ある種族への鎮魂歌〜双魚書房通信(15)

富士川義之著『ある文人学者の肖像―評伝・富士川英郎


 名声ある父親について筆をとるのは、どうも息子より娘のほうが多いようである。森茉莉幸田文萩原葉子、室生朝子と女流ではこれだけの名がすぐにあがるけど、繰り返し偉大な父親の伝記をものした息子=文士は意外と少ない。書いていてもなんとなく気が乗らない様子がただよってくることも多い。例外は斎藤茂吉北杜夫の組み合わせくらいか。

 今さら精神分析の概念を持ちだしてくるつもりはないが、やはり男同士だと何かと隠微な対立・確執が生じやすいのだろう(念のためいっておくと、女流にそれが無いと見ているのではない。それを表現の場に乗せようと考えるかどうか、の違いである)。まして父(リルケや、後年は江戸漢詩の研究でも知られたドイツ文学者である)子(ワイルドやペイターの研究で名高い英文学者)ともに外国文学研究という同業に就いている場合はなおさらやりにくいのではないか。

 それだけに今度富士川義之が出したこの評伝は瞠目すべき一冊である。難事に取り組んだ心ばえ、それに加えて見事に難事をクリアーした、その完成度の高さという二重の意味において。

 現今の出版情勢においてこのような本を出すには困難が多いだろう。はじめこの伝記に連載の場を与えた『大航海』(いい雑誌だった)と、それを引き継いで完成まで見守り世に出してくれた新書館の気概見識に敬意を表しておきたい(挿画は三浦雅士)。

 富士川さんは(訳業に親しんでいるものだから、こう呼びたくなる)、英郎が小学校に入学する際、「嫌いなものは?」と試験官にきかれて「うんこ」と答えたという、碩学には一見似つかわしくないエピソードを紹介することから評伝をはじめる。答えた本人が長じてこう説明している。入学の少し前、逗子の海岸に遊んだときに砂を掘って遊んでいると件のモノをつかんでしまった。「母が早速、私を波打際までつれていって、海水で私の手を洗ってくれたけれど、「うんこ」を掴んだなんとも言えない不快感と不潔感とは、それ以来、「うんこ」に対する異常な嫌悪や恐怖を私のなかにコンプレックスとして残し」た、と。パトグラフィの恰好の餌食になりそうなこの出来事にふれて著者はこう言う。


  このエピソードが示唆するように、幼少時代の父には、しばしば何か目に見えないものに何となく怯えたり不安を感じたりする一面も強く認められたのではないかと推測する。いつまでも「異常な嫌悪や恐怖」を引きずるような神経症的な心性の持主は、その傾向を年を重ねるにつれて増してゆくのではなかろうか。この偶然の出来事をきっかけにして、難しく言うと、いわば「実存的不安」に徐々に目覚めたことが、父を詩に、とりわけ萩原朔太郎リルケに近づけたいったのではないかと思わずにはいられない。


 しなやかな思考であって、かつ指摘は犀利である。たしかに詩人であることとは、世界のありようのある部分/全体を、決然として否定する/肯定することを前提としているであろうから。そして少年の内なる詩人は、萩原朔太郎の「猫」との天啓のような出会いによって一気に花開くことになった。「その大胆な表現には、有無を言わさずに、読者を魅了し去る力があつたのであります」(『萩原朔太郎雑志』)。傾倒のあまり、朔太郎の論文を読んだ後、疑問や納得のゆかない所を長文の手紙に書いて送ったこともあるという。英郎この時十七歳。栴檀は双葉より芳しいというべきか。

 しかしこのエピソードが示すように、学者としての資質を大きく見事に成長させたのは言うまでもないこととしても、英郎はいくつかの習作(戯作?)を除けば、詩の実作に手を染めることはなかった。それでも先に内なる詩人が開花した、と述べたのは、「詩」を扼殺することで学問を大成したのではなく、むしろ学問によってこそ「詩的人間としての父」が純粋な精神の核を頑固に守り通した、と富士川さんが評しているからである。すなわち詩作品としての、『ドゥイノの悲歌』『オルフォイスへのソネット』翻訳・註解。福永武彦中村真一郎といった、小説家=詩人が英郎の研究書を高く評価し、愛読したのは故ないことではなかった。

