エーコの『テンペスト』双魚書房通信①

  正月は酒の相手に、U.エーコの新刊『バウドリーノ』上下を堪能した。小説2作目の『フーコーの振り子』、及び3作目の『前日島』はやたらと凝りすぎていてあまり楽しめなかったが、今回は違う。世界を驚かせた『薔薇の名前』の昂奮が存分に味わえる。刊行されて少し時間がたってしまったが、書評ブログの一回目に紹介するにふさわしい名品。翻訳も上々。
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  イタリア北部の都市テルドーナは、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世によって攻略されている。そのさなか、近在に住む少年は、ある夜「全身を鎧で固めた馬に乗った騎士」に出会った。どうみてもドイツ貴族のその騎士は、少年の家に一泊する。少年のお世辞(「皇帝はロンゴバルディアの唯一の真の君主」と聖バウドリーノが告げた)に気をよくし、かつその才気煥発の語り口(少年はドイツ語で騎士に語りかけ、ラテン語も解するのだ)に興がった騎士は、少年を皇帝の陣地に連れて行く。野営地に到着した二人に兵士達は最敬礼する。その「赤髭のお方」の名前は(イタリアでいうところの)フェデリコ。すなわちバルバロッサ(「赤い髭」)のあだ名を持つ神聖ローマ皇帝その人だったのだ。その少年バウドリーノにとってはまさに運命の一夜だったろう。彼はまもなく皇帝の養子となり世界を遍歴することになるのだから。
  しかし、その遍歴を簡潔に紹介するのはむつかしい。なにせその遍歴は文字通り世界(ひょっとすると異世界)じゅうに及ぶのだし、その運命は波瀾万丈という他ない路をたどるのだから。
 ただいえるのは神聖ローマ皇帝と牛飼いの息子である「グウタラのごくつぶし」との取り合わせ、そして世界中のあらゆる言語をいともたやすく習得できてしまう主人公という設定の妙である。こうして世俗権力の頂点と、虫けらのような底辺とが結びつき、中世ヨーロッパ世界の縦断図が、そしてポリグロットの登場によって国境や民族の差異をとっぱらった広闊な空間が、まるごと読者のまえに展開されることになる。まるで義太夫狂言の時代物のよう。
 バウドリーノが、皇帝との出会いから始めて数奇な半生を語る相手はビザンツ帝国の高官・歴史家のニケタス。彼らの周囲には煙の匂いと人々の叫び声が渦巻いている。いまビザンツは、第四回十字軍による劫略の最中なのだ(後にこの十字軍は、同じキリスト教徒を攻撃したことで教皇に破門された)。
 「世界一豊かで高貴な町」の宮廷人ニケタスと「日に焼けた顔」「農民の手」を持つバウドリーノの対話は、小説全体を象徴する情景といえるだろう。バウドリーノの故郷は皇帝フリードリヒに蹂躙され、今度はバウドリーノがコンスタンティノープルを侵略する側に回る(彼自身は略奪をとどめようと奮闘するのだが)。両者を含むキリスト教文明はエルサレムの支配権を巡ってサラセン人と対立し、そして後年主人公が赴く神秘の東方では、一本足族や首無族、サテュロスといった《人外》の者たちの連合軍が人間の白フン族と死闘を繰り広げることになる。つまりは文明と野蛮との終わりなき弁証法
 しかしこう書いたのでは、物語の骨格を、現代文明への批判の意図をもった単なる寓話へと矮小化してしまうおそれがある。作のそこここには、たしかに酸鼻な光景が展開される。しかし全体を貫く空気は明るい。天上的であるとさえ言っていい。
 それは一つには「未だ近代に汚されていない魂はみな気高い」(池澤夏樹の推薦文)という、いわば素材のしからしむる所でもあったろう。中世学者として令名高い作者がその素材を自家薬籠中としているのはいうまでもない。たとえば二十二章、バウドリーノの父親の臨終の場面。「だからおまえはアホなのじゃ」と息子を叱り飛ばし、「聖女みたいなおまえの母さんがいるぞ、くそばばあ」とつぶやき、げっぷして死んでゆくこの老人の肖像に、評者は笑いつつ思わず涙をこぼした。しかしそれだけではない。小説家としての技量の冴えもまた見事なものである。たとえば先に触れた、怪物たちの連合と白フン族との、アナストロフに終わる戦闘を記述するときの、プレストの速度。評者はここで何度も声をあげて笑った。まるで筒井康隆小林信彦の小説を読んでいるようである(とはつまり、エーコは四作目にしてこの二人の天才の水準に立ちならぶようになったということである)。ちなみにこうした怪物達たちの集う都の描写は、荒唐無稽といえばそうだが(しかしそれをいうなら、小説全体が「荒唐無稽」(ほめことばである)というしかないものである)、澁澤龍彦中野美代子の著作を好む読者にとっては親しい世界であるはずだ。
