先人の二冊

 ニッパチが貧寒の月というのは商売人の目から見てのことで、金を払ってものを食べに行く立場からすれば九月こそ貧寒の月というにふさわしい。少なくとも最上の月でないことは確かである。蒸し暑さは八月よりもむしろひどいし、枝豆や秋刀魚だってまだまだ走りの時季だし。

 しかし本のほうは収穫多し。家にこもって、正確には職場と家とジムとを行き来しながらせっせこ読んでいた甲斐があったようなものである。

○ナターリア・ギンツブルク『町へゆく道』(望月紀子訳、未知谷)・・・短篇集。「ヴァレンティーノ」が面白い。弟が結婚した、醜い年上の女(相当な資産家らしい)の親戚である奇妙な男に主人公・カテリーナはプロポーズされるが、やがてそのフィアンセは自殺。残された手紙から、自分の弟がその同性愛の相手だったことを知る―――というやや通俗的なプロットはともかく、主人公の家庭が崩壊し、弟の家に転がり込んでからその家も崩壊し、また弟とふたり生きていく、その緩やかで動かしがたい叙述がいい。ヴィスコンティの『家族の肖像』みたい。
○塚谷裕一『森を食べる植物 腐生植物の知られざる世界』(岩波書店)・・・無学な人間は「腐生植物」なるものをこの本ではじめて知った。写真を見るに、どの種もなんだかこの世のものとも思えない形姿である。『風の谷のナウシカ』のヒントの一つはここにあるのではないか。著者は『漱石の白くない白百合』という滅法面白いエッセイ集をものした才人だが、なぜか本書の著者紹介では載っていない。岩波の権威主義か。
○篠田知和基『世界植物神話』(八坂書房)
○レナード・ムロディナウ『この世界を知るための人類と科学の400万年史』(水谷淳訳、河出書房新社
上野誠編『日本の古代を読む』(文春学藝ライブラリー)
○高森直史『海軍と酒 帝国海軍糧食史話』(潮書房光文社)
○飯野亮一『すし天ぷら蕎麦うなぎ 江戸四大名物食の誕生』(ちくま学芸文庫)・・・黄表紙人情本を博捜しているところが好もしい。「お好きですなあ」と、無論これは皮肉ではなく感嘆したくなる。
上野修三, 上野修, 上野直哉『割烹旬ごよみ』(柴田書店)・・・親子三人そろいぶみの競作。うん、十月でそろそろ色んな食材が美味しくなってきてるし、久々に『玄斎』に行こう!
阿部公彦『詩的思考のめざめ 心と言葉にほんとうは起きていること』(東京大学出版会)・・・いま一番贔屓している文学研究者のひとり。詩学というのは入門編がそのまま奥義秘伝というところがあって、語るのがとっても難しいものだが、この本などはほとんど模範解答(と言うと主題が主題だけに皮肉に聞こえてしまうのだが)と言ってもいい出来ではないか。ものすごうく正統的なことを、とはつまり勘所を外さず、しかもきちんと段取りを踏んで、とはつまり説得的に書いている。「む、出来る」という感じ。
五味文彦『文学で読む日本の歴史 中世社会篇』(山川出版社)・・・前巻の新鮮さには欠けるけど、さすがに自家薬籠中の話柄であって、リーダブル。妙なキーワード(「身体」とか)が、キーワードにも関わらず唐突に出てきて引っかかるのが惜しい。
○フリードリヒ2世『反マキアヴェッリ論』(大津真作監訳、京都大学学術出版会)・・・こういう珍品の新訳が読めるのだから、現今の出版界もなかなか味をやりおるわい。著者はもちろん《あの》フリードリヒ2世である。いったいに啓蒙の世紀を通して『君主論』の著者はほとんど悪魔その人(?)のような扱いを受けていたが、啓蒙専制君主だったフリードリヒなどはさしづめマキアヴェッリ告発の検事代表というところか。内容はというと、ま、あまりにも《理性と進歩》しすぎていてやや鼻白むが、ホルクハイマーとアドルノ以後の世代から見ればはっきり分かる。いうところのマキアヴェリズムと啓蒙思想とが実は発想の根を同じくしており、というよりは啓蒙思想こそがまだしも《熱い》愛国心の血が通ったマキアヴェリの徒花であり、フリードリヒという「稀代の奸物」(という形容をたしか吉田健一が使っていた)こそがその理想の弟子だったことが。そういう視点で読むとしみじみと味わい深い。
○『エドワード・ゴーリーの優雅な秘密』(河出書房新社)・・・伊丹市立美術館での展覧会を見逃してしまったため、せめてもの慰みに図録を眺めて愉しむ。豪奢でかつ静謐。家にはあまり飾っておきたくない絵だけど、時々書庫から取り出して(それも深夜、出来れば不眠のまま迎えた朝方だ)、スコッチなぞをなめながら眺めるのは最適。執筆者(翻訳者)も小山太一柴田元幸とこれまた豪奢を極めている。
○奥山景布子『太閤の能楽師』(中央公論新社)・・・うーん。能楽を見物しているような小説、ともいおうか。参考文献に引かれている天野文雄先生(短い期間ながらゼミに参加していた)の『能に憑かれた権力者』(講談社選書メチエ)、興趣が尽きない研究書ですよ。
池内紀『旅の食卓』(亜紀書房)・・・池内さんもついに「食べある記」(それにしても品の無いコトバ)を書くようになったか!といささかたじろぎながら読み始めたところ、やっぱり池内調は崩れていなかったのでほっとする。日本全国どこを旅してもイケウチ式世界がそこに出現するのだから、これはもう達人の域ですな。
