あるいはC1000タケダで一杯の風呂~青森初見参②~

 駅前から八甲田山酸ヶ湯温泉行きのバスが出る。夏は十和田まで抜けるそうだが、冬は酸ヶ湯止まりとのこと。常客は当方ともう一人だけ。いやが上にも旅情が高まる設定ですねえ。もう一人がオッサンではなく女子大生だと更に高まっていたのですが。


 市内はまあ、昨日経験した程度の積雪。ところが三内丸山遺跡を過ぎるころからぐんぐん周りの白さがましてゆき、八甲田に入ると上方根生いの人間は思考が停止してしまう。道路の両側はバスの窓近くまで雪の壁が延々と連なり(これでも例年に比べると低いそう)、その先はどこまでも白い平面。そこに目路の限り葉を落としたブナ(これこそ関西では普通には見られない樹だ)が立ち並ぶ。ブナの黒と白とだけの世界。ブリューゲルの絵の中に迷い込んだような非現実感で、呆けたようになっておりました。


 途中スキー場で小憩(ロープウェイは風のため運休)。運転手もタバコを吸いに外に出てくる。運転手氏曰く「ここらで今の気温がマイナス五六度。酸ヶ湯までいくとさらに下がる」。寒冷フェチとしては恍惚としてしまう。また聞き捨てに出来ない情報も教えてくれた。「酸ヶ湯は混浴だよ」。なんと。「ま、全体に湯気がすごくて何にも見えないけども」。なんと。


 目的地に着くと、果たして雪雪雪のただ中に旅館があった。ずいぶん大きな造りで、宿の説明書きを見るに登山客やスキー客だけでなく、湯治客も多いらしい(湯治客専門の宿舎もある)。


 ともあれまずは湯である。混浴ときいて舌なめずりする年齢(つまりは中高年)でもなく、逆に混浴ときいて怖じ気をふるう今の草食性というか植物性若者でもない世代の鯨馬、粛々として「千人風呂」なる大浴場に向かう。


 湯気がすごい。そして明かりも暗い。「何」かが見えるどころか、三四メートル先に人がいるのかどうかさえ見分けがたいほどである。湯の匂いも「硫黄ようさん入れてまっせぇ」という主張の強さ。こりゃあ効きそうだわ。


 「熱の湯」にそろりそろりと体をしずめる。割合熱くない。顔を洗うと湯がしみる。比喩的な意味ではなく、文字通りに目が痛い。いやまじこれやばいいたいいたいいたい。ひとすくい口に含んでみると、案の定ライムジュースといおうかC1000タケダといおうか、とにかく強烈にすっぱい。色もまさにヴィタミン飲料の色をしておりました。こりゃあ効かねば嘘だわ。


 「熱の湯」と打たせ湯と「四分六の湯」とに交互に入る。泉質はそうでも、湯温はさほどでもない。じんわりとライム果汁が体にしみこんでいく。うっとりと目を閉じる。つい目の先にいる(やもしれぬ)オバハンの裸体から目を背けている訳ではない。目を開けたまま天井を見上げると、ともかく目が痛いのである。それさえ除けば法悦ここに極まれり、という感じ。一と月もここで湯治したら鯨馬も新田次郎並みの傑作をものすることが出来るのではないか、と妄想に駆られる。極上の湯に浸かりながら、壁一枚向こうの冷たさ・雪の色を思い描くと、一層ニルヴァーナ的心境が深まっていくのだ。これは一句ひねり出さねばなるまい。雪の上塩と砂糖をなめてみる。いやこれはどこかで聞いたな。降る雪や平成は遠くなりにけり。いや、遠くなるのは来年の話だった。などとぶつぶつ言ってるのが楽しくて、だから混浴などどうでも良いのである。

 

 

 

 ホントに、どうでもいいのですよ。

 

 


 じんじんする体で、旅館内の蕎麦屋で食事。八甲田の湧き水をまずぐいーっと一杯。甘露甘露。次いでビールをくいーっと。甘露甘露。赤蕪漬と胡瓜の醤油漬、茄子の塩漬けも塩梅もよし。蕎麦(濃い目に煮込んだ鳥肉と葱、きのこ入り)もよし。あの、おねえさん地酒を冷やでいっぱいください。あのおねえさんお酒おかわりを。温泉玉子もください。ねえさんおかわり。


 帰りのバスでは、すぐにことんと眠りにおちていた。


 空は昨日と同じようにくらいが、夕食までまだ時間がある。ということで吉例の古本屋めぐり。一軒目は特に言うことなし。二軒目はまことにいい本屋でした。隅から隅まで店主の好みで統一されており、文庫一冊もよく吟味してある。うかがうと、店主はもと新刊書店につとめており、定年を期に古本屋を始めたとのこと。果たして「いちばんはじめは、『どうせいつかは処分しないといけないのだから』と、自分の蔵書を全部店に出しました」らしい。だから趣味が一本通っているわけですね。鯨馬は『世界のライトヴァース』『日本のライトヴァース』それぞれの揃を買った。探していたシリーズなので、割合安く手に入ってたいへん嬉しい。


