御位争い

 

 盆の時期は出勤にしてもらって、業者も来客もないしづかな職場で溜まった仕事を片付ける。その分は秋頃に旅行の為に使うことが多い。先週末の三連休はだから、当分は無い連休だったのだけれど、旅行はおろか一歩も家を出ずじまいだった。『ゲーム・オブ・スロウンズ』を立て続けに見ていたせいである。

 

 三日間で第五シーズンの途中まで、つまり四五時間は画面に食いついていたわけ。こんな経験は『ヱヴァンゲリヲン』か『ツイン・ピークス』くらいでしかしたことがなかった。

 

 今頃見始めたんかい、と莫迦にされても仕方がない。三年ほど前に某店のネエちゃんに熱烈に勧められていたにも関わらず、なんとなく気ぶっせいで放っておいたのだった。

 

 それにしてもまあ、これでもかというくらい執念く権力闘争と虐殺と陰謀が続いていく辺り、ヨーロッパの連中はさすがにタフだなあと思いました。我が『グイン・サーガ』ですら後半はあてどない感懐のたゆたいが主になってたしねえ。映像の美しさもさることながら、思わず笑い出してしまうほど、筋立てがコテコテしてるところを存分に愉しみました。そういう点では山田風太郎のある種の作に近いのかもしれない。

 

 一等気に入ったのは《小鬼》ティリオンの筋。悪辣にして陽気、野卑にして善良、おまけにシャイロックめいた長大な名演説もあって、泣かせるではありませんか。

 

 王冠をめぐる果てしない争いが、題名通りに主筋ではあるのだろうけれど、一体にこのドラマ・シリーズ、脇のエピソードに味があるのがいいね。ジェイミーとブライエニーの道中とか、ジョン・スノウとサムウェルの友情とか。そうそう、ジョン・スノウみたいな(キット・ハリントンみたいなと、言うべきか?)超絶オトコマエが、恋人に大剣で頭をポンポンはたかれる場面なんぞ、呑んでたワインを噴いてしまったほどである。あ、この三日は買い物にも行かず、ひたすらビールとワインとバーボンを飲んでました。人間、意外に食べなくてもやっていけるものである。

 

 閑話休題。いや、本題も充分閑話でありますが。ファンタジーのいいのは、人間どもの地獄絵図をさらに《外》から撃つ視点が持ち込めるというところにあって、とはつまり、北の《壁》の向こうのバケモノどもがいつ越えてくるのか、というサスペンスが物語の枠を引き締めているのは間違いない。果たしてどう収束させるのであろうか。

 

 最終シーズンの公開はまだ当分先のようだから、残した第五の後半から第七までをいつ見たものか。まことに悩ましい。それよりもまず、この悩ましさと、架空世界にずっぽり浸り込む快感とを語り合える友人、いないかなあ。

 

【ランキングに参加しています。下記バナーをぽちっ。とクリックしていただけると嬉しう存じます!!】

 

<a href=にほんブログ村 料理ブログ 一人暮らし料理へ

にほんブログ村 グルメブログへにほんブログ村 グルメブログ 食べ歩き飲み歩きへ

にほんブログ村 本ブログへ にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ

魚菜記

 八戸から戻ってこの方、神戸にいる自分がどこか「虚仮なる人」のように思えてならない。向こうの最高気温が二七、八度なんどという情報を見るにつけ、余計にそう思う。あまりの暑さで、近所の平野祇園神社の祭礼にもお詣りしなかったくらいだものな。御許しくだされ素戔嗚さま。風流を愛でおはします御神なれば、「猛烈な暑さ」の下、犬の如く喘ぎ喘ぎ石段をよろぼひ登る苦行はよもことほぎ給ふまじ。それにしても「猛烈な暑さ」よりまだ気温が上がったらどう表現するつもりなのだろうか。上方なら「えげつない暑さ」と言えば足りると思うが。

 

 休みも家にいることが自然と多くなる。遮光カーテンを閉め切った部屋で、テレビも見ず、最近はゲームもせず、本を読むのは常のこととしても、いささか時の過ぎゆき方が単調になりがち。目の法楽でもすべいかと思い立って、綾波レイの特大ポスター・・・ではなく、観賞魚を久々に新しく買ってきた。水草のみで遊ばせていた小水槽二本に、ドジョウ(マドジョウとスジシマドジョウ)とミナミヌマエビとをそれぞれ投入。砂にもぐったドジョウが間の抜けた顔だけを表に出している眺めは誠に愛嬌があるし、ミナミのちょこまかした、それでいて魚とは異なり不思議と騒々しさのない動きも見ていて心落ち着くものである。

 

 ベランダの睡蓮鉢にも「黒メダカ」(とペット屋では書いていたけど、カダヤシちゃうかしら)を放ち、新開地「ふみ」のおかあさんから頂いた茗荷の苗を大きなサイズの箱に植え替え、ついでに茄子も剪定し、芹三ツ葉の枯れた葉を除く。そうそう土用なんだから、梅漬けも乾さねばならぬ。

 

 マンションの二階だから、ちょうど目の前にケヤキの葉むらが揺れているのだが、幹にとまった蝉は鳴きもせず、動こうともしない。

 

 まぼろしの雷声のなか蝉ねむる

 三伏や蝉鳴く前の一刹那       碧村

 

 ここまではもっぱら観るほうの魚であり菜ですが(茗荷の収穫は再来年くらいと言われているし、茄子もまだ実らず、ドジョウも当面は丸鍋にするつもりでない)、食べるほうでは何といっても漬け物。水キムチづくりに最近熱中しているという話はフェイスブックに載せた。それ以外にも、ぬか漬けは今が盛りだし、茗荷や胡瓜の梅酢漬けもこの時候が一等旨く食べられる。

 

 シコイワシをさっと酢で〆てから大根おろしに和えたのと、湯がきたての蛸のぶつ切りに、漬け物の豪華(このことばはこういう時にこそ用いるべきであろう)盛り合わせ。海にも山にもUSJにも夏フェスにも行かずともかかる贅沢が愉しめるのだから、まんざら夏も悪くない。

 

 最近読んだ本。

 

内田樹釈徹宗聖地巡礼』シリーズ(東京書籍)・・・内田さんの「暴走」をむしろ釈さんが引き留める気味合いなのが可笑しい。涼しくなったら自分で〈兵庫篇〉実行するか。

中沢新一『精霊の王』(講談社)・・・たとえば能楽という芸能が、いかにこの列島根生いの神々によって文字通りに鼓舞されているか。シャグジという〈小さな神〉の神出鬼没ぶり(神なんだから当たり前だが)がじつに興味深い。折口信夫的な言い回しだと「庶物の精霊」の跳梁する世界、ということになる。書き手にはこれまであまり相性がよくないなと感じてきたが、この仕事には瞠目。カイエ・ソバージュのシリーズもこんな感じなのかな?

