四十而書

 三が日は出勤だったけれど、諸色高直の時節にも関わらずわざわざ御節ならぬ年末料理を作ったのは、アテとして好きなものが多いから。だから、海老の煮たのや伊達巻やらはむろん入れない。

○お煮染め(むしりこんにゃく、海老芋、蓮根、干し椎茸、牛蒡、慈姑)・・・冷めてもいける。というより、冷めたほうがダシの味がよく分かる。
○お煮染め「ず」(鯛の子、百合根、高野豆腐、昆布)・・・たっぷりのダシで炊き、醤油はほんの香り付けにとどめる。上に柚子の皮をおろしてかける。これも冷えた鯛の子をかみしめると、酒がすすみます。
○生ずし・・・たまたま極上の鯖を見つけた。片身は浅めに、片身はしっかり〆る。柚子もたっぷりしぼりこむ。
○なまこ酢・・・これもたっぷりの柚子をしぼって〆る。柚子ばっかり使ってるが、どうせ年が明けるとすぐ旬が終わってしまうから、使えるうちに使っておく。
○ごまめ・・・鷹の爪と一緒にしっかり炒り上げて、酒・酢、ちょっぴりの蜂蜜でさっと煮る。一尾一尾がぱらりと離れるように仕上げる。
○漬け物(酢茎・日野菜・赤蕪・白菜)・・・日野菜は塩と糠で、赤蕪は塩と酢と淡口醤油で、白菜漬は例の通り。酢茎も自分で漬けてみたいなあ。どなたかレシピをご教示してくださいませんか。
○唐墨・・・『播州地酒ひの』製。かるくあぶって、薄切りの大蒜とともに。
○焼き穴子・・・焼き海苔とおろし山葵で。
○生口子・・・おろし芋と合わせて。


 十日戎のころは冬の食物が一等旨い割りに、どこも不景気。もう一度この献立で延々呑みたいものである。


 三日は出勤後に、張龍たちと新年会。翌日は『海月食堂』夫妻を拙宅にお招きして鶏鍋とアテで新年会。こういう時は精励恪勤しております。それにしても敬士郎さん夫妻も鯨馬も、よく食べよくしゃべり呑んだ。誰もお茶もジュースも口にせず。口を動かさない時間はほとんどなかったのではあるまいか。


 さて昨年新しくなったものは二つ。ひとつは原付。どうも調子がよくないなと思ってバイク屋に持って行くと、「よくこんなのに乗ってましたな」と呆れられた。タイヤを交換し、空気をいれ、何を何してほにゃららら(よく憶えておりません)。同じヤツかとびっくりするくらいの乗り心地である。ま、四十三の我が体も「よくこんなのに乗ってましたな」と言われるんだろうなあ。年末の飲みっぷりを思い出してリツゼンとする。


 もうひとつは手習い。文人画がらみの展覧会に行くことが多かった昨秋、画賛や書簡の読解能力が著しく低下しているのにこれまたリツゼンとする。学生の頃は一応読めていたはずなのに・・・こういうものはやはり日頃からの経験が重要なのだが、どうせなら書くほうも修業してみようと思い立った。


 といって別段お習字教室に通うわけではない。ひと通り道具を揃えて、お手本をせっせと臨書するだけのこと。ただし手本はうんと格式あるものを、と池大雅千字文と、王羲之の聖教序、それに青蓮院流=御家流の習字手本。これで鯨馬の人格も大雅なみに寛闊文雅になるはずである。どうぞご期待下さい。


 年末年始の本は次回で。今年も御贔屓の程をお願い申し上げます。


 つちのえいぬ初めの日に詠める
相づちのえゝ加減なる酒(さゝ)機嫌 鬼のいぬ間にこれ呑め椀碗 碧村

 

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我、乱世にあり~双魚書房通信(17) ~

小川剛生『兼好法師 徒然草に記されなかった真実』(中公新書

 

