果てしなき宴 −E.S.P.リコッティ『古代ローマの饗宴』 〜双魚書房通信⑤〜

  ローマ史を好む人、食いしん坊だけではなく、人間性あふれるゴシップを愛する読書家すべてに推薦できる本。

  ローマ史について今までのしかつめらしい政治史の書物が教えてくれなかった情報がたくさん詰まっている。たとえば、ローマの食堂にはアサロトス・オイコスギリシャ語で“清掃していない部屋”の意)という名の見事なモザイクの床がもうけられていた。鶏の骨、ヒメジの背骨、つまみかけの葡萄の房、伊勢海老のはさみと甲羅、半分殻が割られた胡桃、それに忍び寄るネズミなどがみごとに描かれたそのモザイクは、実は「宴会の最中に人々が地面に投げ捨てた食べ物の残り滓をうまくカムフラージュするためのもの」だった。

  また、お客をする習慣について。「地位も名誉もある男なら、自分の家に客を招待しているのでないかぎり、必ず誰かのところへ行って食事をした。招待された者が、自分の選んだ客を同行してよい場合もあった」。すなわちローマをささえる重要な社交の場としての饗宴・晩餐会。アナル学派の流儀をローマ史に応用したらこういう記述が出て来るのかもしれない。


  もう一つ。カトーの有名な台詞「カルタゴは滅ぼさるべし!」はどこから出てきたか。実はこれ、ある食べ物に深く関わっているのである。これは読者銘々で探していただきたい。


  ローマ帝国の食卓の細部を叙するくだりが興味津々たることはいうまでもない。大英博物館にはカタツムリ料理専用の把っ手付き鍋が保存されており(写真で見るとたこ焼き器そっくりである)、これは現在パリのレストランエスカルゴを出す時の器と形も穴の数も同じだという。またある宴会では、ユピテルの顔を模したタコ(!)が供された。ナシディエヌスという成金の宴会で出された「クルティルス風ソース」の作り方を読むと生唾がわいてくる。これはウニを「ナイフの一撃で、不純物を含んでいる側半分をばっさりと切り落とし、卵と液体を含む星形の残り半分を完全に無傷のままでおく。この液体の中に、どんな塩水にもまさるエキスが含まれているのである」。このウニの卵と葡萄酒入りガルム(しょっつるのような調味料)を混ぜて作るのだそうな。現代日本のフランス料理屋、料亭でもこんな豪奢なソースは出していないのではないか。

  名だたるローマの政治家や文人を宴席の視点からみたスケッチも面白い。哲学者のキケロはこう評されている。「少なくとも食べ物に関する限り、キケロが慎ましく謙虚だったのは確かである。彼自身の口から繰り返し語られている以上、そう信じざるをえない。注目すべきは、この傾向が人を招く側に立ったときに助長されたということである」。また皇帝ティベリウスは「食卓ではキャベツを前に満足して」おり、いちばんの好物はキュウリ(!)だったという。「この点で彼は、美食に耽溺したアピキウスや、その他の金持ち連中とは大きく異なっている。地味で内向的な性格の皇帝と美食家の家臣との間の唯一の共通点は、両者がともに歴史家や年代記作家から悪しざまに言われていることぐらいだろう」。タキトゥスの『年代記』の中で白眉というべきは、ティベリウスの治世を扱った巻だと思うが、ここには確かにタキトゥス的世界観では決して見えてこない人間把握がある。

  個々のエピソードが面白いだけでなく、本全体がいわば食卓を手がかりとするローマ通史として構成されており、その意味でも読ませる。読者の目の前で、ギリシャの忠実な模倣者であったローマ、自分の畑の収穫物だけで客をもてなしたカトー時代のローマが、ホラティウスの歌った《高度成長期》を経て「粋判官」ペトロニウス描くトリマルキオーの豪奢な宴会(いうまでもなく『サテュリコン』のこと)に象徴される絶頂期を迎え、人も知るローマの爛熟頽廃に傾いていく。途方もない豪奢と蕩尽と、そして愚行が、これまで引用してきた部分でも見て取れる香辛料のきいた文章で綴られていく。読み終えた感銘が一種の虚無感に近づくのは、従ってこの本の不名誉になることではない。

 巻末に筆者が試行錯誤の末復元したアピキウス『料理書』のレシピ(二千年後にも使えます)が収載されているのが微笑ましい。翻訳武谷なおみ。(講談社学術文庫


古代ローマの饗宴 (講談社学術文庫)

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おいしい古代ローマ物語―アピキウスの料理帖

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