休みの前のしずけさ

 お盆休みはみっちり働いた代わりに、月末は十日休暇が取れることになった。それを慰みに、三宮にも出ず、ジムで泳いだ後は缶ビールを飲みながらひたすら本を読む日々が続く。毎年この時季、当ブログでは「下鴨納涼古本市」の記事をあげているのだが(毎年では無かったかもしれない)、今年は下鴨には行かず。着実に書庫の隅っこに積み上がりつつある、文字通りの「積ん読」本から責め立てられてるみたいで、なんだか気が差したのである。とはいえ、日に日に新しい(というのは新刊ということでは必ずしもなくて、当方にとってお初の顔合わせ、ということ)書物とは巡り会ってしまう、というわけでなかなか「待たせたな」というわけにもゆかず。以下はここしばらくの「浮気」の記録ということになる。

★『oxford数学史』…枕みたいにばかでかい本。ホントはそれこそヴァカンス中に、海辺のホテルかどこかでゆっくり頁を繰りたかった部類の書物。複数の執筆者による共著で、それぞれトピックへの照明の当て方が異なっていて退屈せずに読めた。でもやっぱり出来れば一人の著者による、偏見も込みにしたユニークな通史(たとえばアンソニー・バージェスの英文学史みたいな)が読んでみたい。リーダブルかつしっかりした通史(単著)というのはどのジャンルでももっと書かれていい。


★ガブリエル・ターギット『図説花と庭園の文化史事典』…これもヴァカンス向きの本。なーんも考えずに読み飛ばせる。それにしても花壇をあれだけ発達させた西洋庭園に引き比べ、日本庭園における花卉の冷遇ぶりはなんとも不思議なくらいである。あれは逆に、生け花という形で室内にも花(という自然)が進出または侵略してきている、と取るべきなのか。たしか幸田露伴だったと思うが、摘み草という風俗をもっと盛んにすべきという文章があったように記憶している。室内で見る花と、手にとって摘む花と。後者の経験があまりに浅いからこそ、高山植物などの乱獲も起こるのではないか。子どもにはもっと小動物や昆虫をいじりたおして時には殺すこともあっていいと思うのも同様の考えからである。あ、結局色々考えてしまった。


★アルデン・T・ヴォーン『キャリバンの文化史』…前に取り上げた越智敏之『魚で始まる世界史』で、キャリバンが鱈にたとえられていることの歴史的文脈を読んで、俄然キャリバンに関心が出てきた。もともとシェイクスピアの中でも『あらし』と『夏の夜の夢』を鍾愛していたからよけい面白く読めた。富山太佳夫先生が面白がりそうな本だなあ、と思ってたら案の定書評で取り上げてらしたので、なんとなく気分がよくなる。誰か近代の陰画/陽画としてのキャリバン/ロビンソン・クルーソーの「対比列伝」、書いてくれないかなあ。それこそ富山さんなど最適だと思うのですが。


★水野千依『キリストの顔 イメージ人類学序説』…キリスト教イスラーム関係の史料でよく「偶像崇拝の邪宗徒」てな表現が出てくる。たしかに、ユダヤイスラームキリスト教では神の顔を造型することは禁じられている(ヤーウェ=父なる神=アッラー自らが「十戒」でダメ、と言っている)。それをまことに厳格純粋に守ったユダヤ教イスラームはだから、論理的に一貫しているのだが、イエス(と父なる神)との図像表現ぬきにキリスト教文化史は語れない。この大いなる矛盾はキリスト教文化圏の中でどうとらえられてきたのか。史料を博捜した一冊を要領よくまとめるのは難しいが、あえて主題を要約すれば以上のようなことになる。カトリックおよび正教会が出した解答は、①イエス自身が「これは我が肉我が血」と、最後の晩餐でパン・葡萄酒を弟子達に分け与えた以上、「イメージをとおして神を思い描く」(むろんこれは神の顔を直視することとは峻別される)は神学的に正統な根拠を持つ、②人の手になるものは単なる似姿だが、聖なるものの直接的接触から生まれた「イメージ」はそれ自体神聖なのである、というもの。②は少しわかりにくいが、要するにトリノの聖骸布やマンディリオン(聖顔布と訳される、イエスが顔をぬぐったときに布にかたどられたという似顔のこと。ながくコンスタンティノープルに伝わっていた)のことを言うのであるらしい。その精緻を極めた神学とはおよそ相容れないような、聖遺物崇拝(フェティシズムの極地)も、「キリストの顔」の扱いから生まれてきたものを考えると納得がいく部分もある。それにしれも、やっぱりキリスト教ってへんてこな宗教であることよ。


★今福龍太『書物変身譚 琥珀のアーカイヴ』…敬愛する著者だし、好きなテーマだし、書評でも好意的に取り上げられていたので読んだのだが。感心しなかった本について縷々述べるのはやや趣味が悪いけど、あえて書く。たとえば次のような叙述に、異様なほどの違和感を覚えずにはいられなかった。


 入江にも、集落にも、避難所にも、いうまでもなく書物は不在だった。災厄は、書物書物が伝えようとするすべての言葉を、すなわち人間の智慧と記憶の凝縮を、汚泥と瓦礫のなかに投げ込んで去っていった。だがそのような深い絶望と悲嘆のなかで、人々は不在であるはずの書物の世界に、かすかな光を求めようとした。詩句のなかで白く泡立つ光の痕跡が、人々の休らいえぬ脳のなかで、かすかな発見と希望の種子をはぐくんだ。被災直後から、ものを読むと文字が紙の上に浮き出して揺らぎ、いっさいの読書から疎外されていた人々の眼が、書物の方へとゆっくり回帰する瞬間だった。もちろんそのとき、書物の不在は、言葉への希求が新たに芽生えるための、むしろ条件にほかならなかった。不可視の書物が、書物の瓦礫のなかからふたたび生まれ出ようとしたのである。



