双魚書房通信(21)~奇人VS学究 川平敏文『徒然草』

 『徒然草』と聞くと誰でもげんなりする。教科書古文の代表作だからである。著者は「そうでもないんですよ」と横に立って言う。その口調が、大上段にふりかぶる感じでもやたらと力んでる感じでもないのが好もしい。
 川平さんは本来は近世文学の専家。江戸時代の人々がどうこの書を読んできたかを研究してきた。文部科学省検定済みの読み方、とはつまり現代、というよりは戦後日本の古典文学観を相対化するのにもってこいの立ち位置である。返す刀で(という比喩は変か)、近世の人々がどんな眼鏡をかけていたかも浮き上がるという仕組み。一粒で二度美味しいとはこのことである。
 篤実な学究だけあって、ふしぶしにほぉという知見がある。たとえば皆様ご存じ序段の書き出し、書名にもなっている「つれづれなるままに」とはどういう意味か、憶えてらっしゃいますか。退屈?所在ない?学校で教わったその解釈がどのように形成されたか、そして維新以前の解釈はどう違っていたのか、その違いはどこから生まれてきたのか。うんざりするほどの(失礼!)用例を周到に検討しながら説き明かす行程がじつに面白い。
 教科書には載らない(載せられない?)章段へも丁寧に案内してもらえる。あるいは無類の色好み、またある時は落語家の祖たる達者な語り手。澄ましかえった隠者ではなく、端倪すべからざる観察者としての兼好法師。少なくともこれまでの抹香/説教くさいコテンというイメージは綺麗さっぱり消えているはず。たしかに「そうでもない」らしい。
 ここからは私見だが、『徒然草』は本当は教科書なんかに載せてはいけない本なのである。「随筆」というと、毒にも薬にもならない閑文字の連なり(だからテキストにはぴったり)のように聞こえるけど、この古典はすこぶるケッタイな本なのである。奇書といってもいい。「そこはかとなく」連想をつないでみれば、ロバート・バートンの『憂鬱の解剖』やトマス・ブラウンの『医師の宗教』やジョン・オーブリの『名士小伝』と同じ種族に属する、まことにアクの強い、猛毒成分保証付きの文章。まだしも『徒然草』を現代語に直した感のある(丸谷才一が指摘している)佐藤春夫『退屈読本』のほうがよほど随筆らしい(佐藤の本も名文章が多いのだが)。
 しかし、こう書くと、さる高名な批評家の有名な『徒然草』讃とあまり変わらなくなってしまうようである。「見え過ぎる眼」とか栗ばかり食べる娘について「どんなに沢山な事を言わずに我慢したか」とか、例によって例の如きケレンたっぷりの手に負えない文体だが、ともかくも、『徒然草』にはこう熱っぽく語らせてしまう中毒性があるのだ。
 川平さんの案内に心地よく身をゆだねながら、一粒で三度目の美味しさを求めてしまったのは、つまり近代や近世の見方を通したのではなく、『徒然草』本体の魅力を川平さんにもっと語って欲しく感じたのは求めすぎだろうか。あるいは作品そのものと向き合うという発想自体が近代主義なのか。
 きっと兼好法師なら囁くに違いない。「そうでもないんですよ」。

※ちなみに兼好法師の生涯、及び『徒然草』の註釈については、本書であげられているとおり『兼好法師』(中公新書)、角川ソフィア文庫版『新版徒然草』がよい。どちらも小川剛生著。とくに前者はめちゃくちゃ面白い。

 

徒然草-無常観を超えた魅力 (中公新書)

徒然草-無常観を超えた魅力 (中公新書)

  • 作者:川平 敏文
  • 発売日: 2020/03/17
  • メディア: 新書