巌谷國士澁澤龍彦論コレクション』(勉誠出版)・・・全5冊。「トーク篇」が面白かった。ここまで語り尽くす著者もすごいが、こういう本をだす勉誠もエライ。

○ロジャー・イーカーチ『失われた夜の歴史』(樋口幸子他訳、合同出版発売)・・・犯罪者やら異端者やら野獣やらが徘徊する西欧前近代の夜が危険なのは言うまでもないとして(それにしても同時代の日本よりよほど物騒な気がする)、それに対抗するかのように放蕩にうつつを抜かす連中が絶えなかったというところが愉快。そういやオレ、最近放蕩してないなあ。

○本田紳『八戸藩』(「シリーズ藩物語、現代書館)・・・いわゆる土地の人気(じんき)・気質というのは、県ではなく旧藩の広がりによって規定されている、としみじみ思う。

○清水真澄『戦国時代と禅僧の謎 室町将軍と「禅林」の世界』(洋泉社

○岡地稔『あだ名で読む中世史 ヨーロッパ王侯貴族の名づけと家門意識をさかのぼる』(八坂書房)・・・ヨーロッパ中世ファンタジー好きの方、巻末の「あだ名一覧」は根本資料ですぞ。

○レト、U.シュナイダー『狂気の科学 真面目な科学者の奇態な実験』(石浦章一・宮下悦子訳、東京化学同人

○平松洋『最後の浮世絵師月岡芳年』(角川新書)

○ダン・スレーター『ウルフ・ボーイズ 二人のアメリカ人少年とメキシコで最も危険な麻薬カルテル』(堀江里美訳、青土社)・・・ノンフィクション。面白く読みましたが、副題長すぎるやろ。まあ、最近はほとんど本文の要約に近いくらいくだくだしい副題の本ばかりなのだが。

○J.G.バラード『22世紀のコロンブス』(南山宏訳、集英社)・・・バラードも昔はこんなコテコテのSF書いてたのね(笑)。鯨馬は、「ヴァーミリオン・サンズ」のシリーズが一番好きだな。

○パトリス・ゲニフェイ, ティエリー・ランツ編『帝国の最期の日々 上下』(鳥取絹子訳、原書房

沓掛良彦ギリシアの抒情詩人たち  竪琴の音にあわせ』(京都大学学術出版会)・・・哲学者(ソクラテスプラトン)や劇作家(ソフォクレスエウリピデス)ならともかく、古代ギリシャの詩人なんて、サッフォーとかピンダロスとか、文字通りの名前に過ぎなかったから、これは貴重な一冊。名声がいくら赫々たるものがあろうと、自分の詩的感性からつまらないと思う詩人には率直にそう言っているのも信頼できる(なかなかこれは言い切れないものだ)。全体にやや繰り返しの記述が多いように見受けられるが、ともあれ枯骨閑人の文業なお盛んなることに、乾杯。

長崎浩摂政九条兼実の乱世 『玉葉』をよむ』(平凡社

○ジュリアン・ハイト『世界の巨樹・古木  歴史と伝説 ヴィジュアル版』(大間和知子他訳、原書房)・・・炎熱の中、部屋で寝っ転がって読むのにこれ以上ふさわしい本はない。屋内にいてなお緑陰を涼やかな風が渡るのを体感出来る。

○野林厚志編『肉食行為の研究』(平凡社

○ジャック・ル=ゴフ『ヨーロッパは中世に誕生したのか』(菅沼潤訳、藤原書店)・・・答えは無論「然(ウィ)」なのであるが、ル=ゴフの本に結論だけ求めるほど虚しい読み方は無いよな・・・と思いつつ頁を繰って訳者あとがきに行き着くと、なんとル=ゴフは急逝していたのだった。まあ、まだまだ翻訳は出るだろうから、それを慰めとするしかない。

 

 小説ではカルヴィーノの初期短篇集『最後に鴉がやってくる』(関口英子訳、「短篇小説の快楽」シリーズ、国書刊行会)を堪能した。パルチザン体験なども題材としてふんだんに取り入れられているのだが、そこはカルヴィーノだから、精緻な語りと構成できっちり仕立て直されている。そこからかえって生々しい田舎の農村や戦争末期の生の匂いが吹き付けてくるように思われるのが妙。

 

 

【ランキングに参加しています。下記バナーをぽちっ。とクリックしていただけると嬉しう存じます!!】

 

<a href=にほんブログ村 料理ブログ 一人暮らし料理へ

にほんブログ村 グルメブログへにほんブログ村 グルメブログ 食べ歩き飲み歩きへ

にほんブログ村 本ブログへ にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ

ウミネコの島~南部再訪(2)

 宿酔なんぞは気の持ちようである。と気を持ち直して朝から温泉に浸かり、朝食のせんべい汁を啜ると、重苦しい酔いの残りはどこかにすっと消えてしまった、という気がする。

 

 それこそ前回は二日酔い、というか寝不足で種差海岸に行けなかった。今日こそ行くべし。本八戸(地元の人間は「ホンパチ」)から電車で三十分もかからない。

 

