片月見

 「災害並みの猛暑」だって冷房の効いた部屋でソファに寝っ転がってりゃ本は読めるし、厳冬といえども床暖房に寝っ転がって(どのみち寝転ぶ)読書するのはむしろならではの愉悦。

 

 だから灯火親しむなんて他人行儀な口実を作らなくてもいつだって本は読めるのである・・・なんて憎まれ口をきく必要はなくて、やっぱり秋はよいですな。十一月から事情で日曜は出勤となったが、まあそこは忙中閑ありの心持ちでゆこう。

 

 では十月の本。

 

筒井功『賤民と差別の起源 イチからエタへ』(河出書房新社

筒井功『村の奇譚 里の遺風』(河出書房新社)・・・著者は三角寛のサンカ「研究」が純然たる創作だと実証した在野の研究家。手弁当であちこちを調査して回る情熱がすごい。後の本ではその成果がふんだんに紹介されていて、ミツクリという《漂泊の民》が平成の世にもまだ残っていることに驚愕。モトデのかかった本である。

南條竹則『英語とは何か』(集英社インターナショナル新書)・・・南條さんもこういうのを書くのか、といささか憮然として手に取ったが、諄々と、冷静に現代における英語の位置を説いていて、ナルホドと思った。先入観はよろしくないな。

安村敏信『江戸絵画の非常識 近世絵画の定説をくつがえす』(「日本文化私の最新講義」、敬文舎)

○前田専學『インド的思考』(春秋社)・・・素人にも分かりやすいインド思想の見取り図。

小野俊太郎ハムレットと海賊 海洋国家イギリスのシェイクスピア』(松柏社

川本三郎『「それでもなお」の文学』(春秋社)・・・あまりにノンシャランな語り口に怯むのはこちらが円熟には程遠いからか。

釈徹宗『落語に花咲く仏教 宗教と芸能は共振する』(朝日選書)・・・関山和夫のあと、この方面の研究がどうなってたのか分からなかったので、面白く読んだ。レトリック研究の面から見て真宗の節談説経は興味深い。

池内恵シーア派スンニ派 中東大混迷を解く』(新潮選書)・・・なんでもかんでも宗派の対立に還元してはいけない、という警告の後に、しかし宗派の問題の根深さも解かれる。この著者の二枚腰に注目。

○デヴェンドラ・P・ヴァーマ『ゴシックの炎 イギリスにおけるゴシック小説の歴史  その起源、開花、崩壊と影響の残滓』(大場厚志他訳、松柏社)・・・これだけ懇切な副題あるから内容紹介はもうよろしか。啓蒙時代に抑圧されたヌミノーゼ(“神秘的な感じ”)への希求がゴシック小説を生んだ、とするテーゼは特に奇とするに足らず。ただ、ラドクリフ夫人やウォルポールとルイスの作の肌合いの違いを説くところに価値あり。大学院の時、別のゴシック小説研究書の読書会をしてたことを思い出す。

橋本治『落語世界文学全集 おいぼれハムレット』(河出書房新社)・・・橋本ファンとしてはも少し食い足りない。バーレスクを得手としてないのかな。

酒井健『ゴシックとは何か 大聖堂の精神史』(ちくま学芸文庫)・・・明晰な本。あとがきにケン・フォレットにはまっていたと書いているのが嬉しい。

○大庭公『江戸団扇』(中公文庫)

○オルトゥタイ『ハンガリー民話集』(徳永康元他訳、岩波文庫)・・・この「民話」シリーズ、ロシアもイタリアのも愛読してますが、出来ればインドネシアとかモンゴルとかも欲しい。

○薄井恭一『随筆味めぐり』(柴田書店

○アニエス・ジアール『愛の日本史 創世神話から現代の寓話まで』(谷川渥訳、国書刊行会

渡辺京二『私の世界文学案内 物語の隠れた小径へ』(ちくま学芸文庫)・・・骨太の文章で、作品の真髄をぐいぐい描き出す(無論著者の意見に賛成するかどうかは別)。たとえばこれだけ簡潔な『戦争と平和』論は他にないのではないか。

○ギャヴィン・フランシス『人体の冒険者たち 解剖図に描ききれないからだの話』(鎌田彷月訳、みすず書房)・・・頭の先から足の裏まで。医者として世界中を駆け巡ってきた著者がケッタイな・哀切な・悲惨な・滑稽なエピソードを才筆で紹介する。なかなかの書き手、と見た。

○溝井裕一『水族館の文化史 ひと・動物・モノがおりなす魔術的世界』(勉誠出版)・・・19世紀までの話はアクアリストでなくとも無条件に愉しめる。ただ水族館の現況となると・・・。環境保護活動というのがどうにもブルジョワ趣味に思えて仕方が無い。

○三枝聖『虫から死亡推定時刻はわかるのか?法昆虫学の話』(築地書館)・・・個々のエピソードよりも、自虐ネタがあちこちで噴出する文章の方を愉しめる本。

ミルチャ・エリアーデポルトガル日記』(奥田倫明他訳、作品社)・・・今月の白眉か。第二次世界大戦前夜の世界。成心ない読者から見て、エリアーデは明らかに躁状態にある。繰り返し自作の小説がいかに素晴らしいか、延々語られる。その一方で愛妻の死に直面して、極端に塞ぎ込む日々の記述が続く。人間的悲惨。またもう一つの読みどころは当時のルーマニアが抱えていた複雑怪奇な政情である。周到な解説が備わっているのでその背景もよく分かる。

ギドン・クレーメルクレーメル青春譜 二つの世界の間で』(臼井伸二訳、アルファベータ)

