俳諧無茶修行またまた・乾

 師匠からもう一度歌仙のお誘いをいただいた(当ブログ「俳諧無茶修行 乾・坤」参照)。原稿のネタから三ツ物をこしらえ、そのまま勢いが付いたという事情のようである。下地は好きなり御意はよし、とばかり早速第四を詠み、メイルで送った。
 まずは師匠の第三までを掲げる。

初午や豆をつぶての鬼やらひ 桃叟
 春立つ朝を雪で迎へて 桃
絆とは横文字で言やファッショなり 桃
*発句・脇はまあ尋常だが、この第三、どう扱っていいのか。ま、しかし歳時記的風流だけを歌仙の面目とするのではつまらない、現代風俗も貪欲に消化できてこそ。と考えて次を付けた。ちなみに「桃叟」は師匠の新たな号。桃色ジイサンである。


 車道ものかは蟹の行列 碧村
*時々自然や動物のドキュメンタリーで見かける光景。蟹が産卵のため、一斉に海へと移動する。真っ赤な顔(?)で、鋏をふりたてて、車に轢かれても轢かれてもまっしぐらに歩みつづける姿はまさしく「ファッショ」。いうまでもないが、横文字のことを「蟹行の文字」と言う。季節は・・・多分無い。

月の出もセピア色なる北の旅 桃
*初折表月の定座。「蟹」に「北」を出すのは自然だが、師匠の注によると、八〇年代初頭、若者に「カニ族」なる風俗が流行したらしい。大きなリュックサック一杯に荷物をつめて北海道を一周する。周りの迷惑もかえりみず、鉄道の車内ででーんと席を独占していた由。

 野分のころは古傷を病む 碧
*セピア色の思い出・・・しかし抒情的になりすぎても演歌調でクサイ。色気は出さずに網走のムショ帰りの男を登場させた。うーんこれも充分演歌か。

宿なしを庇つてくれた一夜妻 桃
*師弟で交互に演歌を唸っている感じである。ここから初裏。

 アイロンあててズボン差出す 桃
*演歌調止まらず。ここで師匠が長短二句続け、初裏の残りはこちらが長句、師匠が短句を詠むことになる。

蚤の脚算へて古稀の勲記來る 碧
*滑稽を狙った。老学者授賞の朝、という情景。

 一品ふやす蛤の椀 桃
*授賞めでたし。これは春(「蛤」)。

春燈に調略成ツて塵のたつ 碧
*祝いの場面を切り替えねば、打越(前々句)と前句との付合の趣を重ねてしまうことになる。これは歌仙でもっとも忌避するところである。「燈」で夜。隣国を降すはかりごとを編み出した、という情景。あんまり動いてないかな。

 襟くつろげて桃の枝差す 桃
*そのかみ、源平の合戦では梶原源太景季は箙に梅が枝をさして戦い、風流武者の名をあげた。それをやや俗に崩すとこうなるわけ。

乗り出して浮生は夢や長堤 碧
*問題は誰に桃を飾らせるかである。杯を重ねて上気した芸者が・・・とすればいちばんいいのだが(うひひ)、「一夜妻」が少し前に出てるから、色恋はもう少し辛抱せねばならない。というわけで、李白の『春夜宴桃李園序』の一句を馬上に誦んじる若侍と見立てた。これはこれで凛とした色気が出てると思います。

 蝶の出て舞ふ裏路地の藪 桃
*「夢」から「蝶」(荘子ですね)。芭蕉の弟子の内藤丈草に「大原や蝶の出て舞ふ朧月」という有名な句がある。ここは初裏八句目で、月を出すのには丁度いいところ。師匠が隠した月を次には取り出さねばならない。

三伏の月看取りたり狂詩人 碧
*「三伏」は真夏の暑気のこと。詩人が陋巷(「裏路地」)に窮死して、その魂が蝶と化したわけ。

 光る地面に竹を見しかな 桃
*「狂詩人」から鬼が出るか蛇が出るか、ではないボードレールが出るかネルヴァルが出るか、と予測していたが、よく見たら月で詩人だもんなあ、萩原朔太郎しかないわなあ。

花の帯冨士の女神や解きつらん 碧
*といって、ここで朔太郎の詩から発想したのでは、これまた三句に渡って世界が動かない仕儀と相成る。そこで竹取物語を出した。かぐやが昇天した富士山はコノハナサクヤヒメのしろしめす山。ここが花の定座なので、サクヤさんのほうにご登場願ったわけである。

 春の入り江にうろこ散りたる 碧
*桜並木を遠目に見た景色を「花の帯」とする、という手もあるが、「帯」=細長いという連想から、川面いっぱいに桜の花びらが浮かんで、それが海へ海へとながれてゆく情景に思い至った(現代の俳人森澄雄の「さくら咲きあふれて海へ雄物川」の記憶に助けられたことも忘れず言い添えておこう)。花びら=桜鯛のうろこである。どちらがどちらの譬喩となっているかを決める必要はない。ここで初折の折端。私が二句続けて、次からはまた師匠=長句、碧村=短句となる。

 (この項つづく)

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