 気温はぐんぐん(という表現は変かも知れないが)低くなっていってるというのに、探し物に巡り会えたうれしさで気にならず、町歩きの続き。土産ものも買って発送してしまう。


 夕食はさほど感心しなかったので店名は記さず。もっとも、この大時化でろくに魚も出てなかったろうから、この日だけの判断で評価を決めるのはちと酷だろう。二品ほど取って店を出、定食やみたいなところで鱈の味噌汁やら帆立のフライやら漬け物やらで飲み直す。その後昨日のバーへ。バーボンを飲みながら、沢口靖子似の、いかにも秋田美人というバーテンさんに「酸ヶ湯はすごい」とやや昂奮ぎみに報告する。もう一軒回ることも出来る時間ながら、約束があったのでホテルへ戻る。


 翌朝。六時半に朝食。お粥や炒り卵、大間のわさび漬けなど。味噌汁も熱々なのが嬉しい。部屋に戻って二度寝する。それにしても中学生とその親がなんであんなにおったんだろうか。受験の日だったのかな?

 

 空港行きのバスにはまだ余裕がある。古川町という、昔ながらの商店街にある市場を覗いてみる。煮魚で定食、でビール、おあと熱燗。という段取りを勝手につけていたのだが、見るにどの店も「のっけ丼用」として、アルミのパックに鮪やらホタテやらの刺身を一二片いれて売っている。各店で魚を買い、それを食事処に持って行って、飯に載せて食うというシステムであるらしい。店で魚を選べるのが少し目新しいと言えば言えるが、要するにこちらの嫌いな海鮮丼である。地元のオッチャンオバチャンが、焼き魚や煮魚より海鮮丼を好んで食ってる訳がないと思うんだがな。

 

 というわけで、結局駅弁のちらし寿司(これは好物)を買い、空港で食べた。


 「菜の花」の、山菜沢山の献立、八甲田のブナが一斉に若芽をふいた光景・・・と想像してみる。春に休暇、とれないものか。いや、それももちろんいいけど、やはりあの暗い海、粉雪を巻き上げて吹く風、音一つない雪の壁、当分脳裏を離れそうにない。

 

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津軽海峡は冬景色~青森初見参①~

 今回の行き先である青森は初めて。ともかく寒くて雪の多いところ、ということで選んだ。伊丹から一時間半あまり。空港ロビーを出ると、早速当方の願いが叶えられて一面の雪景色である。とはいえ予想していたよりは寒くなかった。何だこんなものか。素人の早のみこみはこの日の夕方には早くもたたきつぶされることになる。


 バスで青森市まで移動し、まずは市の中心部にある善知鳥神社にお詣り。善知鳥。うとうと読む。見たことはないが海鳥の一種だとか。ただし、この名前は以前から知っていた。江戸の戯作者山東京伝の読本『善知鳥安方忠義傳』を昔読んだことがあったからである。神域社殿ともに特に風情は感じられない(もっともここも一面の雪である)が、裏手に「安潟」なる沼があったのは面白い。正確に言えばかつての広大な沼のごく一部。この地に流されていた善知鳥中納言安方なるお公家さんの見た霊夢が神社の起源、となっているが、要は海のすぐ側に作られた町で海鳥、それに沼の名前を無理矢理くっつけたという訳である。城下町弘前とは違って、漁農主体の町人の町だったんだろうな、と考え考え昼飯の店へ向かう。


 歩道自体が雪に埋もれて歩く余地がほぼ無い上に、車道は傍らに雪が掃き集められて道幅が狭くなっているから実に危なっかしい。足を滑らせて転倒したところに、ブレーキが効きにくくなった車が突っ込んできたら一巻の終わりである。おのずと老人の如きよちよち歩きになる。この日の昼食は天ぷら。昆布と鯡とを塩・米で漬けた小鉢が旨かった。酸っぱく発酵させており(ハタハタずしのような感じ)、飯より酒に合う。当然熱燗を頼む。


 二合呑んでようやくかじかんだ手足もほどけてゆく。歩いて駅に着く頃にはすっかり冷え切っていたのだが。この日の午後は浅虫温泉に足を向けた。電車(汽車?)で四十分ほど。駅を降りても人が見えない。風がつよい。それはいいとして、冷たい雨がしょぼしょぼ降るのには閉口する。コートのフードをすっぽり被る不細工な風体で同じくよちよち歩いていく。途中すれ違ったおばあさんと二人の孫も同じような恰好で歩いている。見てくれよりも実を取る、といったところか。


