古典的空想

  話題にはよく出るけれど、そしてそのためになんだか知った気にはなっているけれど、実際にはお目にかかったことがないものがある。たとえば「小股の切れ上がった」という言い回し。たとえばアメリカ人が話すアメリカン・ジョーク(もっともこれは当方がアメリカ人の友人を持たないせいかもしれない)。
  「無人島アンケート」もその一つである。「無人島アンケート」はたった今付けた呼び名で、これは例の(と知った気になっている)「もし無人島に本を1冊だけ持っていくとしたら何にしますか」というやつ。
  こんなこと考えたって、天下国家に何の利益をもたらすわけではないが、一年に何度かは思い出して空想に耽る。寝酒をちびりちびりやりながらあれこれ真剣に(?)検討する。
  どのみち無責任な夢想なのだし、その時々の気分で答えも変わってきそうなものだけど、これが大概同じところに落ち着く、妙なものである。
  自分の場合、(狭い意味での)文学作品が候補に残らないのがわれながら意外だった。どんなに鍾愛する詩集も小説も落ちるのである。たとえば『新古今和歌集』。『パルムの僧院』。プルースト泉鏡花。このうち、『新古今』に関しては、好きな和歌はほとんど暗誦してしまっているから書物という形では不要なのかもしれない(というとおそろしく気障な言いかただが、何しろ和歌は短いのである。何べんか読めば自然と諳んじてしまう)。しかし小説は、どれだけ大長篇(プルーストはいうまでもない。鏡花では『山海評判記』とか、『由縁の女』とか)であってもやはり、上方ことばでいうなら「もひとつ」なのである。
  では何を持っていくか、というと歴史(伝記を含む)の本が残りました。聖書や論語も採らない。しかし、無人島で読む本なのだから何よりもまず面白くなくてはいけない。どうせ閑で閑で死にそうになっているのだから、退屈させるような史書であってはいけない。先に狭い意味での文学、と注したのはそういうことである。つまり当然優れた文体で書かれていなければならぬ(と突然力みかえる)。
  となればやはり、おのずと古典と呼ばれるようなものにしぼられていくわけで、空想中の書架に置かれるのは結局、『史記』と『ローマ帝国衰亡史』と『年代記』(タキトゥスの)、それに『回想録』(サン=シモン公爵の)の四作ということになる。
  あまりに文学史教科書的だろうか。あるいは教養主義的だろうか。しかし叙述の明晰と力強さ、加えるに文体の優雅をもって立つ史書はやはり他に思い当たらないのである(ちなみに言う、『年代記』の価値はあくまで簡潔で爽辣なその評言にある。一切を陰謀と駆け引きに還元して捉える、いわゆるタキティスムの面白さは二次的なものに過ぎない)。ちなみに、宮崎市定の『史記列伝抄』、素晴らしかったです。雄勁な訳文もそうだが、考証が面白く、また説得的。
  これをいわば《表の》御三家とすれば、とさらに空想は続く。《裏の》御三家はやはりあれだな。
・『近代文化史』(エゴン・フリーデル
・『タレイラン評伝』(ダフ・クーパー)
・『蘇東坡』(林語堂
  フリーデルの機知と逆説、クーパーの渋い品位、林語堂の静謐、と文体の持ち味が異なるのは当然だとして、面白いなあと思うのは、いずれも闊達な、いっそのこと楽天的とさえ言える精神に貫かれている点である(タレーランや蘇東坡という人間を取り上げる以上、こう書くほかないのかもしれない)。歴史趣味はきわまるところ、人間の心を荒廃させるそうだが、これらの作品には一種天上的な明るさが満ちているのである。その明るさが深いペシミズムをくぐって輝き出ていることは見落としてはいけないのだけれど。
 フリーデルの日本語訳はこの『近代文化史』だけ。『古代文化史』が訳されないのであれば、ドイツ語を勉強して読んでみよう、と思っている。これも宿題の一つ。
  空想も大体ここまでくればくたびれてしまって、改めて寝酒のグラスを満たすか、寝てしまうか、どちらかになってしまうのである。



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