う)。始まる前に、近くのたばこ屋の角でコーヒーを啜っていると、吉田玉男さん吉田和生さん鶴澤寛太郎さんが地下鉄の出口から上がって目の前を通り過ぎていった。心中では「わーきゃー」と言っていた。

第一部。
 『花上野誉碑』。主人の遺児の唖が治るようにと、乳母が自害して金比羅権現に祈るところが見所。なのだが、主筋と乳母の自害とが密に絡んでこないから、お辻さんが気の毒でのんびり浄瑠璃と太棹を愉しむという気になれない。
 『恋娘昔八丈』。悪人がせいぜい下衆の番頭くらいなので、もひとつ盛り上がりに欠ける。
 『日高川入相花王』。いまだに幼稚なところがある鯨馬としては、大蛇と化した清姫が川を渡っていく時のケレン味一杯の演出に大よろこび。大体が、《逃げる男を追う女》というモチーフに妙に惹かれるのである。ま、逆に《逃げる女を追う男》では単なる痴漢になってしまいますがね。学部の演習で『雨月物語』を読んだ時、自分から「蛇性の婬」を志願したのを覚えている。だから岸辺で嘆く清姫の演出にもう一工夫欲しかったなあ。今のままでも結構凄みは伝わってくるのであるが。

 第二部。
 『増補忠臣蔵』。前に座っていた二人組のおばはんが、幕間に「ぜんぜん筋がわからへん」と文句を言っていた。ちゃんとパンフレットのあらすじなと読んどきなはれ!・・・いや、しかしこの浄瑠璃は『仮名手本忠臣蔵』を、それも通しで一回は観ておかないと面白くもなんともないのかもしれない。東京で『忠臣蔵』通しをするお詫びという意味で入れたのだろうか。
 『艶容女舞衣』。結局これが一等面白かった。切の鶴澤寛治さんの三味線も良かったし、中の文字久太夫さんの克明な語りも良かった。最後の愁嘆場で、店の外に《つい居て》中の会話に耳を澄ます紫の頭巾の三勝(簑助さん)の姿も哀切だった。だからこそ「思はず乳房を握り締め」という義太夫の詞章が余計にずきっと突き刺さってくる。当方はこの作、舞台では初めて。それまでは豊竹山城小掾のディスクで聴いていた。半七の手紙を残された家族で順繰りに回していくところ、聴くだけだと不自然ではないのに(というよりレーゼ・ドラマとしてはむしろ自然というか必然)、舞台だと少し間延びして見える。浄瑠璃がいいところだけにどうにも演出を変えようがないのかもしれないけど。
 『勧進帳』。弁慶の飛び六方による引っ込み(花道を使う演出は久々とのこと)はたしかに見応えがあった(弁慶は吉田玉男さん)。正直に申せば、しかし、全体としては退屈でした。これは何と言っても富樫弁慶の対決にドラマの勘所があるのだから、せめて『妹背山婦女庭訓』のように、太夫が両側に分かれて張り合うくらいの演出をし、二人の男の個性の違いを際立たせねば意味がないのではないか。能の儀式性とも歌舞伎の緊迫(海老蔵の富樫の、覚悟を決めた表情が忘れ難い)とも、どちらとも付かぬところに終わってしまったのが残念。

 全体に戯曲の選択と演出の再検討をしないと、今なんとなく客の入りが増えてる中、折角の文楽興隆の好機をみすみす逃してしまうことになりかねないと存じます。新春文楽公演(『廿四孝』「狐火」が出るのだ!)に期待してますよ。


 この日の昼食は作っていった。鯛の昆布締めと鯖・鰺のきずしを押し寿司にしたのと、古漬け胡瓜のかくやと生姜を具にした巻き寿司と卵焼き。これでカップ酒をきゅきゅっと呑む(ちびちびする程の時間の余裕はない)。隣でコンビニサンドイッチを頬張っていた着物のおばはんが羨ましそうにこちらの手許を見ていた。ぬははバカめ(バカというほうがバカなのよ!)。


 それで、仕上げが結婚式である。もちろん当方のことに非ず(こうあっちこっちふらふら出来る自由を手放してたまるものかい)。父方の従妹が高知出身の彼氏と結婚することになり、高知まで招待してくれた。

 老父と二人小旅行するのはかなり気ぶっせいだったが、思いの外愉しめた。これはやはり飯が旨かったせいだろうな。

 初日の昼は桂浜をぶらぶら歩く。親父と一緒に水族館見物をすることがあろうとは思わなんだ。昼食は鰻。こちらは白焼きとうざくで酒を呑む。鰻重も白焼きも同じく一匹使うのに、白焼きには肝吸いが付かないのが不思議でならない。帯屋町の商店街で入った古本屋で、由良君美『みみずく偏書記』(ちくま文庫)と佐藤春夫上田秋成』(桃源社)を買う。後者に収める文章のいくつかは先ほど書いた、「蛇性の婬」の発表で議論のきっかけとして使ったように思う。