 温泉旅館の並びが切れた少し先に浅虫水族館がある。というより、水族館があることを知って、ついでに温泉に入ろうと思い立ったのである。これも我が旅お決まりのパターン。


 さてお目当ての浅虫水族館はド派手すぎることもなく裏びれた感じもなく、ゆったりした気分で回ることが出来た。やはり一番の見ものはご当地水槽である。男鹿ならハタハタ、下関なら河豚、大分では関アジ、ここではホタテとホヤということになる。両者とも別に泳ぎ回ることもないのだが(当たり前だ)、なんとなく愛嬌があってよろしい。うーむ、晩はひとつ帆立の刺身でいっぱいやるか、という気分になる。なお、どの水族館にもあるタッチプール、ヒトデやカニは定番だが浅虫ではそのホタテが面子に加わっていた。手のひらに載せると貝がぱくぱくするのだという。親子連れに混じって載せてみたけど、オッサンの手に掴まれて不貞腐れていたのか、疲れていたのかぴくりともしませんでした。貝風情にハブられて、いよいよこちらも脈が上がったということですかな。


 水族館を出ても相変わらずの雨。雪よりも冷たいような気がする。震えながら歩いていく。駅前にも共同浴場はあるが、せっかくだから旅館の風呂を、と旅館街の端っこにある宿まで歩く(中途半端な時間で他に入れるとこがなかった)。観光客もいないし、土産物屋も開いていない。着いた宿でも、女将さん以外の人影がない。寂として静まりかえっている。


 当然ながら大浴場にも誰もいない。これは気分がいいものですね。存分に愉しみました。ここのお湯はややしょっぱく、肌触りはむしろさらりとしているくせに―と温泉評論家を気取ってみる―少し浸かっていると、じんじん効いてくる。駅に戻ってもまだ体の芯が火照っている感じだった。


 夕景ともあって、車内は高校生で溢れかえる(地方鉄道ではお馴染みの光景)。土地のことばでわあわあいってる会話を聞きたかったのだが、やっぱりここでも皆スマホの画面にじっと見入っており、ちょっと気味が悪いくらい静かなものであった。


 青森に戻り、しばらく町を歩き回る。目抜き通り(新町)の、駅近くはコンビニ、チェーン系居酒屋でどこも同じようなものながら、少し歩くと地元のスーパーなぞが増えてくる。短い滞在で何を言う資格もないけれど、他の同規模の地方都市に比べると空き店は少ないようである。人通りも結構ある。ただ四時過ぎで既に空は真っ暗。電光掲示板には気温0度とある。なんだか一刻もはやく呑まねばならぬ、という気になってきて適当な店を探してもさすがにこの時間で開いてる店はない。かといって牛丼屋でビールつーのもしたくない。実は駅前にある市場を覗くと刺身なんかで呑めそうだったのだが、そうなると晩飯の愉しみが薄れてしまうし・・・と懊悩のあげく、裏通りの立ち食いうどんに入り、うどんを啜りながらビールを呑む。急に歩くのが面倒になり、ホテルに帰って軽く休憩。


 のつもりだったが目を覚ますと店の予約時間近くになっていた。あわてて本町の割烹「菜の花」へ向かう。あわてて、といっても歩き方は例のペンギンスタイルなのである。


 この日はじめは当方ひとりのみ。献立を記す。

○先付=鱈の身を鱈の白子と卯の花で和えたもの。鱈が出て、「ああ東北に来たなあ」と感じがしみてくる。
○前菜=ずわい蟹の手毬寿司・数の子・薺のお浸し・蛸・バターを干し柿で巻いたもの。薺が良かった。菊菜に似て、あれよりもっと香りは穏やかでかつ高雅。まことに品格ある味である。鯨馬の如き俗物が口にしてすいません、という気になりつつ、綺麗に平らげる。
○酢の物=生蛸。柚釜ならぬ、橙釜仕立て。橙の汁をしぼると蛸が固くなるので、はじめはそのままでお召し上がり下さい、ご主人。前半くにゃくや、後半こりこりの食感の変化が愉しい。橙の香気でさあ呑むぞ!と覚醒する。
○煮物がわり=鱈の白子。上方の居酒屋でも出すが、ここのは湯がいてまだ温かいのに醤油をかけて出す。薬味はさらし葱。注して言う、ポン酢醤油にあらず。ご主人曰く「このあたりでは酸味を苦手にしている人が多い。北なので柑橘類があまり取れなかったせいもあるんでしょうね」。確かにそれもあるのだろうが、何よりポン酢では勿体ないからではないか。柑橘のきつい香りがかぶさると、この清らかで温雅な甘みは影も形もなくなってしまうに違いない。つまるところ、それだけ上質の白子なのである。
○刺身=一皿に一種ずつで出てくる。槍烏賊に胡麻をまぶしたもの。メヌケ(塩昆布と山葵で)。ウマヅラハギ(肝を身で巻いている。これはポン酢醤油で。あしらいは水菜)。鮪(新海苔の辛煮と山葵で。あしらいは甘草)。ひとつひとつ趣向があって嬉しい。それを言うと「ここらはみんないい魚ばっかり食べてるので、料理屋では一ひねりしないと怒られてしまいます」。ナルホド。しかしそのひねりが独りよがりの悪凝りになってならず、微妙な線を守っているところにご主人の感覚の冴えが表れている。鮪はさすが、という旨さでした。
○焼き物=鮟鱇の付け焼き。あしらいは白菜を炙ったもの。魚と野菜が互いに香気を高めあう、という風情。
○強肴=ねぎま鍋。鮪と葱、金時人参ブロッコリーが薄葛仕立ての汁の中で煮えている。

