本の始まりと終わり〜双魚書房通信・番外〜

 スティーヴン・キングの『書くことについて』(田村儀進訳、小学館文庫)は、以前にも『スティーヴン・キング小説作法』という題名で出版されていたが(こちらは池央耿訳、二〇〇一年アーティストハウス刊)、そして書店で見かけたときには、キングがこんなものも書くのかと少しびっくりし、池央耿の訳なら安心できそうだなと思ったものの、結局は買わずじまいだった。当代随一の人気作家の手になる「小説作法」という組み合わせがあまりにストレートすぎて鼻白んだのである。

 小学館版を見ると原題はOn Writing。「書くことについて」のほうが語学的にも(大層な言い方だが)忠実であるだけでなく、この本の性質を巧く伝えてもいる、と思う。まあ、この題名では売れそうにないから、『小説作法』としたのを咎める気にはならないけれど(しかしキングの新刊なんだからそんなことくらい気にする必要もなかったのではあるまいか)。

 小説の作法ではなく、書くことについて。だからといって、別にキングがたとえばエンリーケ・ビラ=マタスの好著『バートルビーの仲間たち』(木村榮一訳)におけるような高踏的形而上的な(これは非難にあらず)思弁にふけっているといいたいのではない。それどころか細部にわたるアドバイスはふんだんに盛り込まれている。副詞と代名詞はなるたけ使わないほうがいい、とか、描写は簡潔に、とか。自身の草稿に自分で朱を入れたものも公開される。

 こうした具体性・実際性にも関わらず、この本はアメリカの大学にあまたある文芸創作講座のマニュアル的指導とはまったく趣を異にしている(キング自身も、売れない作家に口に糊する手段を提供する以外には創作コースは役に立たないと述べている)。

 キングは言う、プロットは小説の敵だ、状況の設定とストーリー(話の時系列的な展開)こそが肝腎なのだ。ちょっと聞くと自作の方法を主張しているだけにも思える。『クージョ』なら狂犬病の犬に襲われて車に閉じ込められたら、『ミザリー』なら偏執的な(しかしイカれきってはいない)愛読者によって作家が監禁されたら・・・という風に、「状況とそこからの展開」で要約できてしまうわけだし(注して言う、後者は名篇だが、前者は駄作である)。しかし、ちょっと考えればこれは想像力というものの定義ではないか(プロットはむしろ論理的アクロバットというべきであろう)。

 キングは繰り返し言う、「いいものを書くためには、読み続けること、そして書き続けることだ」、と。ベストセラー作家の量産のすすめというより、小説家という人種のありよう、そして本と人間との関係をぎりぎりまで簡潔に表現したらこうなるしかないのではないか。

 というように、いくらでも深読み出来るのでずいぶん愉しめた一冊だったが、普通の意味で面白いのはやはりその文体だろう。キングはつねに率直に明確にものを言う(現役の同業者の悪口もあけすけに書く)。気取りはなく、しかしおざなりな口調は少しも響かせず、物語への愛を誠実に語り続ける。「典型的なヤンキー」と自分を形容する。アメリカ嫌いの当方にして魅惑されたのだから、あの国の文明もまだ捨てたものではないのかもしれない。結論は「書くことは生きること」である。ちなみに本書執筆直前、キングは交通事故で瀕死の重傷を負っている。

 もう一冊は内堀弘『古本の時間』(晶文社)。著者は日本近代詩歌専門の古書店石神井書林」の店主。伝説の雑誌『彷書月刊』(坪内祐三は「自分の大学」と呼んだ、とのこと)にも携わっていた。

 しかし今回のブログタイトルはまずかったか。古本屋に行けば本は「終わり」というわけでは、無論ない。そのあたりの消息については一度書いたことがある(「生々流転」参照)。ま、少なくとも一度目のサイクルが終わったとは言えるだろう。

 だから、というわけかどうか分からないが、端正で穏やかなユーモアに満ちた著者の行文は、それにも関わらず「死」の匂いをそこはかとなく振り散らしている。これは題材として同業者の死や廃業を多く扱っているせいだけではないだろう。

 出久根達郎さんは言うまでもなく、古本屋の店主には実に筆が立つ人が多いが、あれはやっぱり本といういちばん人間くさい商品(でありフェティッシュでもある)が一度死んでから再生を果たす、もしくは、実はこちらの方が多いのかも知れないが、つい今まで生きていた本が無残にも目の前で死屍累々と横たわるという場面を数限りなく見て来たことによるものなのだろう。

 神戸は元町商店街の端っこ近くにあった、これも伝説的な古書店「黒木書店」(『古本の時間』に、この場所についての素敵な表現がある)やサンパルに一時期店を出していた「五車堂書店」ならこちらの身にも覚えがある。

 あの反町茂雄を本の扱いがぞんざいだと叱りつけたという噂のある黒木書店の親爺は、こちらが顔を出すようになった頃にはもうかなり老いていたが、夏はランニング一枚の姿で(当然店に冷房はない)、店奥から客を睨み付けていた(ように思えた)ものである。

 大江健三郎埴谷雄高の本は絶対に置かないという偏痴気、いや見識の店である。貧乏学生丸出しのこちらが棚を物色するのを見てさぞかりかりしていたと思うが、一度も怒鳴られたことはなかった。高橋睦郎の『王国の構造』をレジ台に出した時は「いい詩人ですな」と、ぼそっと言われた。(今にして考えれば最大限の)もてなしことばをかけてもらったわけだ。偏奇と見えるほどの気の張りようとは裏腹に、骨の髄までくたびれきった雰囲気を出していたことも、後に子息が不幸な死に方をしたと聞いて納得出来た・・・などと自分の経験を振り返りたくなるのもやっぱりこの本の功徳の一つである。


書くことについて (小学館文庫)

書くことについて (小学館文庫)

古本の時間

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