○黒川正剛『魔女・怪物・天変地異  近代的精神はどこから生まれたか』(筑摩選書)

○高橋義人『悪魔の神話学』(岩波書店

○『ブルクハルト文化史講演集』(新井靖一訳、筑摩書房)・・・碩学の閑談、という趣(でも内容は充実している)。面白かったので、『ギリシア文化史』も買ってしまった。Amazon恐るべし。

岡田喜秋『定本 日本の秘境』(ヤマケイ文庫)

○石川理夫『温泉の日本史 記紀の古湯、武将の隠し湯、温泉番付』(中公新書

 

 なお、この項を書いてる最中に、津軽出身の作家長部日出雄氏逝去の報を知った(十八日永眠)。こちらが青森を旅していた日で有る。氏の故郷である弘前への見参はまだ叶っていないが、津軽の風土から生い育ったと思われる独特の幻想性を持った、個性的な小説家の死を悼む。

【ランキングに参加しています。下記バナーをぽちっ。とクリックしていただけると嬉しう存じます!!】

 

<a href=にほんブログ村 料理ブログ 一人暮らし料理へ

にほんブログ村 グルメブログへにほんブログ村 グルメブログ 食べ歩き飲み歩きへ

にほんブログ村 本ブログへ にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ

磯の小石のように~青森再々々訪(3)~

 二日目の晩だけは予約していたのだった。ほけーっと歩きながら感じの良さそうな店に入るのこそ無論醍醐味なのだが、限られた日数の旅行者としては、どうしても保険をかけたくなる。

 

 「あそこも混むよ」と言われていたとおり、本町の『磯じま』は変哲もない住宅街のなかながら、大賑わい。観光客半分、地元半分というところか。店の構えは尋常。出来ますもの、の書き出しが圧巻だった。造りから焼き物から煮魚から、ホワイトボードにびっしりと書かれている(冬だともっと多いのではないか)。こうなると気合いが入りますね。ビールはお通し(キノコの風味がじつに濃厚)の段階でくっと空けて、すぐさま青森地酒にうつる。

 

 頼みしものは何々ぞ。鰺のたたきに帆立、たつ(鱈白子)の刺身、ソイの塩焼き、活け蛸天ぷら、もずくに浜汁。あ、そうそう「お浸しの盛り合わせ」というのもあつらえた。数種の青菜を湯がいたものが、別皿のポン酢醤油と共に出て来る。やっぱりミズ(東北独特の山菜)が一等旨かったな。これは応用できそうな趣向である。下ごしらえした菜と数種のかけ汁を出せば、食べる方も色々組合わせが楽しめそう。

 

 青森だから、わざわざ魚を褒めるのも気が利かない話で、当方としてはこの浸し物やもずくに喜んだおぼえがある。一体に小綺麗にまとめたりせず、どーんと量が出て来る店で、このもずく一品だけでも充分二合は呑める。皆さん油断しておられるやもしれませんが、サカナは結構実質がある食いもの。ちょっとダレたな、という時に山菜やら海藻をひと口やると、ずいぶん気分が変わるものです。

 

 最後の浜汁も書いておかねばならぬ。蟹身・魚・海老・貝、それに葱・海藻が入った潮仕立ての汁で、言うまでもないことながら、この汁が盃を重ねてやや粘った口には絶好のアテとなる。「後で雑炊に出来ますよ」というおばちゃんのすすめも断り、清澄豊潤な汁と地酒とを交互に愉しんでいた。普段の倍は食べていたから、なんぼ呑んでも酔わないのである。

 

 ひとつ残念だったのは、ホクトくんだかマサトくんだかユーマくん(もう忘れたわい)に逢えなかったことである。今晩は『磯じま』、と口にすると、立ち飲み屋はひとしきり「あれは友人の息子」「ボクシング始めたんだよな」「いや、ボクシングはもうやめたはず」「ともかくよろしく言っといてくれ」と盛り上がったのだった。この六月にホクト乃至マサト乃至ユーマくんが辞めたのを知ったのはだから鯨馬が初めてということになる。そう、この晩も早速新改商店に報告に参じたのでした。色気より呑み気。我ながら精励恪勤であります。

 

 最終日は二時に空港行きのバスに乗ればよい。しっかり食べた効験で、目覚めた時、アタマには雲の一片だにかからず(昨日とはえらい違いだ)。昼からは飯がてらどこかでゆったり呑んでいるだけで時間になる。どこか午前中のんびり出来るところはないか。

 

 前日古本屋で見つけた、種村季弘さんの『不思議な石のはなし』を面白く読んでいたせいか(贔屓の書き手の未知の本を、それも旅先の、しかも古本屋で発掘する程胸躍る体験があろうか)(それにしてもまだ種村さんの本で読んでないものがあったとは)、青森県立郷土館の展示ポスターが目に付いた。「コロコロ・STONE あおもり石ものがたり」という。はて米朝一門の誰かが『質屋蔵』するんやろか。

 

 冗談はともかく、《樹》から始まった旅の締め括りに《石》とは出来すぎなくらいである。それに、『コナンアウトキャスト』や『ドラゴンクエストビルダーズ』など、素材・建築系のゲームにはお世話になってる身だしね。朝食を済ませて早速郷土館へ向かう。戦前には銀行だった建物だそうで、中々しっかりした造り。殊に階段が立派で、大理石・流紋岩(蛇紋岩?)を贅沢に使った中に、洒落たエンブレムがあしらってある。

 