 気さくでしかも折り目正しいご主人とのおしゃべりも愉しみながら、この日は銘酒「田酒」の山廃純米だけでも燗で五合。ビールを呑む気にはちっともなりませんでした。


 (いつも通り)どこに行くか決めていない、という当方のことばを聞いて「雪がお好きでしたら八甲田がいいと思います。温泉もありますし」。八甲田山と言えばスキーか死の行軍か、という程度のイメージしかなかった人間は「温泉」の一語で俄然行く気になってくる。それにしてもいい店だった。春も夏も秋もいいだろうなあ。青森再訪決定。


 二軒目のバーも「菜の花」で教えて頂いた。しっとりした雰囲気のいいバー。「お通し」にスープが出てきたのだが、これがまた身にしみる。「菜の花」とは目と鼻の先なのに、それだけ体が冷えてしまうのである。だから、一杯目=バーボンソーダ、二杯目=ラムトニック、三杯目=バカルディ、となんだか滅茶滅茶、というか逆行したような飲み方に見えるだろうが、暖かい店を出るぞ、という時間が近づくに連れ、ぱんちの効いた酒を欲するようになるものなのである。

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四十而書

 三が日は出勤だったけれど、諸色高直の時節にも関わらずわざわざ御節ならぬ年末料理を作ったのは、アテとして好きなものが多いから。だから、海老の煮たのや伊達巻やらはむろん入れない。

○お煮染め(むしりこんにゃく、海老芋、蓮根、干し椎茸、牛蒡、慈姑)・・・冷めてもいける。というより、冷めたほうがダシの味がよく分かる。
○お煮染め「ず」(鯛の子、百合根、高野豆腐、昆布)・・・たっぷりのダシで炊き、醤油はほんの香り付けにとどめる。上に柚子の皮をおろしてかける。これも冷えた鯛の子をかみしめると、酒がすすみます。
○生ずし・・・たまたま極上の鯖を見つけた。片身は浅めに、片身はしっかり〆る。柚子もたっぷりしぼりこむ。
○なまこ酢・・・これもたっぷりの柚子をしぼって〆る。柚子ばっかり使ってるが、どうせ年が明けるとすぐ旬が終わってしまうから、使えるうちに使っておく。
○ごまめ・・・鷹の爪と一緒にしっかり炒り上げて、酒・酢、ちょっぴりの蜂蜜でさっと煮る。一尾一尾がぱらりと離れるように仕上げる。
○漬け物(酢茎・日野菜・赤蕪・白菜)・・・日野菜は塩と糠で、赤蕪は塩と酢と淡口醤油で、白菜漬は例の通り。酢茎も自分で漬けてみたいなあ。どなたかレシピをご教示してくださいませんか。
○唐墨・・・『播州地酒ひの』製。かるくあぶって、薄切りの大蒜とともに。
○焼き穴子・・・焼き海苔とおろし山葵で。
○生口子・・・おろし芋と合わせて。


 十日戎のころは冬の食物が一等旨い割りに、どこも不景気。もう一度この献立で延々呑みたいものである。


 三日は出勤後に、張龍たちと新年会。翌日は『海月食堂』夫妻を拙宅にお招きして鶏鍋とアテで新年会。こういう時は精励恪勤しております。それにしても敬士郎さん夫妻も鯨馬も、よく食べよくしゃべり呑んだ。誰もお茶もジュースも口にせず。口を動かさない時間はほとんどなかったのではあるまいか。


 さて昨年新しくなったものは二つ。ひとつは原付。どうも調子がよくないなと思ってバイク屋に持って行くと、「よくこんなのに乗ってましたな」と呆れられた。タイヤを交換し、空気をいれ、何を何してほにゃららら(よく憶えておりません)。同じヤツかとびっくりするくらいの乗り心地である。ま、四十三の我が体も「よくこんなのに乗ってましたな」と言われるんだろうなあ。年末の飲みっぷりを思い出してリツゼンとする。


 もうひとつは手習い。文人画がらみの展覧会に行くことが多かった昨秋、画賛や書簡の読解能力が著しく低下しているのにこれまたリツゼンとする。学生の頃は一応読めていたはずなのに・・・こういうものはやはり日頃からの経験が重要なのだが、どうせなら書くほうも修業してみようと思い立った。


 といって別段お習字教室に通うわけではない。ひと通り道具を揃えて、お手本をせっせと臨書するだけのこと。ただし手本はうんと格式あるものを、と池大雅千字文と、王羲之の聖教序、それに青蓮院流=御家流の習字手本。これで鯨馬の人格も大雅なみに寛闊文雅になるはずである。どうぞご期待下さい。


 年末年始の本は次回で。今年も御贔屓の程をお願い申し上げます。


 つちのえいぬ初めの日に詠める
相づちのえゝ加減なる酒(さゝ)機嫌 鬼のいぬ間にこれ呑め椀碗 碧村

 

