スーパーマーケット評判記

 職場近くに、元小学校らしき跡地がある。ひび割れたプールの底が荒廃した詩情を漂わせていて行き帰りにちらちら眺めていたのだが、最近遮音シートを張り巡らせて工事を始めた。

 同僚(主婦でもある)情報によると某スーパーが出来るのだそうな。

 昼の弁当やおやつが買いやすくなると喜んでいる同僚(これは別の人)もいたけれど、この話を聞いた当方はやや憮然たる表情をしていたのではないかと思う。

 〝神戸のチベット ″(チベットの皆様ごめんなさい)乃至〝神戸のアーカンソー ″(アメリカなら安心してサベツ表現が使える)といった辺りに住んでいるのならそうもいかないだろうが、こちらが住居を持った灘区・兵庫区はいずれもスーパー事情にはめぐまれていた。

 何度も書いたことで気がひけるが、日常の食材に限っていうならば、買い物は市場でするに越したことはない。そうなのだが、毎日市場に行けるほどの閑暇には残念ながら恵まれていない身であるからには、スーパーで用を済ませることも多い。おのずとスーパーの好みというのも出てくるわけである。

 たとえば兵庫駅前。ここは恐らく六甲道に次ぐぐらいのスーパー激戦区であって、徒歩一分(二分?)圏内に、KOYO(このローマ字書きの泥臭さがスーパーらしくてよろしい)、コープ、パワーストア・シーダー(これも珍妙な名前ではある)、関西スーパー、ジョイエール御旅とこれだけそろっていた。

 二十年以上食事を作り続けてきているので、「どっか一軒で済ませちゃおうっと」というような考え方にはなれない。買い物となれば、あちこちの店を経巡って、各々面白そうな食材・お買い得な品を探し回るのが楽しいのである(二日酔いの日は別とする)。ま、単にケチなだけかもしれないけど。

 この五店舗では、圧倒的にKOYOが贔屓で、というのは市場とは比べものにならないにせよ、魚介の品揃えの豊富さでは群を抜いていたからである。塩鮭と塩鯖とちりめんじゃことゆでだこしかないのですか、といいたくなるスーパーに比べると、ともかく一回りしてあれこれ迷うくらいの品はある。

 全体にあまり新鮮とは見えない某スーパーは(思えば「フレッシュ」ストアと名乗っていないのは奥ゆかしいことであった)肉売場が面白かったな。豚のすね肉なんて他で売ってるのを見たことがなかったもの。このすね肉というヤツ、焼いてもどうにもならないけれど、じっくり煮込むとじつに旨い。そのうえ安かった。給料前はこの煮込みをよくしたものである(味噌味なら焼酎、トマト味またはブイヨン煮なら白ワインを呑む)。某生協は、時折良心的な調味料やお菓子を置いてたのでちょくちょく見に行ったが、全体に戦後窮乏期的・NHK「今日の料理」的な「栄養」「健康」「市民運動」路線の啓蒙くささがどうも鼻について好みに合わない。だいたい照明の趣味が悪いんだよな。

 などと思い出し始めれば切りがない。しかし本題(?)はここからなのです。今度出来るのは大型チェーンに属するスーパーらしい。心配なのはこの、スーパー(Lとしておきましょう)の近くにある零細(失礼!)スーパー二軒の行く末である。

 別に家族が働いてるわけでも、株を持ってるわけでもないからつぶれようがつぶれまいが、他人の頭痛を疝気に病むこともないけど、この場合は必ずしも他人とは言い切れない程度の縁はある。つまり、この二つのうらびれた(重ねて失礼!)スーパーがこちらの贔屓なのである。

 裏町趣味というか、四畳半趣味というか、今頃の言い方ならB級好きとなるのか、ともかくそういう筋からの贔屓ではない。むしろB級「趣味」には嫌悪感を覚えるほうである。B級がダメなのにはあらず。