 ここは天然の芝地が広がることで名高いとのこと。抜けるような青空の下で見たらまた別の感慨があるのだろうが、この時は予想通りにどんみりと雲が広がり、海もまた空の色を映して暗く、そして冬の日本海でも見たように大きな波が岩に打ち寄せては激しく砕ける。風は冷たく霧雨が身を包む。歯の根が合わないくらい寒い。どこかイギリスのコーンウォールあたりを連想させる荒涼たる光景はかえって賞翫にたえる・・・というより自分の裡なる荒魂が呼びさまされるようで、いつまでも見続けたかったけれど、旅先で肺炎になるのは困る。

 

 そそくさと灰色の海を背にして、駅前に泊まっていた遊覧バスに乗りこむ。困惑したのは、客が当方一人だったこと。遊覧バスなので、ガイドさんが付いている。これはどうも気詰まりな状況に陥った。一宮を巡歴していた川村二郎さんが同じような目にあったことを書いてたなあ、と思い出す(peinlichというドイツ語で形容していた)。ここらへん、その文章に似せて書いている。

 

 さて、微妙な空気は向こうとて同じこと。思ったよりもintimateな、とは通常のガイド口調ではない調子で説明してくれるので幾分ほっとする。

 

 前述のように突兀たる岩場に波が荒々しく打ち付ける眺めは同じ、ただ少し走ると綺麗な砂浜の手前(つまりバスが走る道路との間)には松林が伸び、それだけならどこでも見られるかもしれないが、松の根元に草地が広がるのは、少なくとも当方には珍しい。今は月見草が盛りですね、それから岩のあいだに咲いているのはすかしゆりです、とガイドさん。なるほど、一面にうす桃いろ(月見草)と橙いろ(すかしゆり)が点描されている。暗い海を背景にして、これはなかなか奇とすべき眺めだと嬉しくなる。あれ、ガイドさん、ひょっとして日光きすげですか、あそこに咲いているの。

 

 高原に咲くものとばかり思っていたが、ガイド嬢によると、海から吹く冷たい風、いわゆる「やませ」のために、海抜ゼロメートルの辺りでも高原くらいに気温が下がり、そのためにこの黄いろの端正な花も広がっているのだという。そこにえぞよろいぐさの白が可憐にアクセントを添える。

 

 僅か三十分程度ながら、夏の三陸海岸を堪能した。ちなみにこのバス、どこまで乗っても百円。

 

 終点の鮫駅までは行かず、八戸水産科学館前で下車。打ち割って言うと、水族館というよりは水槽コーナーという規模であっても、水族館好きは特に不満をおぼえない。ただ、折角だから海胆とか鮑とか鯖とかオイランガレイとか烏賊とか、八戸名産の魚を展示したらいいのに、とは思った。アロワナやデンキウナギならどこでも見られるのですから。

 

 水産科学館から、八戸随一の名所・蕪島まではすぐ。ご存じの方も多いだろうが、ここはウミネコの繁殖地、それも人の居住する領域に一番近い繁殖地として知られている。蕪島から続く砂浜にして既にウミネコが皆同じ方向を向いて身を竦めている。今は頂にある神社が改装中で島自体には入れない。それにしても鳥の数の多さ、いやこのかしましさよ。前後左右そして上方からも絶え間なくみゃあみゃあにゃあにゃあと声が押し寄せてくる(という感じなのだ)。それはなにか、デパートのセール会場(中高年女性向きの売り場である)に放り込まれたような印象であった。五分もいると、何故だか「汝は魯鈍である」「お前はやくざな酔っぱらいである」と糾弾されてる心持ちになって(後者はその通りなのであるが)、しまいにはムカムカしてくる。鳥対人間、ここでは人間の完敗という絵面となった。

 

 鮫駅に着いてみると、電車が来るまで小一時間ほど。どうせ同じ時間をつぶすなら、と陸奥湊駅まで歩いていくことにした。道中格別な街並みではないものの、廃業した銭湯とか三嶋神社の祭礼準備とかを眺めてあるくと退屈しないものである。正確には半分退屈しているのを余裕をもって愉しんでいた。

 

 陸奥湊からは電車で八戸市街に戻る。遅めの昼食。煮魚定食(あぶらめとなめたかれいの二種類あり)や鯖定食、イカ刺し定食といった高雅な品には目もくれず、育ちの賤しい鯨馬なんぞはここでも海胆尽くし定食を頼んでしまう。おまけに殻付き海胆は一つ五百八十円という安さに引かれて、更にお代わりを頼んでしまう。ここでも海胆のトゲはうねうねしていた。不思議に、どの海胆もスプーンで身をほじくりつくす、その途端ぴたりとトゲの動きが止まってしまう。してみると、最後の最後まで感覚を保っている訳か。案外、冷たいカネのサジで身をほじられるのは快感なのかも知れない。マゾヒズムの極致だな。

 

 昼から海胆にまみれた恰好だが、次八戸に行ったら(行くに決まっているのだが)、その時は是非なめたかれいの煮ざかなで瀟洒に一杯やりたいものである。

 

 夕方までは銭湯でうつらうつらしたり、スーパーを冷やかしたり。相変わらず気温は低いが、銭湯でほこほこしているから、かえって気持ちがいいくらいだった。歩き回っていい具合に腹が空いてくる。

 

 我ながら愕然としたことには、晩飯を考える時に「海胆に鮑はもういいかな」という思いが浮かび上がってきたのである。あれだけでまさか一生ぶんの海胆・鮑を食べ尽くしたという訳ではあるまいな。訝りつつも、カラダの要求にはさからえず、青森シャモロックを出す店で焼き鳥を食った。しこしことコクのある肉を頬張りながら、ビールとハイボールを阿呆みたいに乾す。

 

 そうすると我ながら愕然としたことに、店を出る頃には「さて、どこで最後の生海胆と鯖燻製とせんべい汁と糠塚胡瓜を食べるべいか」と探し回っていたのであった。

 

 八戸の、夜は長い。

 

【ランキングに参加しています。下記バナーをぽちっ。とクリックしていただけると嬉しう存じます!!】

 

