序文について


 zoomで事前許諾も不要と知り、神戸大学国語国文学会のシンポジウムに参加してみた。『近世俗文芸の作者の〝姿勢〟[ポーズ]―序文を手掛かりとして』という。参加といっても、休みではなかったからデータ整理の作業を行いつつ議論を拝聴しただけ。この一文にしたって、ぼやっと繰り広げた連想を辿り返しただけのこと。なにか有用な議論を提起しようというわけではございません。あしからず。

 序文を手がかりに、というのが興味深い。現代の本、しかもフィクションで序文が付くことは滅多にないだろう。著者の遺稿に他者が成り立ちを説明する、というような例外的な形態くらいなものではないか。逆に大概序文を持つ本もある。学術書ですね。これに関して、

 本を読むときのひとつのコツ。序文は読むな。絶対つまらないから。
 
と助言したのは丸谷才一(『思考のレッスン』だったかな)。大読書家(そして大書評家)のアドヴァイスは有益なのですが(無論序文がつまらぬからといって書物自体の価値がはかれる・・・わけでもない)、不思議なのは同じ学者先生の書いた本でもあとがきは面白く読める場合が多いこと。序文の位置が晴れがましすぎる、喩えるなら書院付きの座敷であるのに対して、あとがきはやはり茶の間的にintimateな空間なのだろうか。世評高い『宮崎市定全集』の「自跋集」にしたって、宮﨑の豪宕闊達を以てしても序文として書かれたならあれだけ文章が生き生きしていただろうか。疑問に思う。

 えー話がずれましたが(そもそも本題はあるのか)、今普通の、というのは学問の専家でない読者が手に取る本の多くは序文を持たないことになる。

 ところが今回のシンポジウムが取り上げた近世(江戸時代)の本だと、序文有りなのがむしろ当り前である。中に序文、それも他人のがいくつもいくつも並んで、そのあとにまだ自分のが続いて(と書いたがいま手元で確かめようがない。間違ってたらごめんなさい)本文に辿り着くまでにへとへと、なんてものさえある。というのは筆の綾で、学者ならぬ人間は序文などまず読まないのだけど。

 このうち他序は元々唐山の伝統を踏襲したものだろうから措くとして、自序、殊に戯作の類いはさっき言った現代の有りようと対蹠的だから目を引く。現代と近世とは違うねやさかい違うててなんのけったいなことがある、と考えてはそれまでなので、たとえばもう一つ、西欧という軸を置いてみると話はだいぶんむつかしくなる。これまた丸谷才一が『世界批評大系』の解説として書いた「序文から批評へ」という文章で、マニーの言を引いて、自然主義以降の小説が序文を持たなくなった、というのは作者が序文を書かなくなったと指摘している。実際十八・十九世紀小説を読むと著者の長広舌がまず立ちはだかってたじろぐことが少なくない。私見では、小説の内容を要約したような長ったらしい副題(『パミラ』とか『ロビンソン・クルーソー』とかの表紙を見よ)も序文の一形態なのですが、ともあれ洋の東西を問わず、ある時期まで散文による虚構には序文が付いていた。

 丸谷がまず掲げるバルザックによる『人間喜劇』総序は、作者が堂々と登場して自作の動機を陳べ意義を宣揚する。馬琴の『八犬伝』なんかはさしづめこのタイプ。面白いのは、シンポジウムの報告でいくつか見られた、虚構としての《作者》が自序を記すという書き方。なんだか贈り物である本文を幾重にも幾重にもいろんな布地やら紐やらでいろんな包み方・結び方で包装して差し出されているみたいである。この場合包装は剥き捨てて構わない単なる飾りではないというところが肝腎。水引の掛け方や種類が内容そのものの格式を規定するが如し。つまるところ、本文はそれ自体で完結せず序文という枠でくくられてはじめて一乾坤を成すという世界観が根底にある、と見ることは出来ないだろうか。ある意味読者が属する《現実》から文芸の別天地へ招き入れる回転扉、プレテクストとして考えられるのではないか。思い出すのが『薔薇の名前』。中世美学の権威として有名なエーコは、十四世紀の修道院を舞台にした小説をものするにあたって作者の影を消すのに随分苦心したのではないか。

 そう見ると、最初に述べた、あとがき空間のいかにも自由な有りようが納得される。あそこは祭りが終わったあとの打ち上げで、ヴォルテージを上げる必要に迫られず、襟元や帯の崩れを気にすることもなく、いってみればオフ会のようなノリで本文について好きなようにダベることが出来るのである。疑う者は『グイン・サーガ』(ただし文庫版)のあとがきにおける狂騒ぶりを見よ。