 中学校の教科書にさえ載るくらいの古典のことだから、作者に関してもう知られる限りのことは知られている、と誰しも思う(少なくとも評者はそう思っていた)。その思い込みを片っ端から粉砕してくれる快著。これほど衝撃的な新知見を、しかも盛りだくさん、啓蒙書で披露してもったいなくはないのだろうか・・・などと余計な心配をしたくなる。日本の中世文学に関する専門知識は必要ない。まっさらの素人(評者がそう)でも昂奮して読める一冊です。


 「京都吉田神社の神官を務めた吉田流卜部氏に生まれた出自、村上源氏一門である堀川家の家司となり、朝廷の神事に奉仕する下級公家の身分、堀川家を外戚とする後二条天皇の六位蔵人に抜擢され、五位の左兵衛佐に昇った経歴」を小川剛生は「造られた虚像」「出自や経歴はまったく信用できない」と小気味よく斬りすてる。


 断じるにはむろんそれだけの根拠がないといけない。社寺や公家の日記・記録などの記述を丹念におさえていることは専家として当然なのだろうが、評者には誰でも見ようと思えば見られる類いの資料を用いて鮮やかに読み解く=読み替える手際に感歎した。


 たとえば我々もなじんでいる「兼好法師」という呼びかた。兼好は七つの勅撰和歌集に十八首採られているが、その際の作者表記はすべて「兼好法師」。そして侍品(これは公家社会での身分秩序における最下層を意味する)以下の出家者は「凡僧」と呼ばれて「○○法師」と表記されるのだそうな。だから、五位の左兵衛佐になっていたのなら、「遁世しても必ずや俗名で表記されたはずである」。ナルホド。勅撰のような格式の高い集においてはこういう慣行は厳守されるだろうからな、と納得する。明快にして強力な論証。


 この例だけでなく一体に、鎌倉末期から南北朝の社会における常識・慣行のなかに対象を置いて見直していくのが小川さんの学風であるらしい。兼好の行動圏である六波羅周辺の住民層を検証して、「武士・宗教者・金融業者などがひしめく新興都市」と位置付け、そしてその空間のなかに是法なる法師の行動を追いかける所など。『徒然』百二十四段で賛美されるこの坊さんの、土地・金融取引の実態を跡づけた上で(「実に敏腕の経営者」)、「金融や不動産売買で巨万の富を得ようと、是法の信仰と矛盾することはない」。ナルホド。七百年前の都びとのメンタリティーがいきいきと伝わってくる。


 もっともこれは古典(にとどまらないか)文学研究の本道であるはずなのだけれど。殊に、個人の自我の発露や創意よりも伝統や秩序を重んじた中世社会にあっては、人の発想・行動には必ず倣うべき範型が存在する。和歌でいえば「本意」というところ。あるいはクルツィウス風にトポスと呼んでもいいだろう。「当時の社会では、自らは公的な場でどのように振る舞えばよいのか、相手に対してはどの程度の敬意を払えばよいのか―――すなわち書札礼、路頭礼といった作法を知ることが重要な教養であった。乱世であればあるほど、その後の復原力もまた強く働いた」。最後の一句は史眼の冴えを示している。


 詳密な伝記の再検討でありながら、作品の読みにあらたな角度を提供しているのも、優れた研究である証拠。兼好さんは「何事も古き世のみぞ慕はしき」、と内裏のくまぐまをほとんど恍惚として賛美している。過去の栄光の回想、という通説を著者はここでも退ける。兼好が実際に目にしたのは官庁御殿が連なる大内裏ではなく、「里内裏」(洛中の廷臣の邸を借り受ける)だったと指摘するのである。ナルホド。これだと、目の当たりにしているごく標準的な調度に「これこそ内裏!」とコーフンしているミーハーの姿が浮かんでくるわけだ。


 当時は、内裏に一般住民が入り込むこともふつうだったらしい。殿上人などは狩衣で儀式に臨むな、という禁令が紹介されている。略装だと公家が群衆に紛れてしまうのである。「我先争って紫宸殿に昇り、禁廷を埋め尽くす見物人の存在が前提となっている」というから可笑しい。そして、「兼好の内裏へ抱いた憧憬は、この日に内裏につめかけた住民のそれと違いのあるものではなかった」。