 展示も面白かったなあ。六甲の山麓に住んでいるとどこもかしこも風化した花崗岩ばかりで(もっとも地面が見える場所はほとんどないが)、何をみても珍しく見物できる。二時間近くはいたでしょうか。特に珪化木というのがよかった。いわば木の化石で、形状はそのままにただ成分は岩石のそれに置き換わっている。出来るのに何万年かかるのか。その時の長さとともに、人間のあずかり知らない地下で、ひっそりと木のエレメントが石のエレメントへと転身をとげているのを想うと、何かこう頭が惚っとしてくる感じさえする。いいねえ、石。と『ブラタモリ』のように呟きながら駅へ戻る。

 

 こじつけるのではないけれど、最後は《水》。海の側のA―FACTORYなる今出来の施設で友人の土産をもとめ、小憩。モダンで小洒落た物産館は、何億年前だかの岩石にほうっとしているような人間には甚だ相応しくない。しかしここの従業員の女の子はみんな美人なのである。実は初日にそれを確認しておる。色気より呑み気ではないのか。ハイ、ちゃんとフィッシュアンドチップスを摘まみながらビールを呑んでおりました。

※新改商店はバスの出る二時から。

 窓のすぐ前は陸奥湾。その奥に下北半島の山なみが、晴れた秋空の下にくっきりと見える。下北半島も外ヶ浜も鰺ヶ沢も、それどころか弘前にだってまだ足を踏み入れてないのだ。当分は青森から抜け出せそうにない。

【ランキングに参加しています。下記バナーをぽちっ。とクリックしていただけると嬉しう存じます!!】

 

<a href=にほんブログ村 料理ブログ 一人暮らし料理へ

にほんブログ村 グルメブログへにほんブログ村 グルメブログ 食べ歩き飲み歩きへ

にほんブログ村 本ブログへ にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ

青い森の紅い森~青森再々々訪(2)~

 翌朝は惚れ惚れするような宿酔。ホテルの朝飯も、炒り卵と味噌汁とコーヒーというアヴァンギャルドな組合せですませる。それどころではないのだが、なんか腹に入れとかないと途中でぶっ倒れるだろうから。

 

 ゾンビの如きカラダを引きずって、駅前のバス乗り場に向かうと、えーっ、三十分前だというのになんじゃこの行列は。

 

 係員に訊ねてみたら、「この時期は連日こんなもんです」とのお答え。紅葉時分の奥入瀬行きであってみれば、是非もなし。ただ新改商店で「今は大渋滞でなかなかクルマが動かんよ」と聞いていたのを思い合わせ、奥入瀬の渓流まで行くのは止めにした。満員のバスの中、渋滞につかまってしまったんでは、我が身の惨状でどうなろうやも知れぬ。

 

 ということで、八甲田山の紅葉を見に行くことにした(バスは同じ。途中で降りる)。蛙と閉所と高所がなによりコワイ人間が、なんだってまたロープウェーなんぞに乗ろうとしたのか。宿酔の効験あらたかと言うべし。

 

 一月に来た時は雪に埋もれていた八甲田のスキー場も、今は紅・黄・茶・紫・緑が一面に渾然と輝いている。酔眼瞠目。これは下からの眺めで、ロープウェーになると、眼下は無論のこと、前も後ろも左右も鮮やかな橅の紅葉一色である。霞のかかったアタマでも、この迫力に押されて、駄句二つ、すんなり出た。

 

 燦然と沈黙(しゞま)廣げよ橅もみぢ

 うつそみは紅葉の谷に捨て果てぬ 碧村

 

 山頂の駅では一時間ほど時間がある。登山靴でなくても回れる短かいコースがあるらしいので、歩き出した。この辺りからそろそろ宿酔も醒めてきたか。

 

 観光客の大方は、駅の展望台で満足しているらしく、また本格的な山登りの方はさっさと別のコースに行っちゃうわけで、ここでも鯨馬は独り、客観的にはとぼとぼと・・・しかし内心はこの状況を悦んでいたのですね。さすがにこの標高では橅は一本も見ず、ただエゾトドマツに笹ばかり、そこに急にガスが流れ込んで前後の路の先は白い闇。どこまでも文化に馴致されきったような上方の風土に暮らしていると、こういう非人間的な風景に出くわすことは滅多にない。薄手のセーターでは震え上がるような冷気も宿酔の身にはかえって心地よく、半時間あまり「八甲田山死の彷徨」を愉しんでおりました。

 

 ロープウェー駅に戻って、自販機を見るとおしるこだけ売り切れていたのが可笑しかった。みんな考えることは同じなんですな。

 

 町に戻り、残りのアルコール(アセトアルデヒド?)を吹っ飛ばすべく、古川の「まちなか温泉」へ。確か三回目である。駅から五分という距離で、しかも三百五十円也で本格的な温泉に入れるのだから、足が向かざるを得ない。

 

 この日、露天風呂には小ぶりの林檎がぷかぷか浮いていた。柚子とは違って格別香るわけではないが、なんとなく嬉しい。そっと観察していると、此方同様、ええ年したオッサンも人目を気にしい気にしい、林檎で遊んでいた。

 

 すっかり元気になったぞう。と一度伺った、これも古川の裏通りにある天ぷらやで昼食。周囲はサラリーマンが日替わり定食を掻き込む中、天ぷらで悠々とビールを呑む。凄く旨いというのではないが、海老は海老、鱚は鱚(うーん、鱚よりもっと魚の味が濃かったな)の味がするのがよろしい。次来たら、前の水槽に活けてあるすっぽんをつぶしてもらうべいか、いやその前に中々旨そうなあの日替わり定食を頼んでみなきゃ。と千々に思い乱れながらビールを呑み続ける。

 

 午後の陽を浴びながら、ぷらぷら歩く。見かけた古本屋に入ってみると、以前雪の中をたどり着いた「らせん堂」が移転していたのだった。天井高く入り口は明るく、神戸でも少ないいい雰囲気の古本屋。御主人に挨拶して数冊を買い求める。