<a href=にほんブログ村 料理ブログ 一人暮らし料理へ

にほんブログ村 グルメブログへにほんブログ村 グルメブログ 食べ歩き飲み歩きへ

にほんブログ村 本ブログへ にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ

北の語り部~南部再訪(1)

 何せあのおっそろしいような大雨でしたからね。十分遅れた程度で飛行機が飛んでくれただけでも有り難いと思わなければならぬ。雨も二泊三日の旅の最終日にやや強めに降ったくらい。総じていい条件だったと言えるでしょう。

 

 青森は比較的短い期間で三度目となる。空港の警察官、駅の売店のオネエチャンの顔に見覚えがあるのがなんとなく嬉しい。新奇な土地に初めて足を踏み入れるのもいいが、こうして少しずつ自分と行く先の土地が馴染んでいく感覚もまた旅ならではの愉しみである。

 

 朝一番の便だったので、朝食を取る時間が無く、青森駅に着いた時(十二時前)には倒れそうなほど空腹。まずは以前から目を付けていた駅前の食堂で昼食、とすぐ決まった。駅からだだーっと走り込む。時分どきには前に行列が出来るのを見ていたためである。案の定、こちらが注文を終えるころには既に満員。外まで人が並んでいた。

 

 といっても観光客は六割といったところか。地元の会社員や現場のおにいちゃんの姿が目立つ。もちろんこうした方々はもりもり「昼ご飯」を平らげてらっしゃる。暢気な旅行客は、相席のお兄さんの視線を気にするフリをしつつ(本当は気にしてない)、帆立のフライ、かすぺ(アカエイ)の煮付け、けの汁、ミズの水ものといったあたりでゆっくりとビール二本、酒一合を呑んだ。

 

 後ろ二つの料理は注釈が要るかもしれない。けの汁の具は、今思い出せる限りでいうと、大根・人参・凍み豆腐・揚げ・こんにゃく・蕨など。この「おさない」では味噌仕立てだった(青森の郷土料理の本では清汁仕立てと説明していた)。ごく淡味なので酒の肴にもなる。本来は小正月に食べるものらしい。この旅では最高気温が十九度という日が続いたので美味しく頂けたが、やはりこれは寒のうちにふうふう吹きながら食べるべきもののようである。そしてミズ。東北名産の山菜。水ものというのは要は浅漬けなのだが、塩をしているだけでなく、唐辛子の輪切りと一緒に、水に浮かせてある。つまり水キムチのような恰好。これがたいへん宜しい。丼いっぱいでも平らげられそう。むろん、酒のアテとしてですよ。

 

 客が当方ひとりとなって酒を呑み終えると、新幹線の時刻にも丁度良い頃合い。前の旅からもう四ヶ月か、なぞと感傷に耽ってる余裕もあらばこそ、本八戸にはあっという間に到着。

 

 寒い。青森でも神戸から来た身には相当寒く感じられたが、細かい雨が小止み無く降る中をとぼとぼ歩いていくと、胴震いがするほどだった。

 

 これは要するに、晩飯では熱燗ということですな。とひとりごちてホテルへ向かう。今回の宿は中に温泉がある。さすがに三時過ぎでは誰も入っていなくて、ほわんと湯に浮いていた。かなりキック力のある湯で、部屋に帰ると体の芯までしびれるように熱くなっている。ベッドに倒れ込むとそのまま二時間熟睡。

 

 で、目覚めるとすぐ「何食おうかな」と考え始められるのであるから、まったく旅というのはこたえられません。

 

 いや、「何を」というのは正確ではない。この季節に八戸に来て海胆と鮑を食わないような莫迦がどこにいよう。だからこの問は厳密には「海胆と鮑の次に何を食べよう」と発せられるべきであった。

 

 三月の旅では居酒屋・屋台みたいなところばかり周っていたし、今回はひとつ料理屋に行ってみるか。と言っても予約していないから、懐石や会席の店は無理だろう。腰掛け割烹だったら大丈夫かな。と狙いを定めて徘徊、ろー丁(江戸時代、牢屋が置かれていたことから)の店に入る。「とりあえず生海胆と鮑を下さい」。

 

 海胆は殻付きを半分に割ったのが出て来る。その殻の棘がうねうね動いているのにたまげた。無論味は極上。塩も醤油も山葵も不要、ひたすらスプーンで卵巣をほじくる。「晩飯では熱燗ですな」とか呟いていた舌の根は、はやくも冷酒で潤されている。

 

 やはり浪が高かったらしく、水貝にするほどの大きさは獲れなかったとかで、鮑はステーキに。肝を刻んだので海藻を和えたソースがおいしい。これでまた冷酒を二杯。

 

 この後、海胆刺し(殻付きではない)と海胆の軍艦巻も食べた。普段口にするのに比べたら旨いのだが、それでも殻付き海胆の気品ある甘さには到底及ばないな、とか思いつつさらに冷酒の杯を重ねる。

 

 板前さんとぽつぽつ話しては呑んでいい気持ちだったところに、突如オッサンの集団がどやどやと繰り込んできた。いずれも獰悪にして兇暴、酷薄にして猥褻なご面相であって、陶然たる気分がいっぺんに吹っ飛ぶ。

 

 板前さんが、八戸だか青森だか東北だかの、中学だか高校だかの校長会だ、と教えてくれた。

 

 逃げ出すようにして店を出ると、生海胆と鮑は食せた訳ですから、至極ゆったりと二軒目を探す。同系統では気分が変わらないから、次はみろく横丁の屋台かな。

 

 一軒目ではホヤと胡瓜、それにせんべい汁を頼んだ。ホヤも旨かったし、殊にこの気温ではせんべい汁を啜ると極楽にいる心地だったが、逸品というべきは胡瓜である。糠塚胡瓜、という。縦に六ツ割にして普通の胡瓜の細目のやつ位の太さがあったから、元は余程雄大な形に違いない。皮は綺麗に剥いている。太い分、余計にさくさくした歯触りが愉しめるし、味も普通の胡瓜の青臭さがなく、どちらかというと、「まっか」(真桑瓜)に近い。

 

