彼の『神学大全』~双魚書房通信(19) 鹿島茂『書評家人生』

 書評本を読むのは人生の一大悦楽だが、無論本に善し悪しはある。でも見分けるのは簡単。風呂場に持ち込む気になるかどうか。これはその気にならない方がいい書評本なのである。スマホでもメモ帳でもいいけど、どんどん読みたい本が出て来て情報を控えておくのに、バスタブくらい不便な場所はないから。

 我らが鹿島茂はどちらに属するか、実はこれがヤヤコシイことになっている。まあ聞いてくださいな。

 いそいそと机に向かい、当方の場合は書籍管理のアプリを立ち上げ、舌なめずりしながらー大抵はバーボンかシェリーをちびちびやりながらー、面白そうな本をチェック、豊饒な収穫に酔いしれる。

 さて、そこから数週間?場合によっては数日(幾月か後のことだってある)経つと、鹿島大人の名調子にどっぷりはまりたくなって、今度はぬるめに立てた湯にちょっといい入浴剤を奢り、「さて書見なと致そうか」とゆっくり頁を繰っていくのである。

 つまりヤヤコシイと言ったのは、理想の書評が持っているべき(往々にして背反しがちな)美質ふたつが鹿島本にはあるからだ。ひとつは読み手の食欲をそそる書物がどれだけ多く紹介されているか。勝率が大事なのである。競馬の予想屋じゃあるまいしとヒンシュクする向きもあるかもしれないが、まずもって書評家に求められるのはいい本を嗅ぎ分ける感覚の冴えである。味覚音痴の料理人はどうしたって大成するわけがない。そして本当にすぐれた料理人がふだん用いないような食材にも新たな味覚天国の可能性を探り当てるように、一級の書評家はジャンルを横断し、こちらがさなくば手に取ることを意識すらしないような本を次から次へと繰りだしてみせねばならぬ。鹿島大人はどんなけ足ながいねん!と感歎したくなる足捌きで書物の世界を優々と渉猟して回ってることは誰しも認めるところだろう。

 しかし、ここからは鯨馬子一箇の好みになるのだが、出来れば書評家にはなにかの背骨または参照枠ー丸谷才一の表現を借りるならホームベースーといったものがあらまほしい。例えば大書評家でもあった丸谷才一その人ならジョイス(つまりモダニズム)と新古今(つまり王朝和歌)。所謂専門の書評家は、関心の幅が広く足取りが軽いのはいいとして、どこか本を見る人間の「眼」が見えてこなくてスナック菓子を食べ終えたあとのような頼りなさが残ることも少なくない(シリル・コノリーのように藝一本で書き抜くならばそれとして見事だけど)。

 その点鹿島茂は言うまでもなく十九世紀フランスの押しも押されもせぬ大家。マンガを論じても日本古典を論じても、バルザックを読み抜いた識見が通奏低音として流れているから、自ずとそれとの対比分析が(無意識にせよ)なされて、結果彼の差し出す評価が普遍的な視点を備えるにいたる、ここが肝腎なのである。

 で、ふたつめの美質。少々誤解を生みそうな表現だが、文章に愛嬌がなければならない。ぬる湯に長々浸かりながら/ブランデーをなめながらじっくり付き合いたくなる、というのはそういうことである。といって、読者に媚態を体するような代物は絶対にダメなのであって、堂々と自分の鑑賞を語りつつ常に相手への説得(恫喝でも詭弁でもなく)という姿勢を忘れない、とはつまり文章に個性があってしかも風通しがよい、うん、これは名文ということですね。鹿島大人は書評というコスパ/タイパが最悪な仕事を、文筆稼業のほぼ始発から営々と続けてきたことについて、本書序文でマゾヒストだからとはにかんでみせているけれど、苦しさ・不機嫌・説教、そういった表情を一切見せずに書物という愉楽について語り続けたその構えは、評者には倫理的とさえうつる。これだけよく見えてしかも考えることが好きなひとが、この時代この世界にあってそうあり続けることにどれだけのエネルギーが必要だったか。

 おそらく鹿島茂の書評本を読み終えて一等感銘を受けるのは、彼の《アンガジュマン》のそうした晴朗さ自体であるに違いない。

 それにしても、これだけ書評の規律(本書でも十一プラス三原則が示される)を明晰に掲げた大書評家の本を書評するのはじつにむつかしい。だいたい一箇所も引用がない時点で、鹿島ルールの⑤に違反してるじゃないか。まあしかし、これは引用し始めると切りがないからと逃げておいて、でもルール③「書店で一度は手に取ってみることを勧める方向で書評する」に関しては「熱烈に勧める」と書き足した上で守れたことにしておきましょう。(青土社