 

 この後、夜店通りの小洒落たカフェでハーブティーなんぞを啜りながら古書の頁を繰る・・・のだったら絵になりますが、そこはまあ、このブログのことですから、夕景まで新改さんでハイボールをきゅっきゅきゅっきゅとやっておりました。

 

 呑み屋には集中的に通え!薬味はとことん使え!RPGの宝箱と素材は残らず拾え!というのが我が家の家訓であります。

 

 夜の食事以降は次回。

【ランキングに参加しています。下記バナーをぽちっ。とクリックしていただけると嬉しう存じます!!】

 

<a href=にほんブログ村 料理ブログ 一人暮らし料理へ

にほんブログ村 グルメブログへにほんブログ村 グルメブログ 食べ歩き飲み歩きへ

にほんブログ村 本ブログへ にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ

ミュゼめぐり~青森再々々訪(1)~

四度目の青森。訪れた回数なら金沢の方が断然上だが、半年の間にこれだけ行った地方は他にない。

 

 前とその前は八戸だった。今回は青森市。二回目となる。いつものことながら、何もしない為に何もない時期を選んで行った。

 

 機内のアナウンスでは神戸より四、五度は気温が低いとのこと。空港を出てみると、その実感はない。バスの中で日射しを浴びていると暑いほどだし、なにより紅葉の色づき具合が予想よりも大分低い。

 

 この暖かさのために、町に着いてすぐ向かった棟方志功記念館までは歩いて行けた。当方、記念館はおろか棟方志功の作品を碌に見たことがない。人柄と画風(まともに見てなくても漠然とイメージはあるよね、志功くらいになれば)から、何となく生命力鑽仰、大地讃頌、中学の文化祭、と連想が働いて食指が動かなかったのですな。

 

 期待もしていなかっただけに、いくつかの作品を愉しめたのは収穫である。意外と静謐な画面のものが多い、という印象。花札に想を得た組み絵など、題材からいっても当然ながら紋様の自己展開といった趣もあって、マニエリスムということばも浮かぶが、そこまで冷ややかに凝然としているわけではない。その、はみ出たものがこの版画家の《魂の領分》であって、好き嫌いはこの部分の評価に係る、ということなのだろう。

 

 いくつかある公園を辿りながら戻る。大きく育った樹木が多くて、気がせいせいする。かなりのんびり歩いていたので新町に着く頃にはもう昼時分。恰度見かけた蕎麦屋に入る。カフェ風のつくりは落ち着かないが、「蕎麦前セット」があるのは嬉しい。蕎麦味噌や板わさなどでビールと酒一合を呑んでせいろ一枚。蕎麦はともかく、昼酒としても足りないくらいでとどめておいたのは、「ねぶたの家 ワ・ラッセ」も見物する予定だったからである。

 

 前回、駅前で天丼を食いながら店の亭主に聞いたところ、ねぶたの時期は一念以上前から宿が押さえられているので、特に一人だと宿泊も難しい、とのことだった。ま、そりゃそうだろうな、食いもん屋だってどこも満杯だろうし、とナマでの見物は敬遠し、代わりに「ワ・ラッセ」に見に来たのである(ここは、今年賞をとったねぶたを展示してある)。ご存じの極彩色が館内いっぱいに広がって、負け惜しみで言うのではないが、これだけでもかなりの見応え。ほほぅ、やはり優勝したのは迫力が違うね、などと一端のねぶた評論家気取りでぐるぐると見て回る。北斎に波濤を描いた板絵があるが、あれを立体化したのが気に入った。北斎だと深淵に引きずり込まれそうなコズミックな感覚に襲われるのに対し、こちらはどことなく柔媚に生めかしい。

 

 ねぶたが横に大きく展開するようになったのは、戦後電柱と電線の下を通ることが多くなってからだそうな。古式が断絶した、ということにはなる。なるが、鯨馬の考えではこれはもっけの幸いというもの。歌舞伎の舞台そのままのあの色使いと構図は丈が高いより、こうしてぐうっと押さえ込まれたような空間の方が映えるはずである。

 

 目の法楽にはなったものの、実物でない悲しさ、ねぶた囃子の響きと跳人(ハネト)の踊りは望むべくもない。やっぱり混雑を堪えてでも八月に来るべきか。八戸も三社大祭もあるしな。

 

 さて、時間はまだたっぷりある。といって大鰐や浅虫に伸すほどの余裕はない(車を運転するならともかく)。ねぶたの家は流石に平日でもそれなりの観光客が入っていたので、次はフツーの観光客がまあ行かないであろうと思われる青森森林博物館に足を向けた。

 

 新町(表通り)のある駅の西側とは正反対の方面で、途中は偏窟でさえ気が滅入りそうな裏びれた町を通り抜ける。案の定観光客は当方ただ一人。意外だったのは、随分愉しめるところだったこと。元は営林局だったという明治建築は、何となく《校長先生歩き》をしたくなるようないいたたずまいで、もちろん他に誰もいないのであるから、建物のうちは閑寂を極めている。これは神戸に住んでいて滅多に恵まれない境地なので、まずそれが嬉しい。

 

 その上、根っからの樹木好きときている(なんなら《木違い》と呼んでもらって結構)。名産のヒバ材の家具が並んだ部屋は言うまでもなく、学校の理科室のような展示で青森の森林相をじっくり勉強するのも嬉しい。

 

