『昔も今も』(サマセット・モーム)〜双魚書房通信⑦〜

  書評は鮮度が命。六月に刊行されたこの本を「新刊書評」としてはいささか気がさすものの、今時モームの新刊が出て売れるんだろうかという思いもあり、ここに紹介する次第。

  フィレンツェの若者ビアジオ・ボナコルシは旅の支度をしている。叔父の友人がイーモラの町に使節に派遣されるのに同行することになったのだ。使節の名前はニッコロ・マキアヴェリ、交渉の相手は法王軍の総司令官にしてヴァレンティーノ公爵チェーザレ・ボルジア

  マキアヴェリが派遣されるに至ったのには次のような経緯があった。法王アレクサンデル六世の息子(というのも妙な気がするが、なにせ時代は繚乱たるルネサンスキリスト教世界の最高指導者に息子がいるのはごくふつうのことなのだ)として法王領の拡大・統一を狙うチェーザレは、持ち前の非情冷徹な策謀と断固ためらわぬ決断力とで、急速にイタリア諸地方に割拠する小領主・都市国家をたいらげていた。侵略戦争には各地から傭兵を集めて戦っていたのだが、この傭兵隊長たち自身が各地の領主であるという微妙な事情がある。明日の我が身を惧れた彼らは先手を打とうと結束、チェーザレを滅ぼす陰謀を企てる。フィレンツェにも援助の要請がきたが、怜悧なチェーザレはすでに旗下のたくらみを察して、これまたフィレンツェに軍兵の提供を求めてきたのだった。

  イル・マニフィコ、すなわち「雅量の人」ロレンツォ・メディチはすでになく、メディチ家を追放したフィレンツェ共和政府は、マキアヴェリの形容では「要職につける者は、同僚の嫉妬の対象にならないぼんくらにかぎる」という腐敗・堕落の様相を呈している。使節マキアヴェリの任務はだから、この「鉄腕」公の有無を言わせぬ要求に、あたりさわりのない友誼の言葉を並べたててのらりくらりと事態の妥結まで時間稼ぎをするという、いかにもぞっとしない、しかしそれとして困難なものである。

  こう紹介してくると、全篇虚々実々の「マキアヴェリスティック」な駆け引きが展開される政治小説風の印象を与えかねないけれども、小説はマキアヴェリチェーザレの外交交渉(優雅な阿諛から、恫喝、皮肉、時には芝居まがいの演出や綿密な陰謀もそこには含まれる)と同時に、イーモラの町で見初めたアウレリアなる若妻(町の要人である亭主は年が大分上で、そしておそらく「種無し」である)をマキアヴェリがものにしようと悪戦苦闘する笑劇まがいの筋立てとがない交ぜになって構成される。

  笑劇という形容は根拠のないものではない。不能の亭主に貞淑な美人人妻、それにいいよる悪賢い男の策略という状況は、実はマキアヴェリ作の喜劇『マンドラゴラ』(というものがあるのです!河出書房の著作集で読むことが出来る)の設定をそのまま借りてきたものなのである。手練れの物語作者であるモームがこの枠組みを効果的につかっていることはいうまでもない。しかめ面で権力政治の秘儀を説く「悪魔の代理人」のイメージとはかけはなれた野卑で好色で破廉恥な、つまりは典型的なルネサンス人ニッコロの体温や息づかいが伝わってくる。

  それこそマキアヴェリズムむきだしに、あの手この手で関係者を籠絡し、調略を重ねてようやくつかまえたアウレリアとの逢瀬はしかし、失敗に終わる。この「敗退」の裏にあったからくりは本文について見ていただくとして、このくだりに、イタリア統一を熱望しながら現実政治のキャリアにおいては追放と流謫の連続だったマキアヴェリ自身の経歴を重ねてみることも可能だろう。

  そして恋愛が政治の陰画になっているとすれば、その逆もまたしかり。優雅で俊敏で、かつ鉄壁の意志で敵を粉砕していくチェーザレに、はじめは警戒と冷徹をもって接していたフィレンツェ使節がその「徳=力」(ヴィルトゥ)に少しずつ惹きこまれてゆく過程には、スタンダールのいう「結晶作用」の練習問題を解き明かしていくような趣もなきにしもあらず。

  ただし、とここからは愉快な歴史小説にいささか注文をつけることになるのだが、暴力と理想とが手を携えていたルネサンスの二人の《怪物》を、モームは描ききっているとはいいがたい。それは例のシニシズムがいたるところに顔を出して、人間の怪物性を口当たりよい程度の辛口・苦みに希釈してしまっていることによるのであろう。

  もっともチェッリーニの自伝や『君主論』のごとき、喉を灼くような美酒がつねに好適というわけではない。とすれば、これを「大人の文学」と言うべきか。訳者の後書きを参考につけくわえれば、この書はつとに開高健谷沢永一の博賛をえていた。

昔も今も (ちくま文庫)

昔も今も (ちくま文庫)