 夜は『黒尊』なる魚料理の店。アニーが親切に紹介してくれた店が予約できず、こちらになった。店主が喧しい(文字通りの意味でね)のとペースが早いのはこちらの好みに合わないが、味はさすがによろしい。石鯛と鰤(ニンニクの葉を酢味噌に擂り込んだのをまぶして食う)、就中鯨の煮込みがすばらしい。父親も「旨い旨い」と連発していた。老人と酒呑みの二人連れのこととで、じつはコース(?)の半分くらいにしか到達せずに出たのが遺憾であった。焼き魚や煮魚もきっと旨いんだろうな。

 あとは自由行動。こちらはもちろん飲み歩く。土佐酒専門のバーも、そこで紹介してもらったオーセンティックバーもみなよろしかった(二軒とも二日つづけて行った)。ことに日本酒の安いこと安いこと。そうそう、女の子がうつくしいことも特筆しておかねばならぬ。この日本酒バーにいた、首が長く少しあひる口でハスキーな声の女の子。ふだんの好みとはズレてるにも関わらずくにゃくにゃになるほど可愛かったなあ。鯨馬がこの町に住んだら、あっという間に病気になってしまいそうな気がする。

 次の日の蕎麦屋(今年初の新蕎麦だった)も、最終日に食ったうどん(牡蠣と青海苔)もみなよろしい(むろんどこでも呑んでいた)。結婚式の印象については、従ってあまり書くことがないのである。おめでたくてにぎやかで感動して、というお定まりであることが一等重要なのがこうした儀式の本質なのだし。今回もしかし、まあよく呑んだな、我ながら。


 十二月入ってすぐの連休は、蟄居閉門の上、読書にいそしむことにしよう。
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(お)こぼれ話

 『播州地酒ひの』七周年の御祝い・・・だったらこちらがする方になるが、ひの御大が常連客を東加古川の焼肉『京城苑』に招待してくださった。すさまじい太っ腹である(体型のことを言うに非ず)。ここは佐賀の黒毛和牛の雌、しかも赤身を専門とする店。同じ卓のO先生が「ほんとに綺麗に掃除してるね」とコメントしたとおり、スジやアブラは丁寧に除かれている。学生ならともかく、四十路の人間にはこの方がうれしい。でなきゃ、煩をいとわず並べていくが、

○前菜二種(ローストビーフのサラダと肉のにぎり)
○ウワミスジ
○クリ
○トウガラシ
○タン
○ハラミ
○サガリ
○ラムシン
○ラム
○センボン
○カメ
○マルシン
ミスジ
○イチボ
○焼きしゃぶ
○テッチャン
○レバー
○ミノ

なんて品揃え、最後まで美味しく平らげることなんて到底出来なかったはず。足のどこやらの部位の味の深さも愉しんだが、尤物はやはりタン。B5用紙をタテ半分に裁った大きさ、つまりタンをタテに切っており、紙のような薄さながら(だから焼くのは一瞬)、白髪ねぎを中にくるくると巻いて食べると、面妖なことに噛んでも噛んでも肉汁がわいてくるのだった。最後に出た冷麺のスープも贅沢に牛骨牛肉を使ってるのがはっきりわかる味でした。

 もっともフリの客が行ってもここまで出るかどうか。『ひの』の常連さんだったという店長夫婦のあふれんばかりのサーヴィスであったことは想像に難くない。酒は飲み放題だったが、みな肉に集中してたようで、酒はさほど進まず。その余禄で『ひの』名物の剣菱樽酒を一升せしめることが出来た。

 剣菱の白樫常務ともお話出来たし、あまっさえエムケイの送り迎えが付き(電車で行くと結構手間な場所にある)、なんとも贅沢な時間を過ごすことが出来た。親分、改めて御礼申し上げます。

 ひのさんの衝撃宣言についてはここには書かない。

 本来なら翌日は、家で牡蠣鍋かなんぞをつつきつつ樽酒を愉しむところだが、たまたま『海月食堂』で食事をする予定だった。献立は以下の如し。

○前菜盛り合わせ(よだれ鶏、落花生、人参と柿のラペ、茹で落花生、木の子のマリネ、焼き豚、秋刀魚の燻製とザーサイ)
○スッポンと手羽先の薬膳スープ
○揚げ物(松茸と鱧の春巻き、海老のアーモンドトースト)
○ソフトシェルクラブの炒め物
○鯛ときのこのフィルム蒸し山椒風味
○鹿肉のソーセージ、押し麦を添えて
○点心(合鴨とぶどうの揚げ餅 烏賊とセロリの水餃子)
○フカヒレの姿煮 おこげ仕立て
○デザート(キンモクセイの塩アイス タピオカ入りカスタードタルト )

 皮のカリカリした焼き豚と優雅な風味の春巻きもさることながら、鹿肉のソーセージがじつにいい。鹿独特の鉄っぽい味に、熟成による酸味が加わり、香辛料とからまりあって旨い。紹興酒をいつまでも呑み続けたくなる味。キンモクセイのジャムを入れたアイスも洒落たものでした。岩元敬士郎シェフの料理はいつもどこかではっ。とさせるひと味を持っている。癖になるんだよな。

