怪物の復権―『怪物ベンサム』〜双魚書房通信⑨〜

  フーコーが例の本で華々しくというのも変だが、ともかく派手にぶちあげた結果、ベンサムといえばパノプチコンの発明者というのが通り相場になってしまった。

  間違いはないが、それ以外の側面に関してはせいぜい「最大多数の最大幸福」という功利主義のスローガンが浮かぶ程度。そのスローガンにしたって、現実の様々な局面にどのように働くのか、知っている人間はほとんどいないのではないか。

  「忘れられた思想家」になった原因ははっきりしている。著者が簡潔に要約してみせているように、「近代を準備したベンサムは、その近代主義ゆえに近代批判のパラダイムの中で忘却された」のである。しかし、著者はつづけて言う、「ポスト近代において新たな容貌とともに浮かび上がる」、と。

  一冊は一応ベンサムの生涯を年代をおって記述するという体裁をとっているが、おそらくこれはたまたま選び取った結果に過ぎないだろう。一生を通じて、こちらのゴシップ的好奇心をそそるような、華やかな逸話は見当たらない(死後に自分の遺体を解剖の上、ミイラとして展示してほしいといったことぐらいか)。それどころか、一生を通じての思想的成長(変節といってもよいかもしれないが)といったものを見て取ることも難しい。生まれ落ちたときに既に完成されており、あとの人生は元から備えたその思想を、局面に応じて手を変え品を変え紡ぎ出すのみ。

  その生涯にふさわしい思想(思想に見合った生涯というべきか)といえるだろう。ベンサムは、社会を完全に統御可能な、機械のようなシステムとして思い描いていた。たとえば犯罪防止の政策。起こった罪に対する罰を厳しくするよりも、発生を未然に防ぐための「管」を社会の隅々まで行き渡らせるべきだという。社会の地層のいたるところにはりめぐらされた管理の「管」は、別の局面では首相官邸と各閣僚の部屋の間に始まり、いたるところに接続された、情報をやりとりする「チューブ」の構想へと形を変えて登場する。ベンサムの発想の《原質》を透視する著者の目はするどくて明晰である。

  炯眼は、他のところでも透徹する。高利をとる金融業者を口汚く攻撃するアダム・スミスに対してベンサムは高利を擁護する論文を書いた。筆者はその高利擁護論を、あろうことか同性愛擁護論(ベンサムの死後長く秘められ、一九七八年に至ってようやくその全貌が明らかになった)と結びつけてしまう。当事者の合意のもとで、快楽が増大するように働く行為は無条件に善だ、という見方が両者の擁護の根底にあるのだ、と著者は論じる。なるほど。

  このように、ベンサムの思想は熱狂や偏見といったものとはほど遠い。そんな奇人思想家の生涯を、彼が生きた18世紀の空気(その温度・湿度・匂いを)を巧みに喚起しながら著者は語る。

  奇妙な、ほとんど異様なといえるほど情熱を欠いている。にもかかわらず、というよりそのゆえに、反イデオロギーを謳って登場したものの、その実イデオロギーにべったりまみれていた近代をやすやすと飛び越え、生ぬるい均質空間でただ快楽原則のみを黄金律とするポストモダンをさえ予感させる。

  原著は『ベンサムという男』だった。このたび文庫化されるにあたって『怪物ベンサム』と改題されたのは充分に意味深いことである。葬り去ったはずの古くさい思想家が、ぴかぴかに現代的な社会システムの考案者(予言者)としてよみがえる。イデオロギーの熱狂・盲信を欠いた相手と論争するのはまことに困難な事業である。向こうは快楽原則という抜き差しならない武器をたずさえてどこまでもこちらに絡みついてくるのだ。しかしこの「怪物」を考え抜き、食い破らねば、かの端整にかがやかしく、しかも甘美な監獄を脱することは不可能なのではあるまいか。

  こういう名著が新たな形で入手できるようになったのはまことに嬉しい。


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怪物ベンサム 快楽主義者の予言した社会 (講談社学術文庫)

怪物ベンサム 快楽主義者の予言した社会 (講談社学術文庫)