病める富士

  誰も他人の病気の話など聞きたくはないだろう。当方にしても、『馬読』と掲げながら、病中随筆めいた本ははなからごめんこうむりたいクチである。
  今日は病気の話です。年二回の健康診断の結果が帰ってきたばかりなのである。これがまあ、血糖値も中性脂肪も尿酸値もコレステロールも、聞かせどころのない正常値の羅列。それはそうだろうと思う。間食の習慣が無く、マメだのミツバだのキズシだのばかり喜んで食っている、似而非隠居老人の血糖値の高かろうはずがない。連日の「鯨飲」の武勲赫々たるべきγ−GTPはと見れば、これまた白々しく「正常範囲」欄の中央に*印があるばかり。まだまだ飲めるのか・・・・(量を減らせばさらに下がるだろうという思考回路は無い)。
  病気というより健康自慢のようだが、いささか気がかりだったのは動脈硬化度が年齢相応よりは進行しているという記述。より正確には進行を促進する要因が思い当たらないことが気がかりなのである。たばこは吸わない、血圧は医者が苦笑するくらい低く、血液検査に異常は見られず、仕事も私生活も気ままを通してストレスはさああるのかどうか。
  ここに至って「運動不足」の文字が浮かび上がってきた。休日には買い出しもかねて二時間近く歩き回っているのだが、それでは足りないのかな。
  しかしそれをいえば日本の平均的サラリーマンのほとんどが深刻な運動不足ということになる。なにやらすっきりしないのである。うーんこれこそがストレス。
  こういう時にはゆっくり料理を作って気に入りの作家の文章を読むに如かず。
  というわけで今日の献立は、豌豆(またマメ!)のポタージュ、鳥砂ずりの豆鼓蒸し、蕨となめこうどん。ばらばらの味なので、酒も缶ビールを呑み、「菊姫」を呑み、ついでに黒糖焼酎を呑むことになる(やはりこれが原因でしょうか・・・)。
  合いの手は武田百合子さんの『日々雑記』。神経がささくれだった時には棚から取り出してくる。いい文章。というより、この人ならではの無類の文章。
  一気に読了して、ついでに『富士日記』まで取り出しかかり、あわてて戻す。これは八月に読む本と決めているから。
  富士山の山小屋の日々をつづった日記とはいえ、記述は避暑の時期だけにはとどまらず、厳寒の富士山での年越しにまで及ぶ。だから、記述内容にそうした季節感を求めて読んでいるわけではない。
  全篇を通じて立ちこめる死と衰滅の匂いが(最後は夫君武田泰淳の死の記述で締めくくられる)、透明なスタイルとあいまって、奇妙にもこの世ならぬ浄福感を生み出している、その感覚が、「夏休み」のあのくすぐったい淋しさと照応するように思えてならないのである。
  冷える日が多いとはいえ、今年も少しずつ夏に近づいていく。