 言うまでもなく酒の下物に好適である。この店では氷水の鉢に浮かせての提供だったが、家庭ではこれを刻んで辛味噌と和えるのだそうな。飯に佳し、酒に佳し。

 

 しかし、糠塚胡瓜以上の御馳走は南部弁だったかもしれない。料理を作るのも、酒や料理を出すのも、そして横で呑んでいるのも、ばあさまである(と見えた)。この三婆の会話がよかった。といって、当方に話しかける時以外のことばは半分、いや三分の一も分からないのであるが、抑揚といい音節の多さといい、じつに音楽的で、最年長とおぼしきばあさまが、「店にスマホを忘れて、慌ててタクシーで取りに帰った」、というだけの話を語り出すと、なんだか古代より誦みならわされてきた神話伝説の類いを聴いているような気分になるのだった。

 

 あとは簡略にこの日の足取りを。屋台村でもう一軒、地魚の炭焼きで呑み、前回の旅でも入った出汁おでんの店で熱燗を呑み(美人ママは変わらず美人で、常連客の顔ぶれも前回とほぼ同じだった)、このおでん屋で教えて貰った蕎麦屋で天ぷら蕎麦を食い、これまた前回居酒屋の客が連れてってくれたバーで極上のバーボンを呑んだところで一日目は修了。ホテルに帰っても、さすがに温泉に入る気にはなれませんでしたな。

 

【ランキングに参加しています。下記バナーをぽちっ。とクリックしていただけると嬉しう存じます!!】

 

<a href=にほんブログ村 料理ブログ 一人暮らし料理へ

にほんブログ村 グルメブログへにほんブログ村 グルメブログ 食べ歩き飲み歩きへ

にほんブログ村 本ブログへ にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ

水無月獺祭

 

 ひと月ぶりの更新。いい店何軒かを見つけたが、それは別の機会に書きます。とりあえず溜まってた読書メモから。年数積もると、コレステロールと同じように、「生きてることの塵(垢?)」と言うべきものが嵩を増してきて、暢気ブログを更新する閑暇さえなくなってくる。もっと閑人たるべく心がけねば。

 

○内藤裕史『ザ・コレクター 中世彩飾写本蒐集物語り』(新潮社)

○松田裕之『港都神戸を造った男 《怪商》関戸由義の生涯』(星雲社

○スティーブン・ビースティー、リチャード・プラット『ヨーロッパの城  輪切り図鑑 中世の人々はどのように暮し,どのように敵と戦ったか』(桐敷真次郎訳、岩波書店)・・・『13世紀のハローワーク』のグレゴリウス山田さんご推奨。絵本なのだが、確かに細部の詳密さがすごい。

佐々木健一編『創造のレトリック』(勁草書房

○ワイリー・サイファー『ロココからキュビスムへ』(河村錠一郞訳、河出書房新社

○前田勇『近世上方語考』(杉本書店)

○小川剛生訳注『正徹物語』(角川ソフィア文庫)・・・『兼好法師』(中公新書)ですっかりファンになった。この人の切れ味で、定家偽託の歌学書の注釈なんて、出ないかなあ。

柄谷行人柄谷行人書評集』(読書人)

ミシュレ『世界史入門 ヴィーコから「アナール」へ』(大野一道編訳、藤原書店)

橋本直樹『食べることをどう考えるのか』(筑摩書房

窪島誠一郎『粗餐礼賛 「戦後」食卓日記』(芸術新聞社)・・・外食に出ない日はマメの炊いたのやらお浸しやら干物やらで充分満足する鯨馬ながら、「粗餐礼賛」と言われるといたたまれなくなる。

○宮下規矩朗『美術の力 表現の原点を遡る』(光文社新書)・・・新書だが、ずっしり重い本。美術史家なのに本当に絵画に感動することはなくなった、信仰も喪ったとのっけから言い切ってしまう(なぜそうなったかは各自この本を読んで諒解されよ)。にもかかわらず、表現のまさしく「原点」を幻視する透明な叙述にヤラれてしまう。なにせ神社に奉納された人形や、死刑囚の描いた作品まで絡め取ってしまうのだから。宮下ファンにとっては辛い本ながら、お勧めです。

○武井弘一『茶と琉球人』(中公新書)・・・「茶」でなくてもよかったような。

○ウォルター・アルバレス『ありえない138億年史 宇宙誕生と私たちを結ぶビッグヒストリー』(山田美明訳、光文社)

加藤徹『怪力乱神』(中央公論新社

ホラーティウス『書簡詩』(高橋宏幸訳、講談社学術文庫

○長谷川在佑『傳 進化するトーキョー日本料理』(柴田書店)・・・十年後、二十年後のヴィジョンがはっきりしてるのがすごい。

○松浦壮『時間とはなんだろう 最新物理学で探る「時」の正体』(講談社ブルーバックス)・・・無論、「時の正体」は分からないまま終わるのだが、叙述が明晰で読める。筆力のある人なのではないかな。

○大島幸久『名優の食卓』(演劇出版社

佐藤彰一『剣と清貧のヨーロッパ 中世の騎士修道会托鉢修道会』(中公新書)・・・騎士修道会の代表的なドイツ騎士団は原プロイセン人を皆殺しにし、托鉢修道会の主力であるドミニコ会は異端審問で活躍することになる。「革新」とはこうならざるを得ないのか。

○ジェームズ・ロバートソン『ギデオン・マック牧師の数奇な生涯』(田内志文訳、東京創元社「海外文学セレクション」)・・・悪魔と「逢った」牧師の伝記(自伝とその事実を探る記述との混合)という体裁で書かれた小説。「悪魔」はおそれおののく主人公に「魂を奪ったりはしない」と言うのだが、それは当然のことで、このギデオン・マックなる男ははじめから《魂を持たない》人間なのだ。背中がうすら寒くなるようなブキミなやつである。もう少し喜劇的な味つけがあれば、かえって深みが出たと思う(歴史家である辛辣な老女との交遊や彼女の葬儀の場面では多少ある)。

青柳いづみこ『青柳瑞穂 骨董のある風景』(みすず書房大人の本棚」)

