冬ごもりに水涸れ

  燈火親しむ秋でなくとも、これだけ寒いと外に出る(飲み歩く)気も萎えてしまう。こういう時こそ読書を楽しまねば。と意気込んでいても、しかし、肩すかしがあるのは人生に同じ。たとえば某という料理人が著した、会席の献立の作り方の本。カバーの折り返しのところには、会長だとか師範だとか副主席だとかいった肩書きが麗々しく刷り込んであって、とはつまりこの時点ですでに読む気はほとんど消えていたのだが(それにしても、「副○○」という肩書きってありがたいもんなのかねえ)、まあせっかく手に取ったんだからと覗いてみた。これは徹底して作る側から書いた料理書で、巻末には会席の献立とともに原価をあげているのがたいそう興味深かった。

  日本料理が季感を重視するのは皆様ごぞんじ、著者はこれに加えて「走り」「旬」「名残」の別を設け、それぞれに用いるべき食材を縷々説き去っているのだが・・・・しかし本の冒頭に掲げられた料理の写真のまずそうなこと。観光地の土産物屋の二階で出しそうな料理、とでもいえばよいか。いまどきこういう料理に心動かされる客がいるのでしょうかね。

  続いては前にも名前をあげたが、藤原成一さんの『風流の思想』。一言でいえば、万葉集以後の日本人の自然との付き合い方は、所詮は「ごっこ」に過ぎない「風流きどり」だというのがその論旨。型にはめて自然を見るのが堕落しているのだという。

  まったく型にはまらずに物が見られるものですかね、と憎まれ口の一つでもききたくなるが、そうした原論的考察はま、さておき、筆者が持ち上げるのはあるいは芭蕉であり、良寛である。持ち上げるときの賛辞は「実景」であり「真情」である。

  いやあロマンティック(ここでは文字通りロマン主義的、という意味)ですなあ、と憎まれ口をもう一度ききたくなります。今さら津田左右吉かっ!津田のほうがまだしも緻密雄大な構想を持っていたゼ。批判の切っ先の鋭さなら斎藤正二(澁澤龍彦が絶賛していた)の一連の著作につけばよいし、アジテーターとしての華麗なレトリックならとうに正岡子規が模範演技を見せてくれてるわけだし。

  あらあらとため息をつきつつ手に取った三冊目は石川九楊『説き語り 日本書史』。個人的には、坊主がキライ、坊主の中でも禅坊主がキライ、禅坊主でも書は虫酸がはしるという質で、反対に近世文人の書には肩入れしたくなるほうなのだが、幕末の三筆を「書道教授」「書道教室の先生」「(近代の)書家」とこきおろしてるのはなかなか気味がよかった。蕪村の書を散文的と評しているのも新鮮。たしかにあれは、こじゃれた居酒屋の献立書きにも通うデザイン性が横溢している。と、色々書いたけど、これはあれですな、かの大著『日本書史』を読めばすべてわかるってえことです。

  ワルクチばかりの読書評はつまらない。次回までにはよい材料、仕込んでおきます。

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