鴨、ねぎにのる

 友達が「誕生日だから何か食わせろ」と言うので、『河内鴨 田ぶち』に連れて行った。この日はすき焼きのコース(冬はなべ物のコースのみ)。

 なんの店か知らせていなかったけど、先付に鴨の身を入れた茶わん蒸しが出たからこれでわかるかな、と思っていたところ「アンコウかな?」とのたまう。

 オマエみたいな味音痴とメシ食うのがつくづく嫌になったと毒づきながら酒を飲む。八寸は寄せ豆腐・砂肝と肝の醤油漬け・肝のパテ・ロース(長ネギを焼いたやつをくるんで食べる)。

 この後に焼き鴨(手羽元の身がぷりぷりして美味しい)が出て鍋、という段取り。仲居さんが鴨の脂でしっかり野菜を炒りつけてくれるのがうれしい。だぶだぶの割り下で煮るだけでは単なる煮物になってしまう。

 野菜はやはり芹がいちばん鴨に合っていると思うし、事実うまい。これあってこその鴨すき、などといいながら芹のお代わりを頼む。いっそのこと大盛りの芹と椎茸と鴨肉だけで提供なさったらいかがでしょう。

 どうも芹の話となると取り乱していけない(『舌鼓ところどころ』の吉田健一風)。

 相変わらずの大繁盛であるが、店員はみなきびきびして感じよし。雪見障子の入った座敷で、この鍋をつつきながら、ふと外を見ると細かい雪が降り続いているという眺めだったらなおのこといいのにな。

 せめて店を出たら一面の雪、とでもとかすかでもない希望をもって勘定を済ませる。

 ご承知のとおり、何十年ぶりかという大雪は関東のほうだけで、神戸は結局空に風花が舞う程度でおわってしまったから、多少がっくりはしたが、それでも酒で温もったからだに雪交じりの風が吹き付けてくるのは温暖な神戸では珍しいこと。寒さ好きにはいうまでもなく答えられない状況でした。

 もちょっと飲みたそうな顔の友人を連れてショットバーへ。ここも久しぶり。アカシねえさんとしょうへい君とも新年のあいさつを交わしてウイスキーを飲む。アカシは来週金沢に行くとやら。雪の金沢を想像すると、身も世もあらず(という使い方はおかしいけど)興奮してしまう。来週すっとんで行こうかしらん。


 ここで友人と別れ、仕上げに一人で『いたぎ家』へ向かう。気分をかえるために、アニさんがブログで書いていたレモン酒を一杯やってから酒に切り替え。『眞澄』など三種。ここはていねいな扱いをしてるので酒がおいしい。オトさんが、「もう少し暖かくなったら龍神村の実家から芹がとどく」というのでまたもやコーフンして、単に胡麻よごしや辛子和えにするだけじゃなく、鴨の脂身と炒め煮にしたらいいんじゃない、とアドバイスというよりか懇願しておきました。少し調子が出たところで別の店に。働いてる女の子が誕生日なのである。ふだん唄わないカラオケも付き合いとあれば致し方なし。こういう時、半端に遠慮したのではまわりが白けるので、咽喉も避けよと絶叫するのがコツである。案の定周囲はてんでに盛り上がっていて、からっ下手な歌なんぞ誰も聞いてはいない。

 で、翌日はうっすらとした二日酔いを玩びながら一日ごろごろ。おかげでいろいろ本を読めた。



*ランサム・リグズ『ハヤブサが守る家』・・・評判の本。写真と小説の「コラボ」(安手なことばで好みませんが)というので、ぱりっぱりの前衛小説だったらちと二日酔いにはきついなと心配しながら読んだが、前衛どころかニール・ゲイマン風王道伝奇小説でありました。多少馬鹿馬鹿しいところもあるが、それこそ霧雨でけむったようなアタマではちょうど良い。と書くと悪口になってしまうが。使われた写真はこの本のために撮られたものではないらしい。えらくブキミなものが多いが、まあそれだけに≪物語≫を紡ぎだすのは容易ともいえるわけである(例の「舞踏会へ向かう三人の農夫」を想起せよ)。この作家、ほかに読んだことはなく、こういう手を使わずに書いた作品を見てから贔屓になるか決めたいと思う。あ、やっぱり悪く言ってしまった。

*アリソン・フーヴァー・バートレット『本を愛しすぎた男 本泥棒と古書店探偵と愛書狂』・・・ノンフィクション。本好きとしては見過ごせない題名である。出来はいまひとつ。最近のノンフィクションの書き手(特にアメリカ)にありがちだが、対象との距離の取りかたが中途半端で、読んでいてひとつの世界にじっくり付き合った気にさせてもらえないのだ。スタイルも大味、というか素人ぽい。悪達者な文章も厭味なものだけど。本筋以外のエピソードにしても近頃多い古書ミステリーもののほうがよほど念入りな取材をしていると思う。というわけで、結局この本では「本」よりも「泥棒」の部分がいちばん興味深い。ギルキーという、自己中心的で(自分が欲しいものを手に入れられないのは「不公平」とする滅茶苦茶な「論理」)、破廉恥で(出獄のち、著者を伴って平気で盗んだ店に訪れる)、それでいてどこか非現実なキャラクターがにもかかわらず妙にリアルで、読