 宣言通り、シンポジウムとは何ら関係のない空想となりました。

橋本治『人口島戦記 あるいは、ふしぎとぼくらはなにをしたらよいかのこども百科』(ホーム社)……連載を終えたあとも最後まで手を入れ続けていたという未完の大長篇小説。舞台となる架空都市・比良野市のおっそろしく詳密な地図(むろん作者自作)付き。登場人物の丁寧な一覧解説もあり。だからバルザック的にどっぷり「世界体験」・・・いやしかし、それよりもう二度と聞けないハシモト節を1400ページ(!)ぶん堪能するという使い方もありでしょう。橋本治は見えすぎるひとで、逆に小説となるとそれがずいぶん不器用というか荒っぽくなっちゃう傾きがあるから。『九十八歳になった私』(講談社)はその酔歩蹣跚ぶりが内容と絶妙に調和してよかったんだけど。
○エリアス・セレドン『コスタリカ伝説集』(山中和樹訳、国書刊行会
○ジュリアン・ジャクソン『シャルル・ドゴール伝』(北代美和子訳、白水社
○『川端茅舎全句集』(角川文庫)
○何敬堯『図説 台湾の妖怪伝説』(甄易言訳、原書房
地球の歩き方編集室『世界の中華料理図鑑』(地球の歩き方)……編者の名前をみてやや莫迦にしていたのですが(すいません!)、要領よく各地方の違いや名物などを紹介していて有益。手軽に調べがきくハンドブック。少なくともこれを片手にかの国を歩くより、そうした使い道が大きい、と思う。
○ピエール・アド『ウィトゲンシュタインと言語の限界』(合田正人訳、講談社
沓掛良彦大田南畝』(日本評伝選、ミネルヴァ書房)……ホメロスの『讃歌』やピエール・ルイスの訳者としての枯骨散人は尊敬してきたが、フォローする気力が失せてきた。沓掛先生、察するに、とうに《書きたいもの》《書かねばならないこと》が無くなってしまったのではないか。著者自身が面白いと思っていないような対象(本当に面白いかどうかはどうでもよい)について書かれた本、誰が読みたいと思うだろうか。南畝にしたって、文芸を遊びと心得ているからこその優雅と憂愁に惹かれたはずなのに、どうも「魂の叫び」的な文学観が鼻につく。それに従えば南畝の狂歌・狂詩はただただふざけちらしただけということになるのだ。
井上靖『歴史というもの』(中央公論新社
仲正昌樹『哲学JAM[白版]』(共和国)
ジョージ・オーウェル全体主義の誘惑』(照屋佳男訳、中央公論新社)……訳者の序文が愉快である。中国共産党やPCを批判してるのは大いに結構として、その口ぶり(レトリックというには芸が無い)がいかにもオーウェルが批難するところの反知性主義的な揚言に近づいている。
高田衛滝沢馬琴』(日本評伝選、ミネルヴァ書房)……前項で書いた、東洋文庫『羈旅漫録』に関連して。高田先生一流の力技(ワルクチに非ず)が、「家の業」としての戯作執筆という生き方を浮かび上がらせる。馬琴実はまともに読んでないんだよなあ。寝っ転がって読めるテキストが少なくてねえ。
パスカルキニャール『楽園のおもかげ』(パスカルキニャールコレクション 最後の王国4、水声社
川島昭夫『植物園の世紀 イギリス帝国の植物政策』(共和国)
○アレッサンドロ・マルツォ・マーニョ『初めて書籍を作った男 アルド・マヌーツィオの生涯』(清水由貴子訳、柏書房
○鈴木董編『帝国の崩壊 歴史上の超大国はなぜ滅びたのか』上下(山川出版社
○平山周吉『満洲国グランドホテル』(芸術新聞社)……この著者には初見参。まさしく《グランドホテル》方式で、かの奇っ怪な人工国家にゆかりの人物たちを花やかに出し入れしてみせる。石原莞爾がもう少し天才肌ではなく(天才と言ってるのではない)、二枚腰で粘り強く国家の経営に取り組んでいたら、そして支那戦線を早く放棄していたら、と虚しい空想に一時ふけってしまった。
○シモン・マリン『隠れたがる自然 量子物理学と実在』(佐々木光俊訳、白楊社)
○クリストファー・デ・ハメル『中世の写本ができるまで』(加藤磨珠枝他訳、白水社
○『ホフマン小説集成』上下(石川道雄訳、国書刊行会)……『黄金寳壺』は岩波文庫のなかでも大事な一冊。この人の訳文がまとめて読めるのはまことに嬉しい。国書刊行会に敬礼っ。
津野海太郎『かれが最後に書いた本』(新潮社)……こういう飄逸ぶりならいいのだ。老年ならではの文章。
○英語教育研究会近畿大学ゾンビ研究所制作『極限状態から学ぶ!ゾンビ英単語   この英単語&英会話で生き残れ』(受験研究社)……ゾンビ関連の書籍をチェックしているなかで発見。非常によく考えられた構成で、単語集として秀逸なのでは。あ、ゾンビものならではの単語がちりばめられているので、単なるゾンビフリークも充分愉しめます。
鹿島茂『パンセ パスカル』(NHK「100de名著」ブックス、NHK出版)……『パンセ』を人生相談に仕立てるという鹿島茂にしか切り込めないパスカル案内。もちろん鹿島茂のことだから、下調べもしっかり。
○鈴木創士『もぐら草子 古今東西文学雑記』(現代思潮新社)……これが神戸新聞の連載だったのか。なかなか懐広いなあの地方紙。
ジーン・リース『あの人たちが本を焼いた日 ジーン・リース短篇集』(ブックスならんですわる、西崎憲訳、亜紀書房
○望月雅士『枢密院 近代日本の「奥の院」』(講談社現代新書)……枢密院=妖気濛濛と立ちこめる闇の組織というイメージがあった。ま、『エヴァ』のゼーレみたいに思ってたわけです。そのイメージが覆されることはなかったが、政党政治壊滅後は軍部に対する唯一の防波堤となりえたかもしれない、という指摘は昭和史を見直す上で有益。
○佃一輝『茶と日本人 二つの茶文化とこの国のかたち』(基礎から身につく大人の教養、世界文化社)……以下二冊は忘却散人ブログの記事によって知った。「国ぶり」のまねび、という視点からの体系的解読(と言いたい)が斬新。あれは洗練精緻を極めたごっこ遊びとも言えるのだな。
國學院大學日本文化研究所『歴史で読む国学』(ぺりかん社
○出村和彦『アウグスティヌス 「心」の哲学者』(岩波新書
○カルロ・ロヴェッリ『時間は存在しない』(富永星訳、NHK出版)……じつにエレガント。もう少しこの著者の本、読んでみようと思う。