 「これでこの値段で、いいんですか」と店員さんに訊くと「一四周年のスペシャルコースですから。ただ、いつまでも続けてると赤字になっちゃうのでほほほほほ」との返答であった。つまりはここでも店側のサーヴィスにあずかったことになる。

 最後顔を出した岩元さんに(滅多に表に出てこないからコロポックルさんと勝手に命名している)「鹿ソーセージはどうか通常のメニューに入れて下され」と頼んでおいた。
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菱岡さんと久足さん〜双魚書房通信員外 菱岡憲司『小津久足の文事』

 菱岡憲司さんの『小津久足の文事』(ぺりかん社、5400円)が出て、これが実にいい本である。どうあっても双魚書房通信に取り上げるべし、と思っていたところ、飯倉洋一氏の忘却散人ブログで紹介されていた。順番を競うものではないのだが(いや、やっぱり口惜しい)、そして何度取り上げられてもいい価値を持つ本だとは思うのだが、こちらが書きたかったことをぜんぶ、ものの見事にぜんぶ、飯倉先生が書いてしまっているのである。書評のタイトルは「菱岡憲司の文事」でキマリやな、とひとりほくそ笑んでいたのに、これもばっちり使われている。菱岡さんの贔屓筋としては残念でたまらない(拙ブログ「懦夫をして起たしめるもの」ご参照ください)。熱愛発覚のニュースに接したジャニーズファンの心境である。だからやけ食いやけ酒をしたのである。牡蠣のグラタンと猪肉のパテでワインを呑み、穴子の南蛮漬けで滋賀酒を呑み、和牛のラグーソースのパスタでアードベッグハイボールを呑み、ぼんち揚げをかじりながら焼酎の水割りを呑んだのである。


 しかし悔しい口惜しいと繰りかえすだけではなんぼなんでも大人げない、と反省した(で、今これを書いている)。


 以下、内容は飯倉先生のご指摘とほとんど重なりますが(口惜しい)、ファンとしての感想を少しだけ。


 学者とその研究対象との出会いにはまことに不思議なものがある。こう結びつくより無いわなあ、という《縁》が感じられるのだ。菱岡さんと同じ日本近世文学の中から例をあげるなら、高田衛上田秋成。揖斐高と柏木如亭。ね。まるで筍の旬に新若布と木の芽が出て、河豚の旨い時季に橙が生るようなものである(高田先生、揖斐先生、すいません)。あるいは、そういう対象に巡り会えるということ自体が学者の才質の証明になるのかもしれない。


 菱岡さんと小津久足もまた同じ。ご両名とも残念ながら御目にかかったことはないけれど、まるで右手と左手がぴったり合わさるように似ている、と思う。


 そう感じさせる理由は、一つははっきりしている。共通する精神ののびやかさである。小津久足は松坂の町人にして、本居春庭、つまり宣長の長男の門人(しかも宣長と同じ小津一族の出身なのだ)というがっちがちの環境にありながら春庭も宣長賀茂真淵でさえも批判し、その紀行文を読んだ馬琴に(あの頭の高い馬琴に)「後生畏るべし」と言わせた男である。国学漢学いずれの束縛からも自由にものを考えることが出来た一箇の畸人である。菱岡憲司「北窓書屋ブログ」中の「小津久足アネクドーツ」参照。


 菱岡さんは篤実敦厚の学究でありながら(恩師先輩への感謝を綿々と叙したあとがきからも分かる)、専攻とする領域に跼蹐することなく、広く世界の文学を愉しみ、またそれを自分の血肉と化すことの出来るひとである。なんせ光文社の古典新訳文庫を片っ端から読んじゃうんだからね。単に教養として読むんではなく、一作一作と丁寧に付き合い、そこに自分の好みの筋をぴしっと通しているところがすごい。本書には別段カタカナ名前の作者作品が引用参照されているわけではないが、その背景が行間にじわっとにじみでている。現象的に言えば、文体の気品である。いたずらに晦渋にならず、暢達よく意をうつし、しかも冗長に流れない。つねに文学と初々しく―ということはつまり真摯に―向き合っている姿勢(まるで、星みた子犬のように)も好もしい。


 しかし学問が機械的な分析でも作業でも無い以上、どこまでも幸福なる蜜月の状態をよく保ち続け得るものかどうか。ぎくっと、ひやっとさせられるものともとことん付き合うのが他ならぬ文学の研究であると思う。先に挙げた高田先生揖斐先生のお仕事を拝見してつくづく思うのだが、学者が対象を発見する以上に、対象は学者そのものを形成していく。


 菱岡憲司さんの文事、これからもじっくり付き合っていきます。


 それにしても、久足紀行文の雄篇と仄聞する『陸奥日記』、はやく出ないかなあ。

小津久足の文事

小津久足の文事

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