 建物の前の庭は、さほどの大きさも風情もないけれど、一本一本に名札が下がっているのが博物館らしい。おかげで、こちらは「ヒッコリー!!」とか「とねりこっ!!」とかすっかりコーフンしてほっつき歩いておりました。もっとも、木ならなんでもいい訳ではなく、落葉広葉樹に好みは偏している。だから、アカマツとかヒノキとかが出て来ると「あっち行け、しっしっ」という気持ちになるのも致し方なし。

 

 ゆっくり見物を終えると、あたかもぴったり。というのは市内唯一(とはネットの情報)の《昼からやってる立ち飲みや》が開店する時刻になっていた。あれだけ酒好きの多い町にして、一軒だけというのも不審。ともあれ前回来た時はこの貴重な店で「臨時休業します」の看板にKOされてヘナヘナとなった記憶があるだけに、今度は口開けから「おうっ、おかみ、入るぞっ」とばかりに、ぴしっと、ずいーっと、入っていきたい。

 

 ・・・えっと、あの予約してないんですけど、ひとり、大丈夫すか。

 

 驚くことに、二時早々から、カウンターの半分以上が埋まっていたのであった。もちろん当方を除いてみな常連。胡乱なヤツが来たと一瞥をくれるのは予想通り。そこからこれまたお定まりの「どこから」「神戸から」「ひとり旅で」「青森なんかに何をしにきた」のやり取りがある。率直に言えば贔屓の当方にしてなお青森が所謂観光向けの風趣に富んだ町とは言い難いくらいだから、向こうはケッタイなやっちゃということでこわばりが解けるのだろう、経験からいえばここからはすっと馴染んでいけることが多い。

 

 馴染みすぎたせいか、呑んでるとチェックインの時刻をとうに過ぎてしまっていた。

 

 夜は立ち飲み屋で教えてもらった「ふくろう」へ。街歩きのときにいい感じと思っていたお店の名前を出すと「あそこはオヤジがきむずかしい」「中々入れないよ」「一見さんは断られるのでは」と口々に言われて困惑しているこちらに女主人が助け船を出してくれたのである。

 

 お通しは鰺の天ぷら(二尾、軽い味)。そのあとミズダコとケンサキの造りを頼み、「ぼくはやっぱりニシン好き」なる面妖な名前の酒肴で呑んだ。ニシンの麹漬けと雲丹和えと、あとなれずしだったかな、の三種盛りで、酒に合うのは言うまでもない。こちらでは「切り込み」と称する麹漬けはどの店でも出すものだが、ここのはアミノ酸全開の逸品で、旨い旨いと酒をお代わりしていたら、店名どおり、というかややブルドッグに似た顔つきの店主がすっと、ソウダガツオの造りを出してくれた。

 

 二軒目は「新改商店」、つまりは昼間の立ち飲み屋。まさしく立錐の余地がないくらいの繁盛ぶりで、店中に津軽弁がわんわんと響いていた。

【ランキングに参加しています。下記バナーをぽちっ。とクリックしていただけると嬉しう存じます!!】

 

<a href=にほんブログ村 料理ブログ 一人暮らし料理へ

にほんブログ村 グルメブログへにほんブログ村 グルメブログ 食べ歩き飲み歩きへ

にほんブログ村 本ブログへ にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ

 

素人包丁~ひとり月見の巻

 親譲りといふのでもない偏窟で小供の時から損ばかりしてゐる。わざわざ前夜に観月料理をつくって見ようと思いついたのもそのせい。

 

 別に損はしてないか。日本の料理はなんといっても季感が要なのだから、そして月と花とは風物のなかの両横綱といってもいいものなのだから、膳組をかんがえるのには恰好の日なのだった。

 

 旧暦では仲秋。「冷ややか」なんて季語もあるが、実際には少し歩くと汗ばむほど。しかしまあ、この夏の暑さは異常だったから、このくらいの気温でも例年よりむしろ秋の到来が実感できる、とも言える。主題は《侘びた風情》としましょう。茶事では十一月がワビサビ懐石の時候に当たるが、それのはやどりと参ります。

 

 献立は以下の如し。

 

○膾・・・鯖のきずし。鯛や鰹を用いないのがワビサビなのである。今回も野崎洋光さんのやり方に倣って、まず砂糖で〆る(水分だけを抜く)、その後で塩をする。これだと魚の肌が荒れずに綺麗に仕上がる。つまは茗荷と胡瓜の細打ち。すり生姜と山葵大根で食べる。今回はミツカンの「山吹」なる粕酢を使用。色同様に、ずいぶん旨味のつよい酢だった。翌々日の弁当は鯖の棒寿司で決まり(なんで翌々日かというと、一日かけて鯖と飯とを熟らすのです)。

○椀・・・鱧と松茸。どこがワビサビやねん。どう見ても秋のお椀の王道ではないか。という良心(?)の批難も聞こえてはいたのだが、膾で鯖を使った以上、船場汁にも出来ないし(これこそ侘びた風情の最たるものなのだけど)、精進の組合せは思いつかないし・・・と苦渋の決断だったのです。鱧は定石のままに、丁寧に葛粉をまぶし、塩湯で湯がいておく。松茸は蒸し焼きにして裂く。出汁は羅臼昆布と本枯節の一番出汁。それに鱧のアラからとった出汁を合わせる。あまりにも旨味が強いから、水でのばして丁度良い。味付けは淡口醤油すら不要なくらい(塩をぱらっ、と程度)。松茸はメキシコ産にして八百五十円也。メキシカンなマッタケてゆーのもどうなんだろう(京は嵯峨野名産のチリソースと言うが如し)と思いつつも、岩手産二万七千円なんぞという方々には手が出るはずもなく、淡路の鱧とメヒコの松茸、というよう分からん大一番で椀をこしらえたのだった。マッタケの香りはしたか、と問いなさるか。ええ、それはしましたとも。少なくとも上方噺『百年目』で、閉め切った遊山船で花見に出かけた芸者が言うような、「へえ、なんや咲いてるようなカザがしました」というくらいには。