 物語の前半はバウドリーノのベアトリス皇妃に対する禁じられた愛(皇妃は継母に当たる)が、後半はフリードリヒ皇帝の密室殺人がそれぞれ小説の結構をなす上での大きな糸すじとなっている。前者には中世騎士道物語(それとも『クレーヴの奥方』?ひょっとすると光源氏藤壺への思慕?)の影が射している。後者の趣向については、処女作『薔薇の名前』で既に、推理小説の技巧を思うさまあやつってみせた作者のことだ、最後まで読者は翻弄されることになるだろう。
 『薔薇の名前』の名前が出たところで、しかし本作との重要な相違をぜひとも強調しておかねばなるまい。それは『薔薇』に笑いがほとんどなく、本作にはそれがふんだんにあるということである。奇妙なことである。前者は喜劇を論じたアリストテレスの失われた著作をめぐるミステリーで、キリストは笑ったかどうかについて登場人物は長大な議論を繰り広げるのに。
  これはエーコが作の構成と雰囲気の統一性を重んじたせいだろう。つまり、笑いによる色調の混乱を忌避したと考えられるのである。その結果、あの小説は、作中の舞台である大修道院の図書館のような、暗鬱にして見事に整然たる論理的構築の偉容をもって読書界を驚嘆させたわけだが、破天荒な興趣もしくは混沌の豊かさといった要素を犠牲にしたのはやむをえない仕儀だった。フランス古典劇の均斉と、こっそりいえば単調さに連想が向かう。
  その点『バウドリーノ』はシェイクスピアでいえば『あらし』に似ている。キャリバンのような怪物がうじゃうじゃでてくるからそういうのではない。プロスペロの宰領する超越的秩序、セバスティアンやトリンキュローが体現する世俗的雰囲気、そして愛すべきキャリバンやエアリアルといった異界の住人達と、いわば世界が重層的な構造で出来ていることに注目したいのである。だから色んな読み方が出来るし、また実際にそうしたくなるような仕上がりになっているのである。ここでもういっぺんいえば、人形浄瑠璃=歌舞伎の時代物はそういう風に作られていた。
 それを確認した上で、『バウドリーノ』には『妹背山婦女庭訓』や『仮名手本忠臣蔵』にはついにない、軽みもある、と指摘しなければならない。それは様々な言語に通暁し、かつその語り(騙り?)によって真実をつくりだしてしまうという特異な能力を具えた主人公の設定による所が大きい。バウドリーノの話をきいたニケタスは次のように思う。


 ニケタスは、獅子のごとき風貌の話し相手を見ながら、その繊細な表現力、文語的ともいえるギリシア語の抑制された修辞に感心していた。そしてあらためて、自分の前にいるのはいったいいかなる人物なのだろうと思った。同郷人のことを話すときは粗野な言葉を、君主のことを話すときは王宮の言葉を用いることができるこの男が。ニケタスは思った。さまざまな魂を表現するために自らの語りを調整できるこの人物の魂はひとつだけなのだろうか。もし彼がさまざまな魂をもつのなら、話すときにいったい誰の口を借りて、私に真実を言っているのだろうか。


「私」=ニケタスは「あなた」=読者である。すなわちエーコははにかみながら語り手としての自分の才をこのように自負している。そして私の見る限り、その自負はきわめて正当なものである。


バウドリーノ(上)

バウドリーノ(上)

バウドリーノ(下)

バウドリーノ(下)

薔薇の名前〈上〉

薔薇の名前〈上〉

薔薇の名前〈下〉

薔薇の名前〈下〉

西洋中世奇譚集成 東方の驚異 (講談社学術文庫)

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西洋中世奇譚集成 皇帝の閑暇 (講談社学術文庫)

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東方旅行記 (東洋文庫 (19))

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