○古田亮『日本画とは何だったのか 近代日本画史論』(角川選書)・・・「近代日本画」というジャンルで見るかぎり、たとえば鉄斎は単なる異端になってしまう(おかしくないです?)。洋画とか日本画とかで分類しない、「近代日本の美術史」は書けないものか。

○ノエル・キャロル『批評について 芸術批評の哲学』(森功次訳、勁草書房

○工藤隆『大嘗祭 天皇制と日本文化の源流』(中公新書

○南直哉『超越と実存 「無常」をめぐる仏教史』(新潮社)

宮田登・坂本要編『仏教民俗学大系8 俗信と仏教』(名著出版)

○ジェラードラッセル『喪われた宗教を生きる人々 中東の秘教を求めて』(亜紀書房編訳、「ノンフィクションシリーズ」)・・・ほとんどページごとに「へえっ」となる本だった。ゾロアスター教ドルーズ派などはまだメジャーな方で、当方なぞ聞いたこともない宗教がぞろぞろ出て来る。中東は宗教のモザイク地帯だったのだ。バグダッドにはある時まで世界最大のキリスト教会があったなどの情報が満載。

 

 しかし誰が何と言おうと、何も言わなくても、今回最大の収穫は、

 

                                                            

○ゲオルク・クリストフ・リヒテンベルク『リヒテンベルクの雑記帳』(宮田眞治訳、作品社

 

 

であります。こういう本が生きてるうちに日本で出版されるとは夢にも思わなんだ。人生の最後の段階まで伴侶に出来そう。大冊だな・・・と敬遠気味の人は池内紀さんの訳になる平凡社ライブラリー版(名訳です)をお買いあれ。作品社版のオビにあるとおり、ズボンを二本持ってる人は一本を質に入れてでも、結婚してる人は女房を(あるいは亭主を)を叩き売ってでも、酒呑みの人は禁酒・・・は難しければビールを発泡酒に変えてでもお買いなさい。女房(亭主)を売ったカネで百冊(は大丈夫だと思いますが)買って、友人諸氏に頒ち与えなさい。

 

リヒテンベルクの雑記帳

リヒテンベルクの雑記帳

 

 

 

リヒテンベルク先生の控え帖 (平凡社ライブラリー)

リヒテンベルク先生の控え帖 (平凡社ライブラリー)

 

 

 

 

【ランキングに参加しています。下記バナーをぽちっ。とクリックしていただけると嬉しう存じます!!】

 

<a href=にほんブログ村 料理ブログ 一人暮らし料理へ

にほんブログ村 グルメブログへにほんブログ村 グルメブログ 食べ歩き飲み歩きへ

にほんブログ村 本ブログへ にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ

鶏の叫ぶ夜

 『いたぎ家』アニーにお誘い頂いて、アニーヨメー、タク、そして木下ご夫妻(当方同様『いたぎ家』の客)の六名で一日滋賀に遊ぶ。前回の滋賀遊びから二年経っている(拙ブログ「KG制覇計畫・其ノ壱」)。天気・気温・湿度申し分なし。

 

 

 手始めに浜大津駅の朝市。そこそこの人出。鯨馬は大好物の鮒寿司と新茶、ちりめん山椒を買った。朝宮茶のかたぎ古香園は以前から関心があったので、嬉しかった。

 

 

 煌めく湖面にはしかしすぐお別れして、向かったのは甲賀は土山の安井酒造場。『いたぎ家』ではお馴染み『初桜』の蔵元である。土山は東海道四十九番の宿場。蔵の前の道が旧街道筋で、向かいの建物はかつて旅籠だったそうな。ちなみに酒造場の周囲には茶畑が広がってまことに長閑な風情。それにしても茶畑に包囲される酒蔵というのも乙なものである。

 

 

  酒醸す家つゝみけり茶のかほり  碧村

 

 

 安井酒造場は小さな蔵で、御夫婦二人で実質切り盛りしているようである(ラベルの達筆は書道教授である奥様が書いたものだそう)。この日もだから、日曜日のお宅にお邪魔して話を伺ったという雰囲気だった。御主人が独特のユーモア感覚を発揮しながら懇切に説明して下さる。仕込み水(こちらは全て井戸水)、タンクの管理(昨冬は低温が続いて、温度調整に苦労したとのこと)、麹・・・そう、麹室にも案内して頂いた。鯨馬は初めて。節の無い杉板が整然と組まれた室内はそれだけでも充分見る価値があると思った。アニーと道々話したことですが、酒造というのはえらく金がかかるものですな。豪農という層でなきゃ手が出せない事業だったに違いない。かつては酒屋すなわち素封家を意味していたのも当然である。

 

 

 蔵そして搾りの木槽の見学の後は試飲。八種類を振る舞って下さった。造りや搾りの過程の説明を聞くと味の違いが判然とする(気がする)。「中汲み」というのがまことに宜しい。先ほどの鮒寿司・ちりめん山椒を取り出したくなったが、そして安井さんは快く許してくれそうな気もしたが、ここで神輿を据える訳にはいかない。お暇して次の目的地へ。

 

 

 清酒試飲のあとにパン屋訪問とは、茶畑に囲繞される酒蔵と同じくらい酔狂というか、自民党員でありながらスターリン主義者というか(これはいそうですな)、この石窯焼きのパン工房がまた、メガソーラーの立ち並ぶ岡の上にぽつんと一軒だけというごく風流な立地であって、森閑としてるんだろうとばかり思っていたら、我々が買っているあいだにも次から次へと客が来て、あっという間に売り切れたのにはおどろいた。SNSのちから、おそるべし。このヨーロッパの田舎家風の店(兼住宅)は店主が自分で建てたものときいて更にびっくりする。※ひまわりの種入りライ麦パン、旨かったです。

 

 

 そう教えてくれたのは永源寺の名物酒店『大桝屋』御主人。『いたぎ家』の仕入れ先のひとつ。お仕事中、案内してくださったのである。パン工房の次には、『ヒトミワイナリー』へ。ま、ここは広く知られているし、前回の滋賀遊びの折にも立ち寄ったところだが、さすがは酒屋店主、試飲コーナーで担当の女性にスマートに声をかけてあれこれ出させる。ちょっと面白い白ワインもあったが、買うかと言われれば、『大桝屋』で滋賀酒を探したい、というところ。