 頑張って稼いで、岩手でも広島でも京都産でもむしゃむしゃ食い倒すような身分になろう、と固く決意する。

 あ、吸口は柚子(元町ファーム)。まだ青いぶん、香りが高い。上にオクラを刻んでゆがいたのを留める。

○焼物・・・これも鴨の鍬焼きやら甘鯛の若狭焼きでは豪奢に過ぎる、ということで蛤の松前焼き。殻から外した身を、酒で湿した昆布の上で焼く。味付け不要。酢橘を滴滴とたらす。

○炊合・・・新小芋・蓮根・茄子・万願寺・胡麻入り生麩。蓮根は加賀のもの。茄子は色よく仕上げるには一度揚げるのがよいけど、とにもかくにもワビサビゆえ、所々皮をむいたあと、胡麻油をさっと塗って、グリルで焼き目をつける。仕上げはむろん新柚子の皮をおろしかける。我ながら上出来。

○八寸(もどき)・・・正格の茶料理だったら、焼き目をつけた栗(山)と蟹の子の塩辛(海)とでもする所。これではあんまり愛想がないので、山=栗と柿の辛子和え、海=蟹の菊膾とした。

山=少し前に思いついて、一度作ってみたかった(本で読んだのではないと思う)。栗は渋皮までとって湯がく。多少身割れしても構いません。むしろその方が風情がでる。柿は角に切ってちょっぴりの味醂を掛け回しておく。甘味を殺すために味醂にはリキュールのビターズ(なけりゃチンザノでも)をしのばしておく。衣は白和えと基本同じ。水切りした木綿豆腐をよくよく擂って、淡口と酒で調味、辛子を加える。ワビサビのため、黒胡麻も少し入れて擂った。

海=蟹は渡り蟹。蒸し上げて、身をほぐす。わたの部分は別にして、それだけで食べる。菊は八戸の市場で求めた菊海苔を使った。ゆがいたあとさっと冷水にさらす。柚子をしぼったのに淡口と昆布出汁を混ぜる。蟹と菊は出会いのものですな。瀟洒な肴となりました。

○酒肴(飯は食わないから、どうせ皆酒肴なのだが)・・・蟹みそ、鮒寿司、からすみの粕漬け(『播州地酒ひの』から買ったのを漬けた)

○香の物・・・花丸胡瓜のぬか漬け、茗荷の梅酢漬け、ひね沢庵(かなり塩をきかせて漬けたので、九月まででも充分保つ)

 

 一応は懐石仕立てだったので、「幻の地酒」てな感じは合わんかと思い、酒は萬歳楽のひやおろしと、菊正の特別純米(これは燗酒用)。六時頃から作り始め、ちびちびやっているうちに十二時を越えていたことに気づき、慌てる。そういや肝腎のお月様を見てない。ベランダに出てみると、今宵の主役は雲の波間を漂いながら、それでも澄み照っておりました。

 

 菊なます輪廻の果てのけふの月   碧村

 

 

【ランキングに参加しています。下記バナーをぽちっ。とクリックしていただけると嬉しう存じます!!】

 

<a href=にほんブログ村 料理ブログ 一人暮らし料理へ

にほんブログ村 グルメブログへにほんブログ村 グルメブログ 食べ歩き飲み歩きへ

にほんブログ村 本ブログへ にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ

 

ヌリカベの日

 左官屋稼業、始めました。一日限定だったけど。

 

 

 『いたぎ家』の改装を手伝ったのだった。アニは「大規模じゃないっすよ」とか言っておったが、壁を塗り替え、床板を貼り替え、カウンター席の棚を撤去し、テーブル席の荷物置きをつくり、トイレの入れ替えまでしてどこが大規模ではないのか。ま、龍神野菜・滋賀酒・器のトリニテが崩れない限り、アニにとって店の根本は変わったことにならない、ということなんだろう。たしかにいくら内装は同じでも行ってみて「パフェ専門店になりました」とか「発泡酒飲み放題とカラアゲ食べ放題どうっすか」とか言われても困りますしねえ。

 

 無論のこと、まさとアニーだってたくみオトートーだってアニーヨメーだって内装に関しては素人である。参集した馴染み客(鯨馬入れて六人)も御同様。どうするのかというと、専門家を呼んで、その指導の下に我々が作業を進めていくという仕掛け。

 

 『チーム クラプトン』、という。二人の兄ちゃんがやってきて、てきぱきと手順とコツをアドバイスしてくれる。オニの現場監督というものでは全くなくて、「みんなでワイワイ言いながらやっちゃいましょう」という雰囲気。

 

 で当方はカベヌリ、それもお手水の担当になった。ご存じのようにあすこは常識的には一人しか入らない場所ですから、勢い「みんなでワイワイ」を聴きながら孤独に珪藻土を塗りつける作業を重ねていくばかり。

 

 途中からソルジェニーツィン、とかドストエフスキー、とかプリーモ・レーヴィ、とか色んな名前がアタマの中をぐるぐるしだす瞬間が何度かあった。

 

 もっとも、作業自体は愉しかったことは言い添えておかねばなりません。はじめの内こそ「ここで見事な鏝さばきを見せて『今入江長八か、はたまた挟土秀平を越える天才出現か』なぞとキャーキャー言われるのも悪くないわい」と妄想ばかりふくらんでいたのだが(挟土氏に陳謝します)、まあ見事なほどうまくいかないのですね、これが。要は土を平らに塗りゃいいんでしょ、きぃっ!とアツくなったアタマで観念はふくらむものの、手先の鏝は莫迦にするがごとくへにゃりへにゃりと波打って。でまたそれがなんだか愉しくって。日々活字ばっかりにらんでいるような人間には手仕事がいかに重要か、よく分かる。

 

 『クラプトン』のおふたりの人柄もなつかしく、またこういう仕事にたずさわれたらいいなあと思う。アニ、はやく店の「大規模改装」しましょうよ!