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我、乱世にあり~双魚書房通信(17) ~

小川剛生『兼好法師 徒然草に記されなかった真実』(中公新書

 

 中学校の教科書にさえ載るくらいの古典のことだから、作者に関してもう知られる限りのことは知られている、と誰しも思う(少なくとも評者はそう思っていた)。その思い込みを片っ端から粉砕してくれる快著。これほど衝撃的な新知見を、しかも盛りだくさん、啓蒙書で披露してもったいなくはないのだろうか・・・などと余計な心配をしたくなる。日本の中世文学に関する専門知識は必要ない。まっさらの素人(評者がそう)でも昂奮して読める一冊です。


 「京都吉田神社の神官を務めた吉田流卜部氏に生まれた出自、村上源氏一門である堀川家の家司となり、朝廷の神事に奉仕する下級公家の身分、堀川家を外戚とする後二条天皇の六位蔵人に抜擢され、五位の左兵衛佐に昇った経歴」を小川剛生は「造られた虚像」「出自や経歴はまったく信用できない」と小気味よく斬りすてる。


 断じるにはむろんそれだけの根拠がないといけない。社寺や公家の日記・記録などの記述を丹念におさえていることは専家として当然なのだろうが、評者には誰でも見ようと思えば見られる類いの資料を用いて鮮やかに読み解く=読み替える手際に感歎した。


 たとえば我々もなじんでいる「兼好法師」という呼びかた。兼好は七つの勅撰和歌集に十八首採られているが、その際の作者表記はすべて「兼好法師」。そして侍品(これは公家社会での身分秩序における最下層を意味する)以下の出家者は「凡僧」と呼ばれて「○○法師」と表記されるのだそうな。だから、五位の左兵衛佐になっていたのなら、「遁世しても必ずや俗名で表記されたはずである」。ナルホド。勅撰のような格式の高い集においてはこういう慣行は厳守されるだろうからな、と納得する。明快にして強力な論証。


 この例だけでなく一体に、鎌倉末期から南北朝の社会における常識・慣行のなかに対象を置いて見直していくのが小川さんの学風であるらしい。兼好の行動圏である六波羅周辺の住民層を検証して、「武士・宗教者・金融業者などがひしめく新興都市」と位置付け、そしてその空間のなかに是法なる法師の行動を追いかける所など。『徒然』百二十四段で賛美されるこの坊さんの、土地・金融取引の実態を跡づけた上で(「実に敏腕の経営者」)、「金融や不動産売買で巨万の富を得ようと、是法の信仰と矛盾することはない」。ナルホド。七百年前の都びとのメンタリティーがいきいきと伝わってくる。


 もっともこれは古典(にとどまらないか)文学研究の本道であるはずなのだけれど。殊に、個人の自我の発露や創意よりも伝統や秩序を重んじた中世社会にあっては、人の発想・行動には必ず倣うべき範型が存在する。和歌でいえば「本意」というところ。あるいはクルツィウス風にトポスと呼んでもいいだろう。「当時の社会では、自らは公的な場でどのように振る舞えばよいのか、相手に対してはどの程度の敬意を払えばよいのか―――すなわち書札礼、路頭礼といった作法を知ることが重要な教養であった。乱世であればあるほど、その後の復原力もまた強く働いた」。最後の一句は史眼の冴えを示している。


 詳密な伝記の再検討でありながら、作品の読みにあらたな角度を提供しているのも、優れた研究である証拠。兼好さんは「何事も古き世のみぞ慕はしき」、と内裏のくまぐまをほとんど恍惚として賛美している。過去の栄光の回想、という通説を著者はここでも退ける。兼好が実際に目にしたのは官庁御殿が連なる大内裏ではなく、「里内裏」(洛中の廷臣の邸を借り受ける)だったと指摘するのである。ナルホド。これだと、目の当たりにしているごく標準的な調度に「これこそ内裏!」とコーフンしているミーハーの姿が浮かんでくるわけだ。


 当時は、内裏に一般住民が入り込むこともふつうだったらしい。殿上人などは狩衣で儀式に臨むな、という禁令が紹介されている。略装だと公家が群衆に紛れてしまうのである。「我先争って紫宸殿に昇り、禁廷を埋め尽くす見物人の存在が前提となっている」というから可笑しい。そして、「兼好の内裏へ抱いた憧憬は、この日に内裏につめかけた住民のそれと違いのあるものではなかった」。


 この兼好像はすこぶる清新。この男の手になるものとしてあらためてあの本を思い浮かべてみよう。なにやら斜に構えた隠者の独り言はやがて音を潜め、かわっていかにも「町のひと」らしい好奇心と身ごなしの軽さと、少なからぬ軽佻さとが横溢するシャープなエッセイという姿がせり出してくるようである。かの有名な小林秀雄の文章(これも教科書の定番だったものだ)の、思わせぶりが阿呆らしくなる。

 乱世でありながら活気に満ち、下剋上が横行しながら伝統が賛美されるケッタイな時代を生きた、これまた矛盾だらけのケッタイなやつがものした一代の奇書。本来『徒然草』は教科書になんぞ採るべきではない、じつに愉快な読み物なのだった。