 この兼好像はすこぶる清新。この男の手になるものとしてあらためてあの本を思い浮かべてみよう。なにやら斜に構えた隠者の独り言はやがて音を潜め、かわっていかにも「町のひと」らしい好奇心と身ごなしの軽さと、少なからぬ軽佻さとが横溢するシャープなエッセイという姿がせり出してくるようである。かの有名な小林秀雄の文章(これも教科書の定番だったものだ)の、思わせぶりが阿呆らしくなる。

 乱世でありながら活気に満ち、下剋上が横行しながら伝統が賛美されるケッタイな時代を生きた、これまた矛盾だらけのケッタイなやつがものした一代の奇書。本来『徒然草』は教科書になんぞ採るべきではない、じつに愉快な読み物なのだった。

 

兼好法師 - 徒然草に記されなかった真実 (中公新書)

兼好法師 - 徒然草に記されなかった真実 (中公新書)

 

 

 

 

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皇帝的鮑

 シェアキッチン「ヒトトバ」での“一日だけの料理屋”「蜃景楼」二回目はコース形式。使い慣れない(そして狭い)調理場だから、作る方・食べる方双方にとってこのやりかたがいいようである。

 「舌尖上的変人合作」なるUさん手書きの献立を写し、いささかの注記を付ける。

○老酒汁三海味・・・十年物の老酒に、甘海老・槍烏賊・海月の三種を漬けたもの。香辛料も何も使っていない、とのこと。それでこれだけの味が出るから不思議。
○変人合作前菜・・・意味は分かりますね(鯨馬もこれだけは分かった)。内容は、生鮭を酢と山椒に漬けたもの、シューヨ(香港式焼き豚)、鶏の燻製(骨を綺麗に抜いてある)、中国風ピクルス、皮蛋豆腐(黄身は潰してソースに、白身は刻んで豆腐に載せる。豆腐は万願寺唐辛子を練り込んだもの)、レバーペーストをシュー生地に挟んだもの
○仁修一碗天香・・・要は湯(スープ)なのだが、これが凄いことになっている。皆様ご存じのシャンタン(上湯、上等の素材で引いたスープ)、あれをベースにして引いた湯がある。日本酒でいうところの貴醸酒の如し。これをティンタン(頂湯)という。この日供されたのは、更にそのティンタンをベースにして引いたもので、なんでもチントンシャンとかいって、おそろしく手のかかるものであるらしい。この上にはもうトテチントテチンというのとチリトテチンというクラスしか無いと聞いた。鼈と金華ハムと棗が入っていたのは憶えている。蒸して引いたものだから清澄きわまる。そのくせに、全身の細胞に染みわたって賦活するのが感じられるくらい深い味。酒(ワイン)は一時よして、香りと味わいとの交響に耳をすませることになる。
○燻魚牛蒡春捲・・・これも分かりやすい。鯖の燻製(玄米茶で燻す)と水菜を巻いたものを、牛蒡のペーストに付けて食べる。牛蒡は生姜と炒めて、スープで煮込んでからすりつぶす。「こんな手間のかかるもの、普段は中々出せません」と敬士郎さんが苦笑していた。
○蠔皇乾隆干鮑・・・干し鮑の煮込み。一切れを噛みしめると、いつまでもいつまでも旨味が湧いてくる。これはワインより老酒でやりたかったな。料理名になぜ清朝最盛期の皇帝の名があるのか。満州族と漢族との融和を図って両方の料理を一緒に出した(これが所謂満漢全席)。その趣向を取って山と海の珍味を取り合わせた料理に「乾隆」の名を冠するようになった、とUさんが説明してくれた(鮑の他、小芋と鶏手羽に糯を詰めたものが入っている)。料理に皇帝の名が付くところがいかにもあの国らしくて愉快である。本朝でも、天武鍋とか白河和えとか後醍醐焼きとかいった料理があったら面白いのに。
○甜醤香煎鴨甫・・・鴨ロースの焼き物。バターナッツのペーストを下に敷いて。ソースは甘味噌。添えられたルッコラがいいアクセントになっている。
○大閘蟹粉湯包・・・上海蟹の身をほぐしたのを具にした饅頭を餡かけにしたもの。餡にも上等のスープが使ってある。
○泡辣鯛魚麺線・・・煮込み麺。鯛を何匹も煮込みに煮込んでとった出汁だから、一口啜ると、鯛の香りがもわわわわ~んと広がる。香菜との相性は抜群。
○精彩美味点心・・・デザート。なんだったか記憶にございません。