 話を戻しまして、趣味でスーパーを贔屓するわけでないのは当り前である。両方ともさほど資本力があるとは見えない(三たびごめんなさい!)店ながら、なかなか味な品揃えをしてくれてるんですよね。古いお寺とか民家を拝見していて、ふと回ったところで趣味のよい小庭が目に入った感じ。どうせ退屈だろ、と思って聞き始めたバロックの協奏曲の中におやと思わせる旋律が聞こえてきた時の感じ。

 ほめすぎか。

 ま、とまれジョイエールとヒロタ(というのがその二軒の名前)は肌に合うのである。「肌に合う」は生理の次元の問題。つまり主婦・主夫一般にウケルかどうかは知らず、こちら好みの献立にあった品が多いということ。これは何度か書いたと思うけど、ジョイエールでは三つ葉・芹が時折ものすごい安値で出ることがある。とくに時期のうちだと、袋からわっさわっさと青々した葉がはみ出るほど(上方ですからもやし三つ葉の類は滅多に見かけない)の量で99円。神の恩寵とやらを感じるのはこういう時である。山菜とか秋の生り物のちとめずらかなものも(これは安くはないが)ちゃんと置いてるしな。

 ヒロタは魚と肉である。刺身にするような魚は買ったことがない。これはマズそうだから、というわけでなく、ちょっとした小魚・甲殻類の種類が多いので、どうしてもそちらを優先してしまうせいである。最近書いたアオリイカはここで買った。シャコと沙魚の話も一度書いたはず。天ぷら用に頭を落としてもしばらく胴体がぴんぴんしてるほどの沙魚が二〇尾ほど入って400円足らず。これは天の寵霊(だんだん大げさになってきた)というものですぜ、奥さん。

 今時の主婦に沙魚なぞさばけるわけないか。

 明石の蛸だって、A3サイズのスチロールにぴっちり詰まって、しかも活けである。ガシラや小イワシ、ワタリガニ(熱狂してしまう)などを見かける頻度も高い。

 国産の牛肉も大きなランプの塊がなぜかほぼ毎日半額だもんなあ。売れなかったアレはいったいどうなってるんでしょう・・・と流通業界の闇に踏み込む前に話を戻して、週末にこの肉を焼いて赤ワインをごっくごく呑むのに最近入れ込んでいる。

 という具合にこちらとしては欠かせない店なのだが、やっぱり心配なのだな。まだジョイエールの方は他に店舗もあることだからもちそうだが、ヒロタは心配。この二つの店を比べても、ジョイエールが混雑している時に、ヒロタの方ではがらんとしたレジで店員がマニエリスム期の肖像画にでも出て来そうな、世にも憂わしげな表情で立っていることが多い。さながら田舎の旧家の二人姉妹、華やかな姉が地元の青年たちにちやほやされているにつけ、おっとりと引っ込み思案な妹(『細雪』!)は、姉をめぐる騒ぎをよそに、やはりおっとりと庭を眺めている、そんな風情。

 もちろん近代資本たるスーパーが風情でやっていけるはずはないので、Lにどう対抗していくのか、今から憂わしいことである。Lは比較的遅くまで開いてるとはいうものの、いかにも大手スーパーという感じ、つまりこちらにはなんとも興味索然たる店構え・品揃えで、仕事帰りにここでモヤシや卵なんぞを買っているとなんだか独身の生活が世にもわびしいものであるように思えてくるから妙である。ま、家族で来てもわびしい気持ちになると思うんだが。

 でジョイエール&ヒロタへのエールは終わり。当ブログの趣旨からいって、両スーパーで買った食材を工夫してみました、と献立を紹介すべき流れだけど、今日はLの話を聞いた危機感から書き始めたのでそれはなし。

