二つの全集

  今日(休日)の朝食。きんつば二つ。
  昼はオムレツとワイン一杯。
  前衛的な献立でしょう。昨夜から読み始めた本があまりに面白く、米を研ぐのも面倒で読みふけっていたからだ。メイン・ディッシュは『一海知義著作集』(藤原書店)第二巻と『定本久生十蘭全集』(国書刊行会)第一巻。
  もともと本を全集で読むのは好きではない。出会うのはつねに一冊の「その」本だと思っている。全集を通読せねばならないという、たしか小林秀雄の読書訓は、作家の《精神の劇》を追い詰めるタイプの批評家(これは杉本秀太郎氏の表現)には似合っても、日常の糧としての読書にはなじまない。当方がもっている「全集」で通読したのは『吉田秀和全集』と『ポオ小説全集』(創元推理文庫のやつ)、『林達夫著作集』くらいではないか。それも実は《通》読ではなくて、興の赴くままあちこちを拾い読みしているうちに、結果として読み上げたに過ぎない。鍾愛する泉鏡花であれウォルター・ペイターであれ、全集を通読しようという気になったことはない。だいたい小林秀雄の文章に感嘆したことは一度もないが、それは「物」にふれることが大切だと説教する書き手の文章に、「物」にふれ「物」と照応して動き出す精神のリズムを一度も看取できたことがないからである。
  こちらの文章も説教がましくなった。一海先生は個人的に存じ上げている。『著作集』の第三巻に収められる陸游の詩を読む会に、先輩に紹介されて何度かお邪魔したことがあるのだ。
  それはまさに「邪魔」であって、中国の古典詩文の専家たる、ヴェテラン・中堅・新進が集う会にあっては、日本近世の思想史をかじりだしたばかりの青二才など、会場の端で全身これ聴覚と化して、参加者の一言一句に聞き入るより身の置き所があるはずもなかった。
  ほんの数回の経験に過ぎなかったが、「経験」の名に値する貴重な時間だったことは記しておきたい。
  「月報」で興膳宏さんがいっているとおり、一海先生は、到底愛想がよいとはいえない口調で発表担当者のレジメに次々と質問を放つ。その度に会場は一瞬、虚をつかれたように静かになり、そして先生が引き続きめんどくさそうな口調でコメントされるのであった。
  なぜ詩のその箇所でかかる語句が使われなければならないか。なぜその詩句以外ではだめなのか。漢詩の考究には典拠の探索は不可欠だが、一海先生の話は単なる典拠の指摘ではなく、それがそのまま「詩」の勘所のすばらしい鑑賞にもなっていた。
  そういう経験をまた味わいたいと求めて読むうちにこの『著作集』も読み上げることになるのかもしれない。『定本久生十蘭全集』の方も、三一書房版であらかた読み尽くしているところが一海先生の本とは事情が異なるが、長い快楽の時間を約束してくれそうな点では同等である。しかし、十蘭のような、煮詰めたあげくほとんど結晶化したような文体で、こんなりっぱな造本で十一冊になるほど書いていたんだなあ。すごいエネルギーではある。すべてが傑作ではむろんないのだろうが。
  こんな日は夕飯を豪奢にしたいものです。てわけで「鯛屋」で鰺・甘鯛・真魚鰹をもとめる。鰺は造り、甘鯛はちり蒸し、真魚鰹は幽庵焼きにした。真魚鰹の残りは西京漬けで楽しむつもり。今日も「菊姫」の杯がすすんだ。