 

 

 というわけで、「ウチなんか来なくていいのに」と仰るのを押して『大桝屋』へ。色んな蔵元のを揃えているだけでなく、同じ銘柄で熟成させてみたりと色々工夫のある酒屋であって、御主人はカタギにはとても見えない相貌ながら、おっとりした近江訛りで懇切に説明してくれる。アニーは相談しながら店の仕入れをしておった。鯨馬も試飲のご相伴に与って、一本購う。

 

 

 夕食前に、野菜の直売所に立ち寄る。ヤーコンだのジャイアントレモンだの(なんやねんそれ)訣の分からぬ連中よりは、三ツ葉や芹を並べなさいよ!とぶつくさ言いつつ、ここで買ったのはクレソンと葱、豌豆、それに味噌。

 

 

 さて夕食。無類の愛鳥家たる木下夫妻(トリ肉に目が無い、という意味です)が来ているのだから、当然トリ。そして近江でトリといえば『穏座』・・・『かしわの川中』がやってる地鶏料理の名店である。「有名だけど、それだけのことはあるの?」との声に、木下ダンナの一言がふるっていた。「後悔はさせません」。こう聞かされると、否が応でも気分が盛り上がりますな。食事前に、『川中』に寄って銘々、お土産用に鶏肉を買う。ここの名物である淡海地鶏は売り切れ、近江シャモの盛り合わせを買う。スーパーのブロイラーの値段と比較しても、ずいぶん安い、と思う。何故か。店のすぐ裏には小屋が並んで、時折コケエェッと鳴き声が上がる、という仕組み。そして『穏座』は『川中』の隣なんだから、これ以上の〝地産地消〟は無いというもの。

 

 

 木下夫妻が選んでくれたのは塩焼きコース(他にすき焼き等もあり、全部同じ値段)。鳥は近江シャモのメス。この塩焼きも嘆賞すべきものだったが、殊に、このメンが先ほど時をつくっていたやつの嫁ハンであって、ここに来るに当たってはひとしきり愁嘆場があったのだろうと想像すると尚更味わいを増すけれど、それはともあれ、初めに出た造り、それも白肝の素晴らしさには度肝を抜かれた。キモを喰ってキモを抜かれたのでは締まりの無い次第であるが、信じられないような尤物なのである。色は白よりもむしろ黄色に近く、噛むとそこらの焼き鳥屋で「白肝」と称するのとは違って、水っぽさが全く無い(タクの見立てでは、脱水シートで水分を抜いているのではないか、とのこと)。味は、鯨馬の筆ではとても形容の仕様がない。上質のバターをふわっと固めたとでも言おうか。でもウシではなくトリであるから、バターほどしつこくはなく、といってやはり臓物だから単なるアブラよりはこくがあってしかも清麗優雅。なにか夢のような食べ物である。ひと切れ食べて目を丸くし(何度食べても目が丸くなる)、一分ほど経つと「なんだったのだろうか、あれは」という思いに駆られて次のひと切れにまた箸をのばすことになる。すなわちこれ桃源郷

 

 

 「後悔させない」木下ダンナも木下ヨメも、憑かれた如くに肝をほおばる我らを見てにこにこしていた。いや実際になにかの魔術がかけられてたに違いない。炭水化物を口にしない鯨馬が、この日は(しかも夜に!しかも酒のあとに!)卵かけ飯まで堪能したのでありますから。

 

 

 極上の「大人のピクニック」でした。誘ってくれたアニー、ずっと運転手をつとめてくれた木下さん、そして安井さん・大桝屋さん、それに近江シャモのよめはん、どうも有難うございました。

 

【ランキングに参加しています。下記バナーをぽちっ。とクリックしていただけると嬉しう存じます!!】

 

<a href=にほんブログ村 料理ブログ 一人暮らし料理へ

にほんブログ村 グルメブログへにほんブログ村 グルメブログ 食べ歩き飲み歩きへ

にほんブログ村 本ブログへ にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ

上等な五月の夕餉

油目の新子が出ていた。油目がそもそも好きな魚だが(造りはもちろん、椀種にするとすごい実力)、成魚の方は最近あんまり見かけない。東京湾ではすでに「幻の魚」になっている、とテレビ番組で言ってたような気もする。

 

 獲れなくなってるところに、新子を流通させるのは資源管理的によろしくないだろう。銭本慧さんに叱られそうだ、と考えつつ、でもやっぱり昔からの好物なのでつい買ってしまった。

 

 半分はいつもどおり唐揚げにする。レモンをたっぷり搾る。身はほろりと崩れ、またはらわたの爽やかな苦みがたまらない。一尾一尾愛おしむように摘まんで食べてゆく。あっというまに無くなってしまう。でも全部揚げ物ではこたえるし・・・と残り半分は、佃煮にした。両面を炙ってから酒と醤油でさらりと煮る。山椒の若芽をふんだんにちらす。飯のおかずにも、酒の肴にも合いそう。これに新物のアオサノリを吸い物にしたのと、冷や奴(大蒜を漬けた醤油と胡麻油で食べる。そういや、新大蒜、そろそろだな)とうすいえんどうの葛寄せで、完成。思うに、山海の旬といい、季候といい、盛夏よりもビールが旨く呑めるのは五月なのではないか。ともあれ、うすい豆ももう終わり、ということは今からは空豆の季節。豆好きには心躍るバトンタッチである。

 

 

 さて、久々に、読んだ本の心覚えを。だいぶたまっております。

 

花村萬月『太閤私記』(講談社)・・・劣等感とルサンチマンでどす黒く染め上げられた、陰惨な秀吉像。大阪生まれながら秀吉が実は好きではない人間としては、そういうものとしてたいへん納得がいく。小説としては、後半がややせわしない(『信長私記』もそうだった)。

