稲荷の横のホルモン屋

 最近美味しく食べたもの。

◎『中畑商店』の「モツ焼き」・・・なぜか大阪の立ち飲み屋で横になった客から聞いた。「あんた神戸に住んでて知らんのか」風のものいいにキッとなってかえって行くまいと思っていたところ、お馴染み『いたぎ家』アニーのアップした写真を見て、猛烈に行きたくなったのである。軽佻浮薄、さながら紙の如し。場所がまずいい。神戸駅の西南、切なくなるほどの場末の街並みを抜けて、その名も嬉しい「稲荷市場」のどん突き、松尾稲荷のお隣にある。このお稲荷さんが、猫の額ほどの境内なのに、中々立派な構えで、社務所もしっかりしており、さぞ以前は栄えていたことだろうと思われる。「以前は」というのは、震災前は百軒からあった商店も今や三店ばかり(!)とか。おっそろしい寂れかたをしているからで、春寒の昼時分に、人っ子ひとり見えない商店街を心許ない気分で歩いていると、小松左京の焼け跡闇市モノの舞台に紛れ込んでしまったような感覚に浸されるのであった。ついで主人夫婦のたたずまいがよい。はじめは奥さんが相手をしてくれたのだが、気のあるような気のないような顔つきでモツ串を焼いてくれる、その熱々を頬張ってビールをぐいっとやると、じーんと落魄の詩情が身ぬちを突き抜ける。これはあれですな、小松左京風でもあるが、それ以上に種村季弘の漫遊記の風情ですなと内心呟いていると、なんとその種村大人そっくりの顔つきをした御主人が二階から降りてきた(こういう綺譚めいた巡り合わせがまた種村漫遊記らしい)。それが嬉しくてビールを燗酒(賀茂鶴)に切り替えて更に呑む。同じ日の夕方に顔を出した『彦六鮓』でこの話をすると、女主人の靖子さん曰く、「そのお稲荷さんにはウチの先々代が奉納した大きな提燈がかかってるはずよ」。ますます綺譚めいた話となった。


◎『海月食堂』の「蛍烏賊の炒飯」・・・以前の「渡り蟹の煮込み麺」同様、旨さのあまりこみあげる怒り(このへんの理路は当人にもよく分からぬ)を抑えつつ、ほとんど一息に平らげてしまう。敬士郎さん、五月に御徒町の『桃の木』に予約が取れたそうな。じつにじつに羨ましい。


◎『アードベックハイボールバー』の「ブダンブラン」・・・ぬめっ。とした食感が身上の、名前の通り白いソーセージ。前田シェフの金言に曰く「『ソーセージが好き』と言えない人間とはボクは友達になりたくありません」。一片を頬張って、ふんだんに散らしたトリュフの香りが口いっぱいに広がった時、「『ブダンブランを酷愛します』と言えないヤツは、たとえ古女房であろうと叩き売っちまうであろう」と思った。『アードベック』は来月末で閉店。半年足らずながらずいぶんここで愉しんだ人間には淋しい限り。と前田さんに言うと、近くの某店で働くことになったと教えてくれた。安くないとこだが、前田さんの料理を味わうことは出来るわけである。でもやっぱり、食事後の前田さんとバーテン(奥様)とのコーズリィ、というか莫迦ばなしが出来なくなるのは、つらい。


◎若布の擂り流し、炒り豆腐・・・これは自作。擂り流しは幾分とろみを付ける。具は海老を油通ししたのと粟麩。炒り豆腐は独活(たくさん)と溶き卵を入れる。白っぽく仕上がるように味付け。


 元都知事の証人喚問も少し古い話になってしまったが(生々流転)、これについてある人間がFBで発言していた。「八十四才の老人を血祭りにあげて何が面白い」。アホか。八十四才の老人を血祭りにあげるのが面白くない訳がなかろうが(政治的信条云々とは無関係)。そんなことを言ってはいけないから誰も言わないだけのことである(無論やってもいけない)。このヒト、我独り賢しという傲岸な姿勢といい、ぞくぞくするほど粗雑なことば遣いといい、贔屓の役者の一人だったのだが、こんなコメントに接すると鼻白む。そう言えば当今退位後の称号を巡っても「院政は史上最悪の暴政、それを連想させるような称号を使うな」とか言ってたなあ。後三条から後鳥羽までの院政が「暴政」と言うのはどう見ても判断の誤りだろうし、「二重権力」の弊を論うなら、鎌倉・室町・江戸幕府(そして大日本帝国の政府)による天皇の傀儡化が問題なのであって、上皇天皇かは関係ねーだろ。所詮はちょろっと新味のありそうなことをぺらっと出して見せるだけの「思想の仲買人」(林達夫の表現)に過ぎないのか・・・とすっかり索漠たる気持ちになった。比較する対象が立派すぎたのかもしれない。と言うのは、

