アームチェアの旅行者

  居間からは南西の方に窓が開いていて、読書用の椅子に座るとそこからは向かいにある寺の松の木が左の境界線を成すかたちで空が見える。

  ジムから帰り、コーヒーを淹れて傍らに本を積み上げる。空には鰯雲が広がっている。先週はなんだかばたばたしてゆっくり本を読む時間もなかった。

  最近は旅行記がお気に入りで、積み上げる本の中には必ずその類が一冊、ときには二三冊混じることになる。この日はヘンリー・ミラーの『マルーシの巨像』とF.D.OmmanneyのFragrant Harbourを読んだ。前者はおよそ破天荒なギリシャ紀行。破天荒というのは、こうした主題の本では珍しく、風景の描写も神話や古典古代文化への思い入れたっぷりな感想もほとんどまじえず、ひたすらミラーという個性の強い人間が歩き回り、酒を呑み友人と会話する話ばかりで一篇が成り立っているからである。にも関わらず非常に面白い。書くことが生きることの一部になりきっている。

  後者は篠田一士(旅行記を愛読していた)の本で知って取り寄せた作家の香港紀行。たしか篠田さんは、旅行記は英国人の専売特許のようなものだと書いていた。あくまでも具体的な事物の描写を丹念に積み上げながらゲニウス・ロキ(土地の精髄)の奥秘のたしかな感触を伝えてくれるところは、たしかに無類の味わいである。ジャン・グルニエカミュの先生、ということはフランス人)風の詩的考察(『孤島』『地中海の瞑想』)はまたそれで捨てがたいのだが。

  頁を繰りながら窓を見ると、夕刻に近づいて空は広重えがくところの深く澄んだ青に変わってきている。鰯雲は消えて箒目をたてたような雲に変わっている。鰯雲よりもっとほっそりしているので秋刀魚雲か。

  ここで酒に切り替える。昼間に秋刀魚を買ってきていて、それを思い出したからである。一尾は刺身に、一尾は塩焼きにする。酢橘をふんだんにしぼる。むろん酒は清酒。酒の対手にはチェスタートンの『自叙伝』。これは名作です。実は原文で読んでないのだが、吉田健一の訳文が吉田健一の文章そのものになっているのが愉快である。

  気がつくと空はとっくに夜の黒の中に沈んでいる。世界があるがままに存在しているという事実こそ最大の神秘である、というチェスタートンの「根本命題」に深く同意する(カトリックに入信するつもりはないけれど)。もっとあったはずの酒がこんなにはやくなくなってしまうのもこれまた小さな神秘ではある。