 中華ばかりは素人では無理。「蜃景楼」に行ってもそう痛感させられたし、また後日南條竹則『飽食終日宴会奇譚』(日本経済新聞出版社)という、これまたスゴい本を読んでいよいよその感を深くしたのだが、一方でこれは和食でも活かせるんじゃないか、と思ったこともある。出汁を蒸して引くのもそうだし、卵を黄身と白身に分けて使うのもそう。造りに山椒を使うというのも、少なくとも当方の発想にはなかった。

 もっともスープを引いた壺はUさんの自作(丹波の窯で焼いてるそうな)。こればかりはどうしようもない。

 

 いい気分のままに、折角だから漢文口調での感想を作った。韻も平仄もなってないけど。


 甲南易牙聚/招牌老饕會/盡珍饌佳肴/上善宛如水

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懐石ごっこ

 十連休ながら、旅には出ず。それどころか、外に食事しにいくこともほとんど無し。敬士郎さんと五軒はしご酒したくらい。いつも遊んでくれてありがとう、敬士郎さん!

 その代わり、市場やデパートにはよく行った。毎日旨そうな食材を買って帰り、好きなように料理して食べる。不思議なもので明日も明後日もしあさっても休みだと思うとかえって夜更かしする気にもなれず、おかげで朝は気持ちよく目覚め、掃除洗濯を済ませると浮き浮きと買い物に出かける、というサイクルを繰り返して、連日鴨だの河豚だの買っていたら、結局旅に出るのとそう変わらない出費となっておった。

 最後は懐石「ごっこ」。大阪に出た折、会津の塗り物の展示を見た。塗りの風合いはまあまあ気に入ったというところ。しかし五椀が組みものになっていて、そのまま「一汁三菜(+1)」の膳立てとなる所が面白くて買ってしまう。この形を活かすには懐石しか無いだろうという訳で・・・というより、懐石を作ってみたかったから買ったのだろう。ともあれ、この日も市場やデパ地下をうろうろ物色したあげく、決まった献立は以下の如し。

○飯・汁・香の物・・・飯は熟ましていない、いわゆる「べちゃ飯」を杓子でひとすくい、一文字型に盛る。汁は胡麻豆腐・ひじき・蕪菜の白味噌仕立て。とき辛子を胡麻豆腐の上にぽとり。本来はここに向付が載るところ。これは酒肴においといて、代わりに昨年付漬けた沢庵。ふだんは飯なんぞ食わないが、「ごっこ」は真面目にせねば面白くない。これを食べ終わると、一旦器を洗って、もう一度。
○椀盛・・・汁が白味噌だったので、こちらは清汁。実には鴨の抱き身を大へぎにしたもの・椎茸(干し椎茸をもどして使う)・蕪(聖護院かぶらの間引菜だから、ごく小さい)・芹(ゆがいておく)・京人参(これもゆがいて)・滑子、吸い口にへぎ柚子。
○向付・・・紅葉鯛昆布〆加減酢(かぼすと、淡口・濃口醤油を合わせる)・蒸し鮑共酢(肝を擂って、山葵醤油と混ぜる)、あしらいには坂本菊(ゆがいてさらした後、三杯酢に浸けてしぼる。こちらの加減酢は米酢・煮切り酒・淡口)。
○煮物・・・焼き穴子・海老芋・牛蒡・京人参。仕上げに柚子を擂ってちらす。
○焼き物・・・真魚鰹幽庵焼(酒・味醂・濃口に酢橘をしぼり入れる)
○八寸・・・というには少々手がこみすぎているが、「海」には柚釜仕立(生雲丹と滑子)、「山」として白和え(干し柿・菊菜・椎の実・木耳)。