*読んだ本数点。

・さる女流研究家が書いた泉鏡花の長篇評論。水っぽかったなあ。これは対象が鏡花だからというのではなく、文章にも論証にも、いかにもコクがない。ある新聞の書評で「たおやかな文章」という賛辞を見かけたが、こういうのはナイーヴというのではないか(一回こんな経験をすると、本の書き手より書評家のほうが実力の程を見透かされるものだ)。鏡花を「ファンタジー作家」と言われても、ねえ。何より小品をふくめ、いろいろ取り上げた作品の《評価》がきちんと出来てないのは決定的。失敗作ではあるが淫するほど好きな鏡花だから許せちゃうワ、というのはよろしい。単なる味覚音痴というのは困るのである。杉本秀太郎さんが、その著書をずばり『品定め』と題して、「批評とは要するに《品定め》のこと」、とその意味を説明していたのを思い出す。

 しかしまあ、ワルクチばかりでは仕方ない。その他の本にうつりましょう。

・キャスリーン・フリン『36歳、名門料理学校に飛び込む! リストラされた彼女の決断』。「名門料理学校」とはかのコルドン・ブルーのことである。以前取り上げたビル・ビュフォードの『厨房の奇人たち』と趣向が似ていなくもないが、ビュフォードの本が、「奇人」伝の背後に秘めた、食文化の行方に関する考察を眼目としているのに対して、こちらはもう少し人間ドラマ(ややメロドラマ的味わい)に重心が寄っている感じ。どちらをとるかは好き好きというところ。レシピもたくさん紹介されています。しかしこの物欲しげないやらしい題名、どうにかならんものか(ちなみに原題はThe sharper your knife,the less you cry )。

柳下毅一郎『新世紀読書大全』:『ケルベロス第五の首』の訳者の書評集。その他の仕事については何にも知らずに手に取ったのだが、うーん、古い言い方だとエロでグロでナンセンス(それにオカルトも添えよう)。ちょっと違うかな・・・。と読み飛ばしてる最中に気づいたのだが、この方、アラン・ムーアの『フロム・ヘル』(傑作だ)も訳してるんですな(むろんその記事もある)。なるほど。

・蒲生真紗雄,・後藤寿一・一坂太郎『江戸時代265年ニュース事典』。いやしくも大学院で江戸時代のことを勉強してた人間がこういう通俗本を読むなんて、と咎めるなかれ。たとえばこの本には、江戸時代の主要幕閣メンバーが、265年分、ということは年毎に載せられているのである。これを見ているだけで(見ながら空想にふけるだけで)十分にもとはとれる。たとえば父・勝重のあとを継いで京都所司代の任にあった板倉重宗などたしか三〇数年在職していて、ページをめくってもめくってもこの名前が残っているのに、いつしか手に汗握る思いである、というのは変かもしれないが、たとえば間寛平がマラソンを完走できるか、と見物しているのにも似て(見たこと無いけど)、いつ倒れるかとなんだか気になって仕方なくなるのだ。今天明期に入ったところである。慶應までは、まだまだ遠い。

・岩佐美代子『光厳院御集全釈』:オバマが負けようが、大島優子が卒業しようがどうでもよろしいけれど、和歌なら『新古今』。これはゼッタイに譲れないところである(どうでもいい?)。それとは別に『玉葉』『風雅』の歌風が妙に気になる。すごく好きという訳ではないのだが、problematischなんだよな。折口信夫がやたらとこだわっていたことも引っかかる。しかし、それはそれとして、光厳院なかなかの歌詠み。岩佐さんが絶賛する「燈」連作もいいが、冬歌の精緻なところも酒の肴にちょうどよい。恋愛歌はも一つだけど。お、ここら辺に我がこだわりの根がありそうな。同じ著者の『玉葉』全評釈も読んでみねば。

・高山裕二『トクヴィルの憂鬱 フランス・ロマン主義と「世代の誕生」』:筆力十分というよりは達者とさえいえる(ワルクチにあらず)叙述。自分より年下の著者の博士論文と知ってなおさら驚嘆。この人にシャトーブリアンの評伝書いてもらいたいな。

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