 

兼好法師 - 徒然草に記されなかった真実 (中公新書)

兼好法師 - 徒然草に記されなかった真実 (中公新書)

 

 

 

 

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皇帝的鮑

 シェアキッチン「ヒトトバ」での“一日だけの料理屋”「蜃景楼」二回目はコース形式。使い慣れない(そして狭い)調理場だから、作る方・食べる方双方にとってこのやりかたがいいようである。

 「舌尖上的変人合作」なるUさん手書きの献立を写し、いささかの注記を付ける。

○老酒汁三海味・・・十年物の老酒に、甘海老・槍烏賊・海月の三種を漬けたもの。香辛料も何も使っていない、とのこと。それでこれだけの味が出るから不思議。
○変人合作前菜・・・意味は分かりますね(鯨馬もこれだけは分かった)。内容は、生鮭を酢と山椒に漬けたもの、シューヨ(香港式焼き豚)、鶏の燻製(骨を綺麗に抜いてある)、中国風ピクルス、皮蛋豆腐(黄身は潰してソースに、白身は刻んで豆腐に載せる。豆腐は万願寺唐辛子を練り込んだもの)、レバーペーストをシュー生地に挟んだもの
○仁修一碗天香・・・要は湯(スープ)なのだが、これが凄いことになっている。皆様ご存じのシャンタン(上湯、上等の素材で引いたスープ)、あれをベースにして引いた湯がある。日本酒でいうところの貴醸酒の如し。これをティンタン(頂湯)という。この日供されたのは、更にそのティンタンをベースにして引いたもので、なんでもチントンシャンとかいって、おそろしく手のかかるものであるらしい。この上にはもうトテチントテチンというのとチリトテチンというクラスしか無いと聞いた。鼈と金華ハムと棗が入っていたのは憶えている。蒸して引いたものだから清澄きわまる。そのくせに、全身の細胞に染みわたって賦活するのが感じられるくらい深い味。酒(ワイン)は一時よして、香りと味わいとの交響に耳をすませることになる。
○燻魚牛蒡春捲・・・これも分かりやすい。鯖の燻製(玄米茶で燻す)と水菜を巻いたものを、牛蒡のペーストに付けて食べる。牛蒡は生姜と炒めて、スープで煮込んでからすりつぶす。「こんな手間のかかるもの、普段は中々出せません」と敬士郎さんが苦笑していた。
○蠔皇乾隆干鮑・・・干し鮑の煮込み。一切れを噛みしめると、いつまでもいつまでも旨味が湧いてくる。これはワインより老酒でやりたかったな。料理名になぜ清朝最盛期の皇帝の名があるのか。満州族と漢族との融和を図って両方の料理を一緒に出した(これが所謂満漢全席)。その趣向を取って山と海の珍味を取り合わせた料理に「乾隆」の名を冠するようになった、とUさんが説明してくれた(鮑の他、小芋と鶏手羽に糯を詰めたものが入っている)。料理に皇帝の名が付くところがいかにもあの国らしくて愉快である。本朝でも、天武鍋とか白河和えとか後醍醐焼きとかいった料理があったら面白いのに。
○甜醤香煎鴨甫・・・鴨ロースの焼き物。バターナッツのペーストを下に敷いて。ソースは甘味噌。添えられたルッコラがいいアクセントになっている。
○大閘蟹粉湯包・・・上海蟹の身をほぐしたのを具にした饅頭を餡かけにしたもの。餡にも上等のスープが使ってある。
○泡辣鯛魚麺線・・・煮込み麺。鯛を何匹も煮込みに煮込んでとった出汁だから、一口啜ると、鯛の香りがもわわわわ~んと広がる。香菜との相性は抜群。
○精彩美味点心・・・デザート。なんだったか記憶にございません。


 中華ばかりは素人では無理。「蜃景楼」に行ってもそう痛感させられたし、また後日南條竹則『飽食終日宴会奇譚』(日本経済新聞出版社)という、これまたスゴい本を読んでいよいよその感を深くしたのだが、一方でこれは和食でも活かせるんじゃないか、と思ったこともある。出汁を蒸して引くのもそうだし、卵を黄身と白身に分けて使うのもそう。造りに山椒を使うというのも、少なくとも当方の発想にはなかった。

 もっともスープを引いた壺はUさんの自作(丹波の窯で焼いてるそうな)。こればかりはどうしようもない。

 

 いい気分のままに、折角だから漢文口調での感想を作った。韻も平仄もなってないけど。


 甲南易牙聚/招牌老饕會/盡珍饌佳肴/上善宛如水

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懐石ごっこ

 十連休ながら、旅には出ず。それどころか、外に食事しにいくこともほとんど無し。敬士郎さんと五軒はしご酒したくらい。いつも遊んでくれてありがとう、敬士郎さん!