 懐石盆(これも買うた)に椀盛以下を盛り付けた方が無論見栄えはするのだが、やはりいつもしているように、ひと品出して酒を呑み、酒が尽きかけたら次の品に取りかかるというやり方が旨く食える。熱いものは熱いうちに、冷たいものは少しでも冷たいうちに、というのが一等大事なんだと実感した。ま、そう言いながらもご機嫌に剣菱の瑞祥を五合やっていたのです。

 読書のはかがいったことは言うまでもない。逆に勤め人の身でしかも本好き、という状況でさいわいに生活から書を廃せずやってこれたものだと思う。外で呑んでなけりゃもっと読めてたんだろうなあ。しかしそれだと早死にしていただろうなあ、と我が人生を振り返る。

 さて休みのあいだに読んだ本。

○チャイナ・ミエヴィル『オクトーバー 物語ロシア革命』(松本剛史訳、筑摩書房)・・・『都市と都市』『クラーケン』を書いた、あのミエヴィルです。SFに非ず。大学院ではマルクス主義の立場から国際法を考察した論文を書いたほどの左派である由。序文で中立であろうとはしていない、と公言するとおり叙述の調子にボルシェヴィキ贔屓は紛れもない。当方は別段保守反動という人間ではありませんが、ケレンスキーが気の毒で仕方なかった。ミエヴィルの冷淡な扱いというより、どう動いても右から左からクサされる損な役回りになってしまったことをいうのである。書名のとおり、十月革命「まで」の本なのだが、巻末の人名リストで「スターリン統治下で処刑」が延々続くのには参った。それにしても、レーニンて無茶苦茶な人間やな。
○桑野隆監修・若林悠著『風刺画とアネクドートが描いたロシア革命』(現代書館)・・・アネクドートとはロシア革命ソ連時代に作られた政治ジョークのこと。ボルヘスは「ボードレールは検閲があったからいいものを書けた」と言った。暗鬱苛烈な体制がジョークを産むということか。プーチンやトランプでアネクドートは作れても、安倍首相では作れそうもない。幸か不幸か。ま、それはさておきこの本、読みどころは風刺画・アネクドートではなく、著者による十月革命「それから」の語りである。言うまでもなくそれはスターリンの権力闘争と独裁・粛清時代。「文字通りに全世界を敵に回して戦った」トロツキーの肖像がよい。これもまたレーニン並みにケッタイなやつではあった。光文社の新訳文庫からもリードの『世界を揺るがした十日間』出るらしいから次に読んでみよう。
○オットー・D・トリシャス『トーキョー・レコード 軍国日本特派員日記』上下(鈴木廣之・洲之内啓子訳、中公文庫)
○勝又基『親孝行の江戸文化』(笠間書院
○クレイグ・クルナス『図像だらけの中国 明代のヴィジュアル・カルチャー』(国書刊行会
○ジョルジュ・ルフェーヴル『1789年 フランス革命序説』(高橋幸八郎他訳、岩波文庫
○ヤン・コット『シェイクスピアカーニヴァル』(高山宏訳、ちくま学芸文庫
松木武彦『人はなぜ戦うのか』(中公文庫)
デイヴィッド・ロッジ『起きようとしない男 その他の短篇』(高儀進訳、白水社
○渡辺憲司『江戸遊里の記憶 苦界残影考』(ゆまに書房
ダニエル・デフォー『ペストの記憶』(「英国十八世紀文学叢書」、武田将明訳、研究社出版)・・・フィクションでは今回の白眉。中公文庫版(『ペスト』、平井正穂訳)は格調高い名訳だと思うが、詳密を極める新訳で読むと、疫病の猛威が一段とすさまじく迫ってくる。デフォーの平明な、ジャーナリスティックな文体でないとこの迫力は出ないんだろうな。
○植村和秀『折口信夫 日本の保守主義者』(中公新書)・・・何を言いたいんだか(「折口は保守主義者だった」ということなんだろうか)なんだかよくわからん本だったが、巻末の新編折口全集はこの順番で読め!というチャートが役に立つ。
○高正晴子『朝鮮通信使をもてなした料理 饗応と食文化の交流』(明石書店
ボルヘス『語るボルヘス』(木村榮一訳、岩波文庫
○井上亮『天皇の戦争宝庫 知られざる皇居の靖国「御府」』(ちくま新書
○西川祐子『古都の占領 生活史からみる京都1945-1952』(平凡社)・・・この本もよい。
○櫻井正一郎『京都学派酔故伝』(学術選書、京都大学学術出版会)
苅部直『日本思想史への道案内』(NTT出版)
小玉武『美酒と黄昏』(幻戯書房
川本三郎・樋口進(写真)『小説家たちの休日 昭和文壇実録』(文藝春秋

