俳諧無茶修行・坤

 わが子を先の釜の生茹で 燕
糟糠は粉物好きの夕餉かな 燕
*名オ一雑。前句の修羅場を、うどんを茹でる家庭団欒とした。

糟糠は粉物好きの夕餉かな 燕
亭主は知らぬ通帳ひらく 碧
*名オ二雑。糟糠の妻は粉物で倹約しつつ、内証ゆたか。師匠が丸く収めた場の裏、弟子がまたもや地獄を見いだした。

亭主は知らぬ通帳ひらく 碧
ティレニアの海の藻屑は味もよし 燕
*名オ三雑。ついに亭主は殺される。保険金で優雅に地中海クルーズ。師匠のこの付けはむやみに早かったと覚えている。師弟で丁々発止なり。歌仙の醍醐味であります。

ティレニアの海の藻屑は味もよし 燕
 晩鐘ひゞく夕凪の嶋 碧
*名オ四「夕凪」で夏。人情(それも滑稽含み)で四句継いできているから、そろそろ切らねばと思い、ティレニアの景を取り出した。「晩鐘」はシチリア島民が、圧政を続けるフランス・アンジュー王家に対して暴動を起こした「シチリアの晩鐘(晩祷)」事件を俤にしている。つまり「藻屑」は虐殺され海に投げ込まれたフランス兵士の遺骸となる。

 晩鐘ひゞく夕凪の嶋 碧
孤兒院の十二人目は片目なり 燕
*名オ五雑。師匠はメイルで「考え落ちというところかな」と書き添えていた。たしかにそうかも。というわけで、読者の皆様にも謎解きをしてもらいましょう。したがって注釈はせず。

孤兒院の十二人目は片目なり 燕
 初めの章は霞む自叙傳 碧
*名オ六雑。孤児院出身で、かなり悪いこともしてきたが、末には功成り名遂げた片目の実業家。自伝では、都合の悪いあたりをごまかしている。ちなみに前句の「謎」とは関係有りません。

 初めの章は霞む自叙傳 碧
しがらみは道頓堀になげうちて 燕
*名オ七雑。小林秀雄風(『モオツアルト』)だが、師匠の自注によると「いささか自伝小説的」らしい。うーむ。さらに師匠は「ここで新境地に転じよ」とも注文を出してきた。そこで・・・

しがらみは道頓堀になげうちて 燕
スカウト談ず虎キチの酒 碧
*名オ八雑。道頓堀からタイガース。我ながらベタ付けだなあ、今見ると。句意は、昨シーズンまたも最下位だった、次に期待してスカウトの選択眼をファン同士が居酒屋で論っている、というところ。

スカウト談ず虎キチの酒 碧
影跳ねて後は閴(げき)たり竹の山 燕
*名オ九雑。影は虎の影。わかりますね、『山月記』末尾の場面です。

影跳ねて後は閴(げき)たり竹の山 燕
氷刄一閃心已ニ朽ニシ 碧
*名オ十雑。さすがに虎の連想は絶たねばならない。というわけで「跳ね」たのをテロリスト(で「氷刄」)とした。中島敦は漢文脈の濃い文体の小説家なので、中唐の詩人・李賀の一句をあしらった(「長安男児有り/二十にして心已に朽ちたり」)。

氷刄一閃心已ニ朽ニシ 碧
蹣跚と月下をあゆむ空徳利 燕
*名オ十一秋(名残折月の定座)。「蹣跚」はふらふらと歩む様の形容。今見ると、初折五句とかなり趣向がかぶってますな。

蹣跚と月下をあゆむ空徳利 燕
 浮キ樣謡ふ絲萩の宿 碧
*名オ十二「絲萩」で秋。初案は萩ではなく「鈴蟲」だった。なぜ変えたかは後で説く。これは忠臣蔵の趣向。すなわち、祇園一力茶屋から山科閑居に戻った大石内蔵助(というよりここは大星由良之助)が酔余謡曲を吟じている。

