親水基

  最近「鯨飲馬読」に「汗牛」を足したほうがいいのではないかと思ってしまうくらいジム関連の記事が多い。今回もプールの話。

  何も自慢しようというわけではない。こちらは500メーターほどをゆっくり泳いで上がるのがせいぜい。周囲のオジ(イ)サマオバ(ア)サマが悠々と休みもとらずにターンしては泳ぎ続けるのにくらべれば、文字通り雑魚のとと混じりに過ぎない。いったいどんな心肺能力してはるのか・・・。

  こういったヴェテランの中に混じって、だからといって楽しくないということではない。それどころか、こんなに泳ぐのが好きだったのかと発見してわれながら呆気にとられているところ。別に水泳をならっていたわけではないし、そもそもジムに来るまで、プールにも海にも何年(十何年?)も行ったことはなかった。それでも水の中で手足を動かしているといいようもない快感をおぼえる。

  これはやはり魚を飼っているからだ、と自分では結論が出た。やや飛躍気味なのでもう少し説明します。

  姿形を愛でるのはもちろん、交配など熱帯魚を飼うには色々な楽しみかたがあるだろうが、ぼく個人のこととしていえば、魚・エビ・水草そのものよりもまず「水」がそこに一定の体積を占めて「ある」という事実が魅惑的なのだ。だから深夜、水槽を愛でるときも魚の泳ぎ方や水草の成長ぶりにはちらっと目をやる程度で、あとは水そのものを眺めていることが多い。ガラスにうんと顔を寄せて分厚い水の層を通して見るときが最高である(だから長方形の水槽の、短辺からのぞき込むのが具合がいい)。

  透明度はいうまでもなく重要だけど、生きものがそこにいることで水は適度な「曇り」を帯び(濁りではない)、だからどこまでも見渡せるくせに確実な距ての感触が生まれ、絶えず動きをはらみながらも全体としては静謐そのもので・・・といった両義性に満ちたところがいい。長いあいだ眺め続けていると、いつか眼は水に同化する。平たくいえば自分が魚になったような気分のまま視線が水中を漂い出す。

  ゴーグルをかけてプールに入ればまさしく眼どころか体全体が水に同化するわけで、これはもう快楽きわまる他ないのである。

  ふだんは仕事の帰りに寄るから、今の時期だともう空は暗くなってしまっているが、時折夕方に泳いでいると壁面のガラスを通して西日がいっぱいに水面に射すのを見ることが出来る。光が散乱するなか水を掻いていると、(実際にはひとで位の速さなんだろうけど)海亀かマンボウかシャチかになったような感覚がからだ全体に行き渡ってくる。そして空想する、もしこの水に苦い塩が溶けこんでいて、水面には波が騒ぎ、水底は柔らかい砂と揺れる海草で覆われ、そしてガラス越しではない太陽がその水に差し込んでいたらどうだろうか。

  「海は多くの狂人をつくり出す」(ミシュレ)。