○中村啓信他『風土記探訪事典』(東京堂出版

○ウラジーミル・ソローキン『テルリア』(松下隆志訳、河出書房新社)・・・断章形式による「テロ」後の世界像。カルヴィーノの傑作『見えない都市』の瀟洒な味わいを悪どく煮詰めた感じ。断章形式を酷愛する読者にはそれもまた嬉しいのだが、出来栄えという点では、

アントニオ・タブッキ『島とクジラと女をめぐる断片』(須賀敦子訳、河出文庫)・・・とは比較にならない。小説作者としての格がちがう。

ジャン・ルイジ・ゴッジ『ドニ・ディドロ、哲学者と政治  自由な主体をいかに生み出すか』(王寺賢太編訳、勁草書房

○船木亨『いかにして思考するべきか? 言葉と確率の思想史』(勁草書房

○ジャック・ブロス『世界樹木神話』(藤井史郎他訳、八坂書房)・・・すべての樹木がひとつの神話である。

トーマス・マン『五つの証言』(渡辺一夫訳、中公文庫)・・・文庫オリジナル編集。敗戦迫り来るなか、渡辺一夫が心身をしぼりつすようにして訳したマンの小論に、渡辺自身のエッセーを併載する。

○エリン.L.トンプソン『どうしても欲しい!』(松本裕訳、河出書房新社)・・・副題は「美術品蒐集家たちの執念とあやまちに関する研究」。

○冷泉為人『円山応挙論』(思文閣出版)・・・自伝的な小冊子が付いている。関西学院で著者を教えた加藤一雄のことばが面白い。いかにも『無名の南画家』、そしてなによりも『蘆刈』の著者だなあ、と思う。え、この二作読んでない?それはたいへんお気の毒です。後者など呆れるくらいの名品ですよ。応挙から遠く離れてしまったけど。

エドゥアール・シャヴァンヌ『古代中国の社 土地神信仰成立史』(菊池章太訳、平凡社東洋文庫)・・・こういう土俗信仰と儒教儒学でなく)道教との接続具合がよう分からん。

○ジェレミー・テイラー『人類の進化が病を生んだ』(小谷野昭子訳、河出書房新社

○ローラ・カミング『消えたベラスケス』(五十嵐加奈子訳、柏書房)・・・ノンフィクション。ある日、ごく平凡な書店主が、偶然目にした肖像画を手に入れる。彼はそれがベラスケスの真作と見抜いたのだ。それ以降彼の人生はこの一枚の絵のために翻弄され続けることとなる。皇太子時代のチャールズ1世を描いたそのタブローは今行方不明なのだそうな。お分かりのとおり、じつに魅惑的な素材ながら、「画家の中の画家」ベラスケスを讃仰する著者の筆につつしみが足りないため、読書の興が殺がれること少なしとせず。それはそうと、六月に、ケンビこと兵庫県立美術館にベラスケスはじめとするプラドの名品展が回ってくるようですね。楽しみ!

藤田覚勘定奉行の江戸時代』(ちくま新書)・・・江戸時代、いちばん才能重視で門戸が開かれた職が勘定奉行だったのだそうな。そうだろうな。

○ジョン・ネイスン『ニッポン放浪記 ジョン・ネイスン回想録』(岩波書店)・・・著者は三島由紀夫の評伝を書いたことで知られる。そしてその訳者は鯨馬の恩師である。ネイスンと我が師匠は一時期かなり親しくしていたらしい。師匠の肖像は、弟子から見るとさもあらん、という感じで、つまりなかなかの才筆であります。それにしてもやっぱりアメリカ人だなあ。「自分には才能がないんちゃうか」と悄気返ったかと思うと、いつの間にか奨学金なり投資家の援助を得てばりばり金儲けに邁進している。あんまり周囲に見かけないね、このタイプ。

田中優子松岡正剛『日本問答』(岩波新書)・・・橋爪代三郎・大澤真幸コンビの対談ほどひどくはないが(「ドーダおれかしこいだろ」合戦)、松岡さんの仕事はどうもキャッチ・コピーの連続みたいで薄味、じゃなかった味が薄いように思う。

マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』(清水一浩訳、講談社選書メチエ)・・・なぜかというと、「存在」とは「意味の場への現れ」であり、「世界」とは「あらゆる意味の場の場」であって、それは論理的に成立しないから。とのこと。著者は「新実在論」の立場に立って、特にポストモダンの社会構成主義(あらゆる存在は特定の文化・社会の枠組みが作り上げた虚構である)を排撃する。それはいい。科学的実在だけでなく、想像も意識もすべて実在なのだとするのもよろしい。しかしそれら全ての総体としての《これ》は、では一体何なのか。それは《世界》ではないのか。

 

 

○野崎洋光『料理上手になる食材のきほん』『野崎洋光春夏秋冬の献立帳 「分とく山」の永久保存レシピ』(ともに世界文化社)・・・どちらもこれからの家庭料理のスタンダードになると確信してます。

窪島誠一郎『粗餐礼賛 「戦後」食卓日記』(芸術新聞社)・・・前述のごとく、鯨馬の食卓はつつましやかなものだが、こう堂々と「粗餐」を「礼賛」されるとなんだか鼻白んでしまうのですな。『清貧の思想』とか『国家の品格』とかいう書名と同断。

町田康『関東戎夷焼煮袋』(幻戯書房)・・・さすが町田康だけあって文章は凄いのだが、どうにも具合が悪い。同じ上方の人間であるのに、いやそうではなくて上方の人間だけに、「うどん」とか「イカ焼き」とか「どて煮」とかを繰り出されるとなんだかうつむきたくなってしまうのだ。

○カオリ・オコナー『海藻の歴史』(龍和子訳、「食の図書館」シリーズ、原書房

 

 

【ランキングに参加しています。下記バナーをぽちっ。とクリックしていただけると嬉しう存じます!!】

 

<a href=にほんブログ村 料理ブログ 一人暮らし料理へ

にほんブログ村 グルメブログへにほんブログ村 グルメブログ 食べ歩き飲み歩きへ

にほんブログ村 本ブログへ にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