鋭さとしなやかさの二重唱―『サイード音楽評論1・2』〜双魚書房通信(13)〜

 サイードがみずからピアノを弾く、筋金入りの音楽好きという一面を持っていたことはよく知られているが、邦訳が少なかったせいか、これまであまりその方面からの評価をきいたことが、少なくとも評者にはなかった。

 この上下二冊も、題名にあと一工夫が欲しかった。音楽「評論」。音楽を論じて、虚構の散文ではないのだから、「評論」と称するに何の不都合もなさそうだが、これではベートーヴェンのしかめ面と、鼻唄まじりのシュトラウス2世を一緒の部屋に押し込めるようなもの。人によってはあのおそるべき稠密苛烈な文章で書かれたアドルノの音楽論あたりを連想して、怖じ気をふるうかもしれない。

 サイード自身はアドルノの批評に敬意を表していたとはいえ、そのスタイルはまったく異なるものである。たとえば、一九八七年七月コヴェントガーデンにおける『セビリャの理髪師』上演をめぐっての評。サイードはまず「近年、文芸批評の領域で知識層がこぞって口にするのは解釈という行為の難しさであり、ときには解釈という行為の不可能性でさえある」と書き出す。そして近年のオリジナル楽器ばやりやベルカントスタイルの復活を「その音楽的な成果はおおむね満足すべきもの」と評価しながらも、「ある原典に忠実であるという考えそのものがすでに一つの解釈であることはあまり指摘されない」と念を押すことを忘れない。

 これだけの補助線を引いた上で、『理髪師』の出来栄えを記していく。ロジーナを歌ったルチア・ヴァレンティーニ・テラーニは「皮肉めいた成熟と確信をこめ」、「冷笑の気配を漂わせたメゾソプラノであって、無邪気なソプラノではない」。指揮のガブリエーレ・フェロについてはこう書く。


  ロイヤルオペラハウスのオーケストラを活気に満ちた、しかし日頃ほど流麗ではない楽器に作り変えてみせた。ちょうどロッシーニのアンサンブルの書法にみられる饒舌で修辞的な性格を反映したような趣である。弦を抑えぎみに、高音部の管(とくにピッコロとトランペット)を際立たせて、打楽器群にめりはりの効いたアクセントを要求する。

 そして公演全体の出来を「政治的な複雑さを帯びた知的なロッシーニ」「この慣れ親しんだオペラがなかばばかげた笑劇としてではなく、鋭く計算された、階層批判をはらむ創造的作品として演出されているさまを目にするのは喜ばしいかぎり」として、最後にボーマルシェの書翰やサン-シモン公爵の回想録の情報がつぶさに生かされていることを指摘するのである。

 すなわち、じつにわかりやすい。秘教の咒文めいたアドルノの断言に比べれば(念のためいっておくが、評者はアドルノの音楽論を深く愛好する者である)、話が具体的で、叙述の段取りがきちんとしていて、しかも表現が明晰なことは誰にでもわかる。

 このわかりやすさをサイードの音楽エッセイ(と以下、評論と呼ばずこう呼ぶことにしよう)のいわば向日性の濃い部分とするならば、読者の精神が冷たい手で撫でられているような気にさせられるのは、彼が低く評価する演奏家・演奏に対する、率直この上ない批判と、その奥に見え隠れする峻烈な音楽的理想主義の部分。とくに頻繁に毒舌を浴びせられるのは、退嬰的で通俗趣味に迎合しがちな公演ばかりしているメトロポリタン歌劇場とニューヨークフィルだが、ここでは一人のピアニスト=指揮者への批判を引いてみる。


  アシュケナージが中年期の失敗例であるのは、彼の知性や能力が不足しているために指揮がかたちをなさないというだけではない。なんらしっかりした美学的な構想を持たない時代錯誤的な演奏本能に引きずられて失敗していることも示している。そもそも彼の演奏歴で、注目に値する動向はなに一つみあたらないのだ。あの感嘆に値する才能は、一週間に幾夜か聴衆の前で腕前を披露するためのものでしかないようにみえる。かくも長き歳月にわたって拠りどころになってきた完璧な技巧をのぞけば、ほぼいかなる蓄積もなく、音楽でも知性でも頼れるものがほとんどないようだ。


 一体に、華麗な名人芸を一枚看板とする演奏家(「単なる気まぐれなアクロバットの芸当」)には厳しく、音楽を「最終的には優れた筋肉の技能の背後にあって思索と内省とを反映する企て、ときに音楽を超越した理性的根拠としての企て」とする演奏=プログラムを作る演奏家を高く評価するのがサイードの根本的な姿勢のようだ。

 ピアノ(独奏)はおそらく、現在どの楽器、そしてどの楽曲ジャンルよりも知性や分析が求められる音楽だろうが、サイードはオペラにさえ「音楽を超越した理性的根拠としての企て」を求めていく。その一貫ぶりはおそるべきもので、先に引いたメトへの批判は時にレトリックの限りを尽くした罵倒の域に入る(ここはどうかご自分で就いて確かめられたい)。


 行き届いた鑑賞ぶりと、理を分けた説得に感嘆しながら(たとえばこちらが読んだチャールズ・ローゼンの著書に抱いた、ぼんやりとした不満がこれほど明確に分析されていることに舌を巻いた)、なおも一言著者に言いたくなる。根っこのところで通俗性・大衆性、もっとはっきりいえばブルジョワ性と手を切れず、その切れない臭みにこそジャンル固有の存在意義があるのがオペラというものではないですか、と。わが歌舞伎・文楽にもはっきりそういう性格は見てとれるように。

 この反問は空しい。二〇〇三年、この強靱にして優雅な文体の批評家は世を去った。死の三ヶ月前、聖職者である従兄弟にサイードは電話をかけて、『ヨハネ福音書』の一節の正確な出所をたずねた。それは「僕の葬儀で演奏してもらいたい曲が、君にわからないんじゃないかと気になって」のことだ、と言われた、と言われた妻マリアムがその「まえがき」で記している。その句は「時が来る。いや、既に来ている」というものだった。

 社会における音楽(ある時はオペラの趣味の悪い衣裳を批判し、ある時はオペラの帝国主義的な主題を執拗に分析する)、音楽史への反省など、彼が提出した主題は幅広く、また深い。バトンを渡された読者がそれぞれに考えるのは快い義務であるだろう。評者もリヒャルト・シュトラウスの「晩年のスタイル」、ブゾーニのオペラ(ファウストを主人公にしたものらしい)をじっくりと聴いてみたくなった。

サイード音楽評論1

サイード音楽評論1

サイード音楽評論 2

サイード音楽評論 2