 

 と書いてきた後で読んだ本の覚書もどうかと思うが、次々に溜まっていくのであるから是非もなし。

 

曾布川寛『中国書画探訪  関西の収蔵家とその名品』(二玄社)・・・上方で中国の書画をいつでもたくさん見られるところってどこになるんだろう。あ、台北故宮に行ったほうが早いか。

○山田和『夢境 北大路魯山人の作品と軌跡』(淡交社

○イアン・モーティマー『シェイクスピアの時代のイギリス生活百科』(市川恵里他訳、河出書房新社

佐々木敦筒井康隆入門』(星海社新書)・・・兎も角も全短篇について言及している(た筈)のはえらい。

中村紘子『ピアニストだって冒険する』(新潮社)

藤森照信『建築史的モンダイ』(ちくま新書

藤森照信『フジモリ式建築入門』(ちくまプリマー新書)・・・こう言われても藤森さん、別段喜ばないと思うが、大変な名文家である。放胆にして粗雑ならず。

○松岡由香子『仏教になぜ浄土教が生まれたか』(東西霊性文庫、ノンブル社)

○吉田伸夫『科学はなぜわかりにくいのか 現代科学の方法論を理解する』(知の扉シリーズ、科学評論社)

○瀧下嘉弘『仕口 白山の木霊  Japanese joinery on display  tree spirits o Mt. Hakusan : The art of shiguchi』(仕口堂)

○ロシア・フォークロアの会 なろうど編著『ロシアの歳時記』

御厨貴阿川尚之・刈部直・牧原出編『舞台をまわす、舞台が回る 山崎正和オーラルヒストリー』(中央公論新社)・・・敗戦当時、山崎少年は満州にいた。ソ連軍の侵攻とその後の地獄絵図、そしてそれにも関わらず厳然と進行する教室での授業。好きな言葉ではないが、これが山崎さんの《原風景》なのだろう。それにしても大変なおしゃべりですな。歴史的事実よりむしろ哲学的な議論で長広舌になるのもこの人らしくて愉快である。

矢野誠一『落語のことすこし』(岩波書店

稲葉振一郎『政治の理論 リベラルな共和主義のために』(中公叢書)

池澤夏樹『のりものづくし』(中公文庫)・・・文庫オリジナル。

○カンダス・サビッジ『カラスの文化史』(瀧下哉代訳、エクスナレッジ)・・・「○○の文化史」という書物、最近やたらと出されるが軽妙にして軽佻、薄手なつくりのものが多いねえ。もっと勉強してよ。

○ジャネット・ウィンタースン『ヴェネツィア幻視行』(藤井かよ、ハヤカワノベルズ)・・・ずいぶん前に出た本だったか知らなんだ。でもこんな題名だったら読むしかないでしょう。内容はまあ、若書きという他ないが、主人公がヴェネツィアから来たときいたある人物が「あのサタンの都から!」と驚愕する場面が笑えた。昔のヨーロッパ人にとっては、あの街はそう見えただろうなあ。

山崎まどか『優雅な読書が最高の復讐である』(DU BOOKS)・・・著者の推す「少女小説」は少しも読みたいと思わない。でも面白くこの書評&読書コラム集を読み通せたのだから、この書き手はホンモノである。文章が、いい。

○エミリー・ボイト『絶滅危惧種ビジネス  量産される高級観賞魚「アロワナ」の闇』(矢沢聖子訳、原書房)・・・気持ちはよーく分かります。オレだってカネとヒマがありゃ、暗い取引に手を染めてたはず。

天野忠幸『松永久秀下剋上 室町の身分秩序を覆す』(中世から近世へ、平凡社)・・・長年三好長慶なる御仁の動きがどうもよく分からなかったので、将軍義輝との確執も含め、三好氏の動向が精細に記述されていたのが嬉しい。

○サイモン・クリッチリー『哲学者190人の死にかた』(杉本隆久他訳、河出書房新社)・・・それなりに面白くは読んだけど、やはり山田風太郎『人間臨終図鑑』とは比べものにならない。なにせ主題が《死》なんだから、それを叙する文章が冴えきっていないとダメなんである。まあ、風太郎さんに引き比べるのは気の毒なのだが。注して言えば、鯨馬子は山田風太郎が名文家であるとは考えていない。

池澤夏樹『詩のきらめき』(岩波書店)・・・この連載やめてしまったのそうな。池澤さん自身が言うように、少々繰り返しが増えてきたきらいはあるとはいえ、いま、こんな感じで詩を語れる人少ないからなあ。惜しい。

小島毅朱子学陽明学』(ちくま学芸文庫)・・・文庫化されるまで知りませんでした。思想「史」的アプローチを重視した、と著者がいうように、蒋介石陽明学贔屓は日本経由のものだとか(そもそも陽明学贔屓と知らんかった)、朱熹はライバルとの角逐のなかで出版文化を最大限利用したとか。宋代にくらべて明初は書物の流行が滞ったとか、学説理解以外の部分でほおっと思う箇所多々あり。

