双魚書房通信・二〇一四年回顧(3)

チャトウィンは今やアイドルといってもいいような伝説的な書き手。多くは旅を題材にきらめくような(ブリリアント、と形容したいくらい)文章を残した。長いもので『パタゴニア』、短いもので『どうしてぼくはこんなところに』が双璧か。


訳者あとがきによれば、「紀行作家」とよばれることにいらだったチャトウィンが物したのがこの小説。すなわち「決して旅などしたことのないひとたち」についての物語。


そんな成り立ちだけに、ウェールズイングランドの境界付近にある農場―〈面影(ザ・ヴィジョン)〉といううつくしい名を持つ―から、舞台はほとんど動かない。物語の時間もまた、二十世紀はおろか、あの古風で頑丈な十九世紀小説の傑作群の中にさえめったに見かけないような、年代記的構成に沿って一直線に、悠々と流れてゆく。


片田舎の農場を守り続けたのは、昔気質の双子の農夫。彼らの一生を叙するのに、他に手は無いようなものだが、あの才人が書いたと思えば、いささかもケレンの無い作りがかえって新鮮に映る。


そう、チャトウィンは慌てず、騒がず、しかしテンポを引き緊めるべき所では充分に筆を惜しみながら、息を乱すことなく物語の繭玉を解きほぐし、繰り延べていく。気性や文体はかなり異なるが、全体として見るならば、我らが須賀敦子のそれを思わせる優雅でしかも痛切な空気が小説世界に満ちている。


弟のベンジャミンは第一次大戦で徴兵され、そこで虐待をうけた挙げ句に深刻なトラウマを負うことになるのだが、このエピソードはむしろ例外で、歴史的現実がジョーンズ家の世界(物語は双子の祖父の世代から語り起こされる)に闖入してくることはほとんどない。第二次大戦の砲声さえこの農場には響いてこないのだ。地域の新聞は、戦争が終わった日、太字でこんな見出しを掲げた―「コールマンの淵で釣果あり/五一ポンド半の鮭/准将、三時間にわたる/巨大魚との格闘を語る」。


ウェールズケルトの国―という風土のせいだろうか。「神話的」、とこの緩やかな年代記の趣を、ついそのように評したくなってしまう。しかし農場の動物たちと交感できた幼い双子は着実に成長し、恋をし、失恋し、時代のあたらしい風俗に戸惑いつつ老いてゆく(そして)。これほど堅牢に人生というものの手応えを捉えてみせたのは、やはり「夭折の天才」の閃きによるものではなく、間違いなく散文作者としての成熟の賜物であった。




通奏低音のように顔を出してくる、農場での作業の描写がことのほかうつくしい。読者の方にも落ち着いた心持ちとゆったりした時間が求められる読書となるだろう。

黒ヶ丘の上で

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