 その代わり、市場やデパートにはよく行った。毎日旨そうな食材を買って帰り、好きなように料理して食べる。不思議なもので明日も明後日もしあさっても休みだと思うとかえって夜更かしする気にもなれず、おかげで朝は気持ちよく目覚め、掃除洗濯を済ませると浮き浮きと買い物に出かける、というサイクルを繰り返して、連日鴨だの河豚だの買っていたら、結局旅に出るのとそう変わらない出費となっておった。

 最後は懐石「ごっこ」。大阪に出た折、会津の塗り物の展示を見た。塗りの風合いはまあまあ気に入ったというところ。しかし五椀が組みものになっていて、そのまま「一汁三菜(+1)」の膳立てとなる所が面白くて買ってしまう。この形を活かすには懐石しか無いだろうという訳で・・・というより、懐石を作ってみたかったから買ったのだろう。ともあれ、この日も市場やデパ地下をうろうろ物色したあげく、決まった献立は以下の如し。

○飯・汁・香の物・・・飯は熟ましていない、いわゆる「べちゃ飯」を杓子でひとすくい、一文字型に盛る。汁は胡麻豆腐・ひじき・蕪菜の白味噌仕立て。とき辛子を胡麻豆腐の上にぽとり。本来はここに向付が載るところ。これは酒肴においといて、代わりに昨年付漬けた沢庵。ふだんは飯なんぞ食わないが、「ごっこ」は真面目にせねば面白くない。これを食べ終わると、一旦器を洗って、もう一度。
○椀盛・・・汁が白味噌だったので、こちらは清汁。実には鴨の抱き身を大へぎにしたもの・椎茸(干し椎茸をもどして使う)・蕪(聖護院かぶらの間引菜だから、ごく小さい)・芹(ゆがいておく)・京人参(これもゆがいて)・滑子、吸い口にへぎ柚子。
○向付・・・紅葉鯛昆布〆加減酢(かぼすと、淡口・濃口醤油を合わせる)・蒸し鮑共酢(肝を擂って、山葵醤油と混ぜる)、あしらいには坂本菊(ゆがいてさらした後、三杯酢に浸けてしぼる。こちらの加減酢は米酢・煮切り酒・淡口)。
○煮物・・・焼き穴子・海老芋・牛蒡・京人参。仕上げに柚子を擂ってちらす。
○焼き物・・・真魚鰹幽庵焼(酒・味醂・濃口に酢橘をしぼり入れる)
○八寸・・・というには少々手がこみすぎているが、「海」には柚釜仕立(生雲丹と滑子)、「山」として白和え(干し柿・菊菜・椎の実・木耳)。

 懐石盆(これも買うた)に椀盛以下を盛り付けた方が無論見栄えはするのだが、やはりいつもしているように、ひと品出して酒を呑み、酒が尽きかけたら次の品に取りかかるというやり方が旨く食える。熱いものは熱いうちに、冷たいものは少しでも冷たいうちに、というのが一等大事なんだと実感した。ま、そう言いながらもご機嫌に剣菱の瑞祥を五合やっていたのです。

 読書のはかがいったことは言うまでもない。逆に勤め人の身でしかも本好き、という状況でさいわいに生活から書を廃せずやってこれたものだと思う。外で呑んでなけりゃもっと読めてたんだろうなあ。しかしそれだと早死にしていただろうなあ、と我が人生を振り返る。