○藤川隆男『妖獣バニヤップの歴史 オーストラリア先住民と白人侵略者のあいだで』(刀水書房)・・・これも寡聞にして知らなんだが、バニヤップとはオーストラリア原産(?)の妖怪で、国民文化のシンボル的存在なんだそうな。ケルト文化にとってのドルイド僧とか琉球文化にとってのキジムナーみたいなものか。柳田国男も参照枠の一つになっているが、基本はポストモダンである、つまりバニヤップをめぐる言説史である。アボリジナルと白人入植者(侵略者と言うべきか)との《相互作用》の中でバニヤップのイメージが変質しながら形成されていく、さらにはバニヤップの表象が社会のあり方をある面で性格付けていく過程は、完全な門外漢には「へー」という他ない見物だった。ただし、これはポストモダン的研究書の通弊なのだが、テレビの流行語などが頻繁に使われていてすこぶる興ざめ。こちらが権威主義的人間とは思わないので、これは単にセンスが悪いかどうかというだけの問題だと思いますが。そして念の為に言えば、当方、けして小林信彦並みのセンスがある人間ではございません。
○『池澤夏樹詩集成』(書肆山田)・・・ジェラルド・ダレルの一連のギリシャ回想記(かつ博物誌かつキャラクター・スケッチ)のおもしろさを見いだして翻訳までした人だから、さだめし詩人的資質があるに違いないと踏んでいた。付属の栞での対談で、池澤さんは須賀敦子相手に「自分は詩人ではないことを痛感した」と打ち明けている。しかし、まあそれは、西脇順三郎吉岡実が詩人以外であり得なかったというところに基準を置けばそうである、ということであって、つまり充分愉しめる詩集だった。日本の近現代詩には珍しく構成が堅牢で堂々としている。音調に気を配っているところも特色(書き手は素っ気ない調子で音読してほしいと言っている)。そして全巻を通じておびただしい海のイメージ。やっぱりダレルとカヴァフィスとに傾倒した人だな。
食満南北『大阪藝談』(神戸女子大学古典芸能研究センター叢書、和泉書院)・・・七十年ぶりかで出現した自筆稿本(関東の某古書店に出たが、それまでの経緯は不明とのこと)の翻刻。歌舞伎役者・噺家などの人物評が、自ずと自叙伝にもなるという書きぶり。これもまた珍品中の珍品であることは間違いない。薄田泣菫の例の『茶話』風にゴシップ集と読んでも、上方劇壇の資料として読んでも面白い。ウェッジ文庫で出ている『作者部屋から』(これも名著)一冊でこの著者に興味を持ったが、他に手軽に読めるものがない!と嘆いている人は絶対に「買い」です。
鹿島茂『ドーダの人、小林秀雄 わからなさの理由を求めて』(朝日新聞出版)・・・朝日のPR誌での連載を一冊にしたもの(ただし後半部のみ)。こちらも市立図書館で『一冊の本』を立ち読みする時にいちばん愉しみにしていた文章だったが、残念ながら勤め人の身のこととて読めない月もあったから、こうして本になったのは何より嬉しい。むさぼるようにして、あっという間に読み上げてしまった。いやー面白い。ドーダ理論を適用するなら、小林秀雄以上に相応しい文学者っていないもんなあ。
 あ、念のために注しておけば、「ドーダ」は東海林さだお発明に係る概念で、人間の行動のほぼ全ては「ドーダ俺様偉いだろ、よく見ろ」という自己顕示欲から説明できる、というもの。半ば本気半ばは冗談のこの「ドーダ」理論を用いて、徹底的に小林秀雄を、私見によればほぼ再起不能というところまで分析しつくした、その膂力がまずスゴイ。
 「再起不能」というのは、要するにこの教祖的批評家の、文学的出発における《神話》―ランボーと邂逅して人生が一変したというもの―がいかに無茶苦茶な誤読に基づくものであったか。その誤読の構造と由来を、完膚なきまでに剔出してみせているからである。もちろんそういう方向の試みはこれまでにもあった。バルザックやゾラと違って、ランボーの場合は形而上学的につきぬけてしまうところがあって、これを平易に語るのはとんでもない難問なのだが、河上徹太郎の証言を横においての徹底したクロスチェックはフランス文学者ならではの読解であり、誤解のツボが非常に明快に見えてくる。しかも小林秀雄の特異さを人口学に基づく世代類型論と、斎藤環の論を参照枠にしたヤンキー論を使って分析し、小林を「典型的なヤンキー」(!)と位置付けてしまうところ、もうこれは鹿島茂でしか到達できない縦横無尽神出鬼没ぶりである。
 しかし真に瞠目すべきは鹿島茂の語り口である。当方も小林秀雄は苦手、というより大嫌いな一人で、だからこそ時たま小林に触れるようなことがあるとどうしてもとげとげしい口調になってしまうのだが、そしてそれは実は小林の土俵に半ば以上引きずり込まれていることを意味するのだが(その理由は本書を読めばすぐ分かる)、鹿島茂は常に晴朗に語る。小林秀雄という珍奇な生物を観察し、その生態を調べるのが何よりも面白くて堪らないように。こういう語り口で扱われたという点で小林はすでに「乗り越えられた」というべきなのでしょうな。

 最後に題名についてひとこと。食満南北と、鹿島茂の本で何度か登場する河盛好蔵が、当方と同郷の堺出身だった、というコジツケである。河盛さんは学校の大先輩でもある。住んでる時は埃っぽい町とぐらいにしか思っていなかったが、大通とも言うべき文学者、いや文人を二人出しているとは、我が故郷もなかなかのものではないか。
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