 


 今回もディケンズは読めなかった。

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鶉が叫んで冬が来る

 山鶉(ペルドローグリ)が熟成しましたと知らせをもらって「MuogOT」へ。一年ぶりだな、うずらちゃん。リヨン風ソーセージもサラダも旨かったけど、やはりこの日の主役だけあって、山鶉は見事な仕上がり。ももはコンフィしてから炙り、胸はそのままロースト。細かい肉はフォアグラを混ぜて蒸し焼きに。土鍋の中にはアラで取ったスープで炊いたリゾット。てっちりだって最後の雑炊に味の粋が集まるように、このリゾットも身をくねりたくなるような旨さでした。土の香りと葡萄酒の香りがする肉は言うまでも無し。それより驚倒したのは肝・心臓・砂肝(串焼きにしてある)だった。トリのキモに驚倒とはまた大袈裟な。いえ、誇張に非ず。内臓だから無論苦いのだが、その苦さがおっそろしく気品に富んだもので、山深いために春のおとずれも未だ知らない庵の松の戸に雪の玉水がしたたり落ちる、という風情であった(式子内親王は鶉の肝が好物だったのではないか)。神戸牛のシャトーブリアンがこようが黒鮪の大トロがこようが、少なくとも凜然たる気配においては敵うものではない。内臓ばかりの鶉ちうのはどこかにいないものか。「ひとつとりふたつとりては焼いて喰ふうづらなくなる深草の里」(蜀山人)。前田さんのジビエ料理を食べると冬到来、という実感が湧いてくる。次は年末に鳩を料ってもらうことにする。※ワインではハイリゲンスタインの二〇〇三年というリースリングが良かった。


 その前田さん。鶉の状態を説明するのに「このコ」「このコ」と言う。その口調ととろけんばかりの表情がじつに可笑しい。スティングやクイーンの歌を口ずさみながら「このコ」の羽を毟っていたと聞くと尚更可笑しい。なんでも「弾の当たり所が良かったので内臓が綺麗にのこった」とのこと。


 鶉にしたらどこに当たったとて当たり所が悪かったには違いない。


 それにしても、死してなお「熟成」が求められるとは、このペルドロー氏、余程因果な宿世を負っていたものと見える。当方などは四十年生きてみて、毛ほども成熟したおぼえがない。これが死んだら多少はマシになるのであろうか。一年ほど経って遺族うちそろって開「棺」式をば執り行う。

 「あら、お義父さんたらすっかり脂気が抜けちゃって」「おじいちゃんの内臓、とろっとろだね」「軒に逆さに吊っておいてもう少し放っといたらええのとちがうかしらん」「心臓の串焼きはジャンケンで勝った人のもん、ちうことらしいで」


 なんだかゾクゾクして参りましたので、読書メモはまた次回ということで・・・

 

 感懐一首。

いのちあるものは熟成せざりけり皿のジビエのくれなゐぞ濃き

 

 