 富士川さんは、英郎の『ドゥイノ』註解は、手塚富雄(当時のドイツ文学界の大御所)の註解付き訳(岩波文庫)から四年遅れたこともあって、ドイツ文学界から「まったく黙殺されてしまった」という英郎の回想を引いている。あながちこの黙殺ばかりに起因するのではなかろうが、「詩的人間としての父」と同時に「暗い孤独の影」もまた、『ある文人学者の肖像』の叙述の通奏低音をなしている。平凡社東洋文庫版『江戸後期の詩人たち』の解説で、揖斐高(江戸漢詩研究の第一人者)が、富士川英郎の中には詩人的素質があって、その為に傷つき思い屈することも多かったのだろう、という趣旨のことを書いている。揖斐先生は、英郎の文業からその「傷」をいわば透視した(さすがに俊秀は俊秀の心を知るというべきか)。その裏付けをなすかのように、富士川さんは、家庭においては無愛想で冷淡、始終不機嫌で、ほとんど心ここにあらずといったような父の「肖像」と、そんな父に対する複雑な感情を、ただしいかにもこの著者らしい、落ち着いて気品のある文章でこまやかに描いている(「15 父とわたし」)。父―子の関係を書くという「難事」をやりとげた、と小文の冒頭で言ったのはそういうことである。

 だがこの本の美質は、そのようないわば「伝」の部分にのみあるのではない。英郎は『江戸後期の詩人たち』以降、江戸漢詩の考究に孜々と取り組み、その成果は筑摩日本詩人選の一冊である『菅茶山』『菅茶山と頼山陽』、そして茶山研究の決定版ともいうべき大著『菅茶山』(福武書店)として世に送られることとなった。驚嘆すべきは、一連の著述が、外国文学者の手すさびというにとどまらず(英郎は日本漢詩の一大影印叢書の編修も手がけている)、また中村真一郎(『頼山陽とその時代』『江戸漢詩』『詩人の庭』)のように小説家的奔放自在な鑑賞・文学史の書き換えでもなく、それ自体見事な「研究」となっているところである(念のため言い添えておくと、中村の本もまた見事な出来ばえ)。

 いやこういう見方は正確とは言えないのだろう。著者は繰り返し学問がひたすら専門への分化していく現代の風潮に、嗟嘆の声をあげているのだから(もちろん富士川さんの筆は性急な批判に上滑りしたりしないけれども)。『儒者の随筆』や『失われたファウナ』といった一連の「詩話」の得難い味わいについて紹介したあとで、富士川さんはこう書く。


  だが、現代の人文系の学問が、なぜ、たとえば詩話のような古くからある形式に対してひどく冷淡で無関心であるのかを考えてみると、現代の学問は確かに専門的に細分化したために極めて精密なものとなったけれど、ともすると個々の専門的知識が孤立しがちであり、全体として有機的につながりにくいこと、言いかえれば、部分の理解は精密ではあるものの、その部分と全体との関連性や結びつきまで目配りする努力が足りないのではないか、ということが思い浮かぶ。その重要な原因は、大ていの場合、それぞれの知識に、言うなれば人間的・生活的な基盤が欠けているからではなかろうか。敢えて言えば、そのような基盤を欠くとき、学問は必然的に学者の個人的な生活の歴史からは遠ざかり、しばしば人間味を忘却し、学者の人格の形成に深く関わるということも稀になるのではあるまいか。


 これに対し、英郎の仕事が「純粋な知識愛からなされる探索であり、一見縁のなさそうなもの同士を鋭い直感と洞察力と想像力とによって結びつける作業」の代表であったことは言うまでもない。「現代に対して、それはいわば批判的存在となるものである」。すなわち知る、父の業績、そして英郎が終生尊敬していた游(英郎の父で、高名な医史学者)を丹念に辿ることで、自らもそれに連なるところの、「文人学者」という高貴な気圏の普遍的価値を鮮やかに浮かび上がらせたのがこの本の精髄だった。

 最終章「晩年の父の記」で、毎日欠かさず散歩に出かけては鎌倉の山や寺社や「やぐら」(鎌倉に多く存在する、洞穴式の墓)を見て回り、行きつけの喫茶店で小憩し、帰ってからはビールの中瓶一本で食事をとって、深夜まで読書や執筆に耽っていた父の生活を記してから、富士川さんは「自分の内部からおのずとあふれるように広がる幸福感」を英郎は感じていただろう、と推測する。この「幸福感」と「自由」は、営々とみずからの信ずる学問に一生を捧げてきた人にのみ恵まれる境地に他ならない。

 このようなうつくしい本に捧げるものとして、評者は次のことば以上にふさわしい表現があるとは思えない。これは『菅茶山と頼山陽』が出版された時、朝日新聞「文藝時評」でこの本を絶讃した石川淳のことばである。いわくー「沈潜かくのごとくしずかな文章はえがたい」。


【ランキングに参加しています。下記バナーをぽちっ。とクリックしていただけると嬉しう存じます!!】
にほんブログ村 料理ブログへ
にほんブログ村

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ
にほんブログ村