 つまり、書物はかならず終わりあるモノである、というゆるぎない真実である。紙とインクと糸。すなわちそれは、はかない、有限性のもとに条件づけられた物質の組み合わせにすぎない。だが書物が終わりあるモノであることは、それが物質としての身体性をそなえた、豊かな有機的存在であるという確信をも同時に私たちに植えつける。それが死すること。死する運命にあること。瓦礫となり、灰となる終の命を全うする書物の姿がかたわらにあることで、私たちはそれが、自らも死を免れえない人間自身の姿が投影された至高の存在であることを直観する。物質としても、思念の結晶体としても。


 外壁だけをかろうじて残したサラエヴォ国立図書館の廃墟のなかで、灰となった書物と瓦礫の間を縫うように歩く思索者たちの姿をジャン=リュック・ゴダールは映画『われわれの音楽』Notre Musique(二〇〇四、邦題『アワーミュージック』)のなかで印象的に描き出していた。そこでは、スペイン人の作家、パレスティナ人の詩人、アメリカ・インディアンの男女などが、図書館の廃墟のなかを詩句やアフォリズムを唱えながら徘徊していた。本は失われても、詩も言葉も忘れ去られることはない。灰燼に帰した万巻の書物への記憶は、彼らの身体に内部化された朗唱の声として、絶望を超えて新たな希望の言葉を紡ぎ出そうとしているようにも見えた。ここでもまた、書物の不在が、死すべき宿命をもった書物そのものの条件を私たちに突きつけることで、逆に新たな書物的想像力を出現させる力となっているのだった。



 ……おそろしく鈍感な表現、というのは天に唾するような評言だろうか。しかし、「書物の瓦礫」という状態を前にして表現者が出来るのは、背負ったものの重みに耐えかねてもらす謎語のような切れ切れの呟きか(ノートにおけるカフカである)、危機意識の深刻さに引き攣れたような、いわば強いられた軽さに飛翔するか(「歴史哲学テーゼ」のベンヤミン)、いっそ信条告白として剛毅なスタイルを貫きとおすか(これは『師弟のまじわり』のジョージ・スタイナー)、なのではないか。ウォルター・ペイターに投げつけられた、貶下的な形容としての「美文」ということばを、何度も何度も思い起こしていたことであった(断って置くけど、ペイターは大好きである)。

井原西鶴『浮世栄花一代男』…いきなり西鶴ではいささか場違いの感は消せないけど、大学院時代の先輩(近世文学専攻)が教えてくれたので読んだ小説。はじめて廓を見た堅物男が、神仏に祈ったあげく、かぶればおのが姿を消してくれる笠とひきかえに性的能力を失ってしまう話。これでご想像できるように、あとはひたすらこの主人公があちこちの「現場」をのぞき見していくという趣向である。馬鹿馬鹿しいといえばそうなのだけど、なんど試みても懲りない主人公がしつこく笠を脱いでは女(ときには男)に迫っていくのが面白い。あとはこれを手練の文章で叙してゆく、その西鶴の表現の、一種ブキミなほどの無表情、これも別の意味で極めて興味深い。現代語訳もあるけど、やはり原文にとりついて首をひねってみるのが一興かと存じます。


★小南一郎『詩経 歌の原始』…全体としてはまことにオーソドックスで目配りの良い概説&注釈書。朱子詩経解釈が必ずしも道学臭一辺倒ではなかった、という指摘が新鮮。学生の時に朱子の「詩集伝」を買って、これもやっぱり書庫に放り込んだままになっているから、引っ張り出してみるべいか。

 あとまだ読み終えても無いのに名前を出しても仕方ないけど、グリーンブラットの『シェイクスピアの自由』、およびニコラス・フィリップソン『アダム・スミスとその時代』も「大当たり」の予感。前者は、紀伊國屋webで注文してたHamlet in Purgatoryが届いたので、併せて読み込みたい。後者もやはりちょっと前に入手した『アダム・スミス 修辞学・文学講義』のいいチチェローネとなってくれそう。

 夏期休暇はこれだけでも充分・・・とかいいながら、山形は酒田・鶴岡にも遊んでくるつもりなのですが。



 最近「(男の)料理ブログ」を謳っていながらまったく料理の記事を載せていない。あまりに暑いので冷や奴と蛸ぶつと枝豆(とアルコール)ばっかり食ってるような気がする。ちょっと気に入った、というかだるくてもちゃっちゃと作れる料理ひとつ。鯖の水煮缶と茹でたジャガイモと大蒜とを胡椒たっぷりにオリーヴオイルで炒めたもの。ホールトマトは気分次第で入れたり入れなかったり。

 むろんこんな乱暴な料理では酒は飲めないので、ビールか焼酎、かバーボン水割り。

 酒田・鶴岡で、「和」献立のヒントを探って参りまーす。
【ランキングに参加しています。下記バナーをぽちっ。とクリックしていただけると嬉しう存じます!!】
にほんブログ村 料理ブログへ
にほんブログ村

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ
にほんブログ村