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 ↑↑↑

「このコ」です。

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大勢の場合

 鍋の具材は一、二種類にかぎるとは書いたものの、やっぱりひとり酒の場合に限るようである。あ、ふたりでつつく時もこちらのほうが風情がある。「そして櫓のさしむかひ」・・・惚れた同士が炬燵の上いっぱいにすき焼きの具材を広げたのでは様にならない。と反対にそこそこ頭数があって鍋の中は一、二種類というのも具合がわるい。全員が土鍋の湯豆腐をじっとにらんでいる絵面を想像されたし。

 と考えて、『いたぎ家』ご一家(父上母上、アニー、アニーヨメー、タク)をお招きしての鍋の趣向はうどんすき、と決めていた。少なくするときはうんと削りつめるが、多くするならとことん多く、でメリハリをつけたい。よって具材の一覧以下の如し。

○三ツ葉(天然ものだそうな)
○芹(同じく)
○白菜(芯の黄色い種類)
○葱
○菊菜
○菠薐草(湯がいて水にさらす)

○絹さや 

○牛蒡(ささがき)
○海老芋

○百合根
○大黒しめじ
丹波しめじ
○柿の木茸
○平茸
○椎茸
○豆腐
○揚げ
○ひろうす
○生湯葉
○粟麩
○紅葉麩
丹波地鶏(ももとむね)
○蛤
○牡蠣(蛤に牡蠣を重ねるという所に「うんと」の面目躍如)
○車海老(活け)
○焼き穴子

○鱧(穴子に鱧も重ねてしまう)

 薬味はお決まりの七味、山椒に加えて針柚子とすだち。個人的にはこのすだちがないとうどんすきらしい気分が出ない。そう言えば、実家でする時は出し巻きも入っていたような。

 結局うどんは最後に投入、ということはこれはうどんすきではなくちゃんこなのだった(お客の顔ぶれが顔ぶれだけに)。

 肴としては、
○鯖きずし(対馬から送ってもらったもの。さすがに身の締まりかたが違う。魚を釣って送る会社はフラットアワーと言う。代表の銭本さんは日本の漁業資源保護のために精力的に活動なさっている。彼の考えにすこぶる共感したので、ふだん宣伝の類いをしないブログではあるが、あえてここに名をあげる)
○柿膾
○茗荷、生姜、胡瓜の即席しば漬け(各々繊に切り、塩もみしたあとで、梅酢と淡口、それに味醂を一たらしづつ)
○千枚漬け風(あ、昆布入れるの忘れてた!)

 当然酒は清酒が主となる。こちらは出たばっかしの「瑞祥黒松剣菱」と「萬歳楽 劒」を用意、アニーのおもたせは「大治郎よび酒(みず)」。いずれも燗向けの品(「劒」は金沢のおでん屋で鯨馬が必ず頼む)。剣菱の熟成酒らしい香り、大治郎の腰の強さ、萬歳楽の切れ、等の違いをがやがや論評しながら鍋をつつく。本当に充実した休日の夜となった。いたぎ家の皆様、ありがとうございました。

 さて今日は、茸の残りを鍋にして独酌。これはこれで悪くないのである。

 

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晩年の北斎

 あべのハルカス北斎展、噂どおりの大混雑。「チケット購入にたいへん時間がかかる」とHPで警告していたので、事前に購入して行ったけれど、会場に着いてみると「整理券をお配りしています」という状態。結局整理券に指定された入場時間まで一時間半、待たねばならない。この日、朝から動き回って疲れていたのでともかく腰を下ろしたい。

 というわけで、地下街の一杯呑み屋で呑んで待つ。昼に行った大和文華館「柳沢淇園―文雅の士・新奇の画家―」の中々よく出来ている図録を眺めながら冷や酒を呑む。こむずかしそうな本を広げて菊姫山廃純米をぐいぐいあおっている中年ひとり、という絵柄はドスがきいて見えたかもしれませんが、なに、このオッサンの口元を仔細に見てみれば、店内に大音量で流れていた『ヘビーローテーション』を口ずさんでいたのが見えたことでありましょう。