 さて休みのあいだに読んだ本。

○チャイナ・ミエヴィル『オクトーバー 物語ロシア革命』(松本剛史訳、筑摩書房)・・・『都市と都市』『クラーケン』を書いた、あのミエヴィルです。SFに非ず。大学院ではマルクス主義の立場から国際法を考察した論文を書いたほどの左派である由。序文で中立であろうとはしていない、と公言するとおり叙述の調子にボルシェヴィキ贔屓は紛れもない。当方は別段保守反動という人間ではありませんが、ケレンスキーが気の毒で仕方なかった。ミエヴィルの冷淡な扱いというより、どう動いても右から左からクサされる損な役回りになってしまったことをいうのである。書名のとおり、十月革命「まで」の本なのだが、巻末の人名リストで「スターリン統治下で処刑」が延々続くのには参った。それにしても、レーニンて無茶苦茶な人間やな。
○桑野隆監修・若林悠著『風刺画とアネクドートが描いたロシア革命』(現代書館)・・・アネクドートとはロシア革命ソ連時代に作られた政治ジョークのこと。ボルヘスは「ボードレールは検閲があったからいいものを書けた」と言った。暗鬱苛烈な体制がジョークを産むということか。プーチンやトランプでアネクドートは作れても、安倍首相では作れそうもない。幸か不幸か。ま、それはさておきこの本、読みどころは風刺画・アネクドートではなく、著者による十月革命「それから」の語りである。言うまでもなくそれはスターリンの権力闘争と独裁・粛清時代。「文字通りに全世界を敵に回して戦った」トロツキーの肖像がよい。これもまたレーニン並みにケッタイなやつではあった。光文社の新訳文庫からもリードの『世界を揺るがした十日間』出るらしいから次に読んでみよう。
○オットー・D・トリシャス『トーキョー・レコード 軍国日本特派員日記』上下(鈴木廣之・洲之内啓子訳、中公文庫)
○勝又基『親孝行の江戸文化』(笠間書院
○クレイグ・クルナス『図像だらけの中国 明代のヴィジュアル・カルチャー』(国書刊行会
○ジョルジュ・ルフェーヴル『1789年 フランス革命序説』(高橋幸八郎他訳、岩波文庫
○ヤン・コット『シェイクスピアカーニヴァル』(高山宏訳、ちくま学芸文庫
松木武彦『人はなぜ戦うのか』(中公文庫)
デイヴィッド・ロッジ『起きようとしない男 その他の短篇』(高儀進訳、白水社
○渡辺憲司『江戸遊里の記憶 苦界残影考』(ゆまに書房
ダニエル・デフォー『ペストの記憶』(「英国十八世紀文学叢書」、武田将明訳、研究社出版)・・・フィクションでは今回の白眉。中公文庫版(『ペスト』、平井正穂訳)は格調高い名訳だと思うが、詳密を極める新訳で読むと、疫病の猛威が一段とすさまじく迫ってくる。デフォーの平明な、ジャーナリスティックな文体でないとこの迫力は出ないんだろうな。
○植村和秀『折口信夫 日本の保守主義者』(中公新書)・・・何を言いたいんだか(「折口は保守主義者だった」ということなんだろうか)なんだかよくわからん本だったが、巻末の新編折口全集はこの順番で読め!というチャートが役に立つ。
○高正晴子『朝鮮通信使をもてなした料理 饗応と食文化の交流』(明石書店
ボルヘス『語るボルヘス』(木村榮一訳、岩波文庫
○井上亮『天皇の戦争宝庫 知られざる皇居の靖国「御府」』(ちくま新書
○西川祐子『古都の占領 生活史からみる京都1945-1952』(平凡社)・・・この本もよい。
○櫻井正一郎『京都学派酔故伝』(学術選書、京都大学学術出版会)
苅部直『日本思想史への道案内』(NTT出版)
小玉武『美酒と黄昏』(幻戯書房
川本三郎・樋口進(写真)『小説家たちの休日 昭和文壇実録』(文藝春秋

 


 今回もディケンズは読めなかった。

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鶉が叫んで冬が来る

 山鶉(ペルドローグリ)が熟成しましたと知らせをもらって「MuogOT」へ。一年ぶりだな、うずらちゃん。リヨン風ソーセージもサラダも旨かったけど、やはりこの日の主役だけあって、山鶉は見事な仕上がり。ももはコンフィしてから炙り、胸はそのままロースト。細かい肉はフォアグラを混ぜて蒸し焼きに。土鍋の中にはアラで取ったスープで炊いたリゾット。てっちりだって最後の雑炊に味の粋が集まるように、このリゾットも身をくねりたくなるような旨さでした。土の香りと葡萄酒の香りがする肉は言うまでも無し。それより驚倒したのは肝・心臓・砂肝(串焼きにしてある)だった。トリのキモに驚倒とはまた大袈裟な。いえ、誇張に非ず。内臓だから無論苦いのだが、その苦さがおっそろしく気品に富んだもので、山深いために春のおとずれも未だ知らない庵の松の戸に雪の玉水がしたたり落ちる、という風情であった(式子内親王は鶉の肝が好物だったのではないか)。神戸牛のシャトーブリアンがこようが黒鮪の大トロがこようが、少なくとも凜然たる気配においては敵うものではない。内臓ばかりの鶉ちうのはどこかにいないものか。「ひとつとりふたつとりては焼いて喰ふうづらなくなる深草の里」(蜀山人)。前田さんのジビエ料理を食べると冬到来、という実感が湧いてくる。次は年末に鳩を料ってもらうことにする。※ワインではハイリゲンスタインの二〇〇三年というリースリングが良かった。


 その前田さん。鶉の状態を説明するのに「このコ」「このコ」と言う。その口調ととろけんばかりの表情がじつに可笑しい。スティングやクイーンの歌を口ずさみながら「このコ」の羽を毟っていたと聞くと尚更可笑しい。なんでも「弾の当たり所が良かったので内臓が綺麗にのこった」とのこと。


 鶉にしたらどこに当たったとて当たり所が悪かったには違いない。


 それにしても、死してなお「熟成」が求められるとは、このペルドロー氏、余程因果な宿世を負っていたものと見える。当方などは四十年生きてみて、毛ほども成熟したおぼえがない。これが死んだら多少はマシになるのであろうか。一年ほど経って遺族うちそろって開「棺」式をば執り行う。

 「あら、お義父さんたらすっかり脂気が抜けちゃって」「おじいちゃんの内臓、とろっとろだね」「軒に逆さに吊っておいてもう少し放っといたらええのとちがうかしらん」「心臓の串焼きはジャンケンで勝った人のもん、ちうことらしいで」


 なんだかゾクゾクして参りましたので、読書メモはまた次回ということで・・・

 

 感懐一首。

いのちあるものは熟成せざりけり皿のジビエのくれなゐぞ濃き

 

 

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