 浮キ樣謡ふ絲萩の宿 碧
轡蟲そのかみ宇治の渡河作戰 燕
*名ウ一「轡蟲」で秋。言うまでもなく平家物語宇治川合戦のくだりを踏まえた句。これも初案は「宇治川に轡並べむその朝」だった。初案に私が付けたのが、

轡蟲そのかみ宇治の渡河作戰 燕
 霧は深かれ水嵩まされ 碧
*名ウ二「霧」で秋。ではなくて、ここでも初案を示せば「霧は深かれ氷魚は凝れ」だった。連句では春秋は三句以上続けるのが決まり事。「蹣跚と」が月で秋なので、まず「鈴蟲」で秋を続けたところ、それに付けた師匠初案の「宇治川に」は秋の季語が無い。正直言ってこの両吟では、季の扱いはかなりいい加減(はっきりいえば無茶苦茶)なので、『平家』に宇治川合戦が正月のこととしてあるのを受けて、冬の季語(「氷魚」)を入れて冬としたのである。この初案を送ると師匠から「霧(=秋)と氷魚(=冬)が一句にあるのはどうか」とコメントがあった。冬の川面から立ち上る水蒸気のつもりだったが、まあ季語としてはそのとおり。でまず「氷魚」の句を現行の形に改め、そこから遡って師匠の「宇治川に」も歴史的現在から回想の彼方へ作り直して「轡蟲」を投げ入れ(軍馬からの連想)、そのとばっちり(!)で「鈴蟲」も「絲萩」に化けた、という訳。作者は「氷魚は凝れ」が気に入っていたのでいささか残念。ここの注釈もいささか恨み節の気味合いが無しとしない。

 霧は深かれ水嵩まされ 碧
鵜匠らも食ひあぐねけむ羽づくろひ 燕
*名ウ三雑。句意は明瞭。増水したので漁にも出られない。

鵜匠らも食ひあぐねけむ羽づくろひ 燕
一筆わらび生やす菓子椀 碧
*名ウ四「わらび」で春。鵜匠の《無聊》を室内にうつしてみた。興が動いて、蕨を一本描き足したわけである。「一筆、わらび(を)生やす」ではなく「一筆わらび」を生やした、と詠んで頂きたい所。ちなみに「菓子椀」は懐石で言う煮物(東京では椀盛)に用いる椀のこと。

一筆わらび生やす菓子椀 碧
踏み分けよ髑髏を餝(かざ)る苔の花 燕
*名ウ五春(名残折花の定座)。凄みがあっていい花の句だと思う。なぜ「髑髏」かと言えば、蕨→伯夷叔斉の故事、というわけ。こういうところで教養が問われるから歌仙はこわい(面白い)のである。それはともかく、次で揚句。揚句はさらりとしかもどこかめでたく作るのが要諦だと説かれている。師匠のこの大仕掛けをこちらがうまくとりなさねばならない。

踏み分けよ髑髏を餝る苔の花 燕
大峯越えに鳥かへる也 碧
*揚句「鳥かへる」で春。中国ネタを離れようとしてこの句。吉野の山奥に果てた修験者の髑髏と見替えた。人の髑髏は土にかえり、鳥は古巣へ戻るなり。

 さて巻き終えての感想ふたつ。①(季の扱いは無茶苦茶だと書いたが)現代歌仙では、雑の句が増えるのも必然である。それに歳時記やら季寄やらとにらめっこして作った句に碌なものは無いし。②でもやはり季は大事にしないといけない。歌仙は半ばゲームなのだから、式目というルールは多い分、やりがいも増す(詩における韻律の如し)し、現代の生活での季感をあらためて探ることも俳諧の仕事だろう。『古今』『新古今』ががっちりと固め上げた(縛り上げたといってもよい)詩の王国の秩序を、一方では受け継ぎつつ一方ではそれを検討し、組み直し、新たな秩序を組み入れる、それこそが俳諧師芭蕉の事業だったのだから。

それにしてもこの歌仙という遊び、矢も楯もたまらぬほど面白い。おすすめします。

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