 さて北斎は、すこぶる佳し。夕方のデパ地下並みの混雑の中で見物した人嫌いの人間が言うのであるから、信用して頂きたい。もっともこちらがもっぱら期待していた晩年の肉筆画の一角はさほど混み合ってもいなかったけど。「河骨に鵜」図の、鵜の不逞な表情。「三伏の月の穢になくあら鵜かな」(飯田蛇笏)なんて俳句を想起してみたり。「流水に鴨」図の不可思議な奥行き、というのは画面構成をいうのではなく、「あ、前世でこういう空間にいた気がする」という感覚が呼び覚まされる。「李白観瀑」図の、おかしな形容だが、耳を聾するような圧倒的なしづけさ。「雪中虎」図の、ニルヴァーナ的悦楽等々。一体に、彼岸的な雰囲気が濃厚で(仏教色というわけではない)、そこに新鮮な衝撃を受けた。会期末まであと少し。鯨馬が行った時よりさらに人手は増えているだろう。それでも行く価値のある展覧会だと思います。待ってる時間は、あべチカの呑み屋で菊姫を呑んでいればいいわけだし。

 苦手な絵描きを見直す機会を与えてもらって、たいへん嬉しい。しかしそれはそれとして、杜鵑と狸和尚の画幅を見ると、なんだか蕪村と比較して考えたくなった。

 今、関西ではなぜだか文人画系統の展覧会がやたらに多い。前述の淇園展しかり。鉄斎美術館はまあ《常打ち》としても、逸翁美術館の蕪村展、頴川美術館の南画展(大雅や崋山など)、神戸市博物館では「風流天子」徽宗の絵が見られる(徽宗文人画ではなく院体画とすべきだが)。てわけで、鉄斎の後期展示と逸翁、神戸市博物館を観てから感想まとめます。

○コーネリス・ドヴァール『パースの哲学について本当のことを知りたい人のために』(大沢秀介訳、勁草書房)・・・「本当のこと」もなにも、パースさんには一面識も無いの。記号論が面白い。勉強する必要アリ。
マルクス・シドニウス・ファルクス『ローマ貴族9つの習慣』(ジェリー・トナー解説(という体の、トナーさんの本)、北綾子訳、太田出版
○髙谷好一『世界単位日本 列島の文明生態史』(京都大学学術出版会学術選書)
○田中さをり著者代表『哲学者に会いにゆこう 1・2』(ナカニシヤ出版)
富岡多恵子安藤礼二折口信夫の青春』(ぷねうま舎)
アラン・コルバン編『男らしさの歴史Ⅱ 男らしさの勝利―19世紀』(小倉孝誠訳、藤原書店)・・・抑圧されっぱなしの女もタイヘンだが、男もつらいよ。
矢吹申彦『おとこ料理読本』(平凡社
川村伸秀斎藤昌三 書痴の肖像』(晶文社
○遠山隆淑『妥協の政治学 イギリス議会政治の思想空間』(「選書「風のビブリオ」」、風行社)・・・使えるせりふが沢山ありますよ。たとえば「高貴な感情と合理的な思慮とつまらない虚栄心と卑しむべき愚かさの、共約できない状態での並存」。共約することを目指さず、ただその並存状態の維持をめざす。結論は、むしろ出してはいけないのである。また「政治とは地味な問題を処理する業務(buisiness)である」。退屈さと俗悪さに耐えるしかないのである。
○『老のくりごと 八十以後国文学談儀』・・・島津忠夫著作集別巻4。瑞々しい思考が躍如としている。学者のうつくしい晩年。
木俣元一・小池寿子『中世Ⅲ ロマネスクとゴシックの宇宙』(西洋美術の歴史、中央公論新社)・・・このシリーズ読み上げたと思ったけど、まだ残ってた。
○橋爪伸也『大大阪の時代を歩く 大正~戦前の大阪はこんなにすごかった!』(歴史新書、洋泉社
○大森貴秀, 原田隆史, 坂上貴之『ゲームの面白さとは何だろうか』(慶応義塾大学三田哲学会叢書)

 まだディケンズに取りかかれていない。

 

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