藤田覚光格天皇』(ミネルヴァ評伝選)・・・光格研究の第一人者。後水尾とか霊元とかとは違ったこの「自意識」(としか表現できません)。これこそが《近世》的ということか。いい宿題をもらった感じ。

○メアリー・セットガスト『先史学者プラトン 紀元前一万年--五千年の神話と考古学』(朝日新聞出版)

スティーヴン・ミルハウザー『十三の物語』(柴田元幸訳、白水社)・・・前の『木に登る王』よりさらに一段小味。雨の休日に読むのに丁度よろしい。

 あと、日外アソシエーツが「三芳屋落語速記本復刻明治大正落語名人選集」シリーズを出し始めました。これは有り難い企画で、同じネタでの古今、および東西での演出の違いが調べやすい。目下、四代目橘家円喬、二代目三遊亭円遊、さん馬(八代目桂文治)、二代目三遊亭遊三、と読み進めております。

 

十三の物語

十三の物語

 

 

 

朱子学と陽明学 (ちくま学芸文庫)

朱子学と陽明学 (ちくま学芸文庫)

 

 

【ランキングに参加しています。下記バナーをぽちっ。とクリックしていただけると嬉しう存じます!!】

 

<a href=にほんブログ村 料理ブログ 一人暮らし料理へ

にほんブログ村 グルメブログへにほんブログ村 グルメブログ 食べ歩き飲み歩きへ

にほんブログ村 本ブログへ にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ

 

灼熱BBQ

 メリケンパークでのBBQイベント。出店は《神戸オールスターズ》といっても大袈裟ではない顔ぶれだったから、店の名前を記録のために掲げておく。

 

モゴット、柏木、梵讃、マメナカネ惣菜店、clap、寿志城助、嘉集製菓店、la luna、クチヅケ イルバール、料和 大道、Nick、ラシック、海月食堂、メゾンムラタ、アワとワインとシェリーとチーズ、バー コネクション、バー シャラ、神戸ロバアタ商會、ホルモンバルBovin、河内鴨料理田ぶち、食堂晴レ男、ビストロギャロ、料理屋植むら、ウサギのハネル、アサヒビールエノテカ

 

 壮観というか圧巻ですな。それにしても、極上を通り越したような晴天で、こちらの方が炙り焼きにされてる、という按配であった。ビール五杯、ハイボール六杯、それにモヒートとレブヒートを二杯ずつ呑んだだけでも充分参加費の元は取れたというもの。まだまだ行けてないお店が多いので、その雰囲気の一端なりとうかがえたのは喜ぶべし。

 

 さて八月の本・・・結局は『ゲーム・オブ・スローンズ』を今公開されてる第7シーズンの最後まで見てしまい(惜しめ惜しめと自戒しながら)、現在はいわばスローンズ・ロス状態。ので、それほど読んでません、という言い訳であります。『スローンズ』の新作が見られない以上(泣)、九月はじゃんじゃん読むぞうっ。

 

○吉岡信『江戸の生薬屋』(青蛙房

ニコス・カザンザキス『キリストはふたたび十字架にかけられる』(藤下幸子・田島容子訳、教文館

バーバラ.W.タックマン『遠い鏡 災厄の14世紀ヨーロッパ』(徳永守儀訳、朝日出版社

○トビー・グリーン『異端審問 大国スペインを蝕んだ恐怖支配』(小林朋則訳、中央公論新社

○中平希『ヴェネツィアの歴史 海と陸の共和国』(創元世界史ライブラリー、創元社

○八木沢敬『「数」を分析する』(岩波現代全書、岩波書店

○森和也『神道儒教・仏教 江戸思想史のなかの三教』(ちくま新書筑摩書房

○『藤森照信の建築探偵放浪記 風の向くまま気の向くまま』(経済調査会)

鹿島茂『カサノヴァ 人類史上最高にモテた男の物語 上下』(キノブックス)

池内紀『闘う文豪とナチス・ドイツ トーマス・マンの亡命日記』(中公新書中央公論新社

○青木健『マニ教』(講談社選書メチエ講談社

○テリー・イーグルトン『文学という出来事』(大橋洋一訳、岩波書店

ヨハネス・デ・テプラ『死神裁判 妻を奪われたボヘミア農夫の裁判闘争』(青木三陽、石川光庸共訳、現代書館)・・・文学的珍品。15世紀の作。愛妻を喪った農夫が、死神相手に訴訟を起こすという筋立てで、農夫・死神が代わる代わるに陳弁する。双方の言い分を聞いてると、具合悪いことに、どうも死神の主張の方が真っ当なのである。キリスト教文化圏では死神の地位ってどうなってるんだろうな、そ言えば。

正村俊之『主権の二千年史』(講談社選書メチエ講談社

○大高保二郎『ベラスケス 宮廷のなかの革命者』(岩波新書岩波書店

○J.M.クッツェー『モラルの話』(くぼたのぞみ訳、人文書院

○ポール・モラン『黒い魔術』(吉澤英樹訳、未知谷)

 

 クッツェーとモラン(『夜ひらく』の小説家)の短篇集は愉しめた。後者は中米などを舞台にした連作で、世界的に影響を与えたらしい。たしかに鯨馬の大好きな《独裁者モノ》(アプダイクの『クーデタ』とか、ウォーの『黒いいたづら』とか)のあれこれが自然と連想される。グレアム・グリーンなんかはどうなんだろう。

 

【ランキングに参加しています。下記バナーをぽちっ。とクリックしていただけると嬉しう存じます!!】

 

<a href=にほんブログ村 料理ブログ 一人暮らし料理へ

にほんブログ村 グルメブログへにほんブログ村 グルメブログ 食べ歩き飲み歩きへ

にほんブログ村 本ブログへ にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