高坂正堯『外交感覚 時代の終わりと長い始まり』(千倉書房)・・・読了後の感銘が続くうちに、前出仲買人氏の発言を思い出すという文脈があったのである。それくらい、嫌いな表現を敢えて使えば、「考えさせる」本であった。ソ連崩壊前後に、孜々として書き続けられてきた外交批評のコラムを一冊にまとめたもの。『古典外交の成熟と崩壊』の愛読者にとって、今こういう本が編まれたのはたいへん嬉しいこと。著者も言うように、学者にとって目の前で起きていることを分析し評価し指針を示すことくらい厄介な仕事はない。読者が汲むべきは、事を評するに当たって、事実を丁寧に調べ、歴史に鑑みて、良識と勇気に基づいて諄々と「正論」を説き続ける、その姿勢だろう。「正論」と言ってもおよそ毒にも薬にもならぬ観念論ではない。「人間の限界を謙虚に認め、なおかつたゆみなく努力を積み重ねる」ことの謂である。大袈裟に聞こえるかも知れないが、鯨馬はその決意(決意なしに出来ることではない)に、たいへん英雄的なものを感じた。ロマンティックな色調は一切払いのけた上でのヒロイズム。巻末の解説では、時の政府の防衛構想策定にも参画した高坂氏が、「意外にも」道義を重んじる人間だったという指摘がある。現今流行りのああいったものではないですよ。精神的退廃、つまりまともにものを考えようとしないその無責任さを糾弾するという点に高坂氏の「倫理性」の特質は明らかである。これも先に述べた鯨馬の観察の傍証になるかもしれない。翻って思う、高坂氏の糾弾は専ら、当時(も)知的脳梗塞状態にあった社会党に向けられたものだが、そうした左派の必然的な衰亡の後、「退廃」に陥っているのは正反対の陣営の人々ではないか。今どき、左翼の連中の莫迦さ加減をねちねち論うのはいかにも虚しいように思うけどなあ。愛国を言うなら、その時間で『新古今』の一首を諳んじる(いや数十首はいけるか、和歌は短いんだし)とか、近所のお社に苗木の一本でも植えるとかすればいいのに。ひげのオヂサンは言った、深淵を見つめる者はまた深淵に見つめ返されているのだ、と。いや、なんぼなんでもこの箴言は勿体ないか。これではどうだろう、愚者を嘲ってその顔真似をする者は一層愚かしくなる。

松岡正剛監修『情報の歴史』(NTT出版)
◎ヨルゴス・D・フルムジアーディス『ギリシャ文化史 古代・ビザンティン・現代』(谷口勇訳、而立書房)・・・前にあげたビザンティンの美術史に触発されて読んだが、いかにも古い。新しいギリシャ文化史、ないかね。
◎W.B.イェイツ『ジョン・シャーマンとサーカスの動物たち』(栩木伸明訳、平凡社
◎ノースラップ・フライ『時の道化たち シェイクスピア悲劇の研究』(渡辺美智子訳、八潮出版社
豊永聡美天皇音楽史 古代・中世の帝王学』(歴史文化ライブラリー、吉川弘文館)・・・「帝王学」という切り口が面白い。儒教の礼楽思想との関わりを論じて欲しかったな。
◎R.D.レイン『引き裂かれた自己 狂気の現象学』(天野衛訳、ちくま学芸文庫
◎ジョゼフ・ペレス『ハプスブルク・スペイン黒い伝説 帝国はなぜ憎まれるか』(小林一宏訳、筑摩書房)・・・「高慢、残忍、狂信」といった(黄金世紀以後の)スペインのイメージは、じつは一つのトポスになっているらしい。そのいわば反・スペインプロパガンダの歴史的起源を探求しようという本。当方などには「へえ」てな感じだが、類書がいくつも出ているということの方が驚きである。何だかどこかの国に似てますね。
マックス・ウェーバー世界宗教の経済倫理  比較宗教社会学の試み 序論・中間考察』(中山元訳、NIKKEI BP CLASSICS、日経BPマーケティング)・・・『古代ユダヤ教』(岩波文庫)の総説に当たる部分を訳した本。これを先に読んでおくと、あの大著が取っつきやすくなると思います。このシリーズ、アダム・スミスポパー等の古典も入っている。日経さん、なかなかやる、という感じ。
松田哲夫『縁もたけなわ ぼくが編集者人生で出会った愉快な人たち』(小学館)・・・やや繰り返しが気になるが、やっぱり面白い。呉智英と仲悪かったんだね。ま、呉智英は大抵の人間とケンカしてそうだけど。
◎ピーター・バレット『クラウゼヴィッツ 「戦争論」の誕生』(白須英子訳、中公文庫)

◎『花草の巻 四季を彩る』(工作舎編、江戸博物文庫)・・・江戸の本草学者・岩崎灌園の『本草図説』を再編集したもの。図版はうっとりするほど美しいがなんだか編集が杜撰。図鑑でこれだけ誤植があるのは致命的、というか本づくりへの愛情不足なのではないか。


 珍しく料理の本は一冊だけしか読んでいない。
ホテルニューオータニ監修『本当に旨いたまご料理の作り方100 西洋料理から和食・日本の家庭料理、中国・エスニック、スイーツまで』(イカロス出版)・・・生クリームを混ぜて、七十℃でじっくり湯煎する調理法というのが旨そう。

外交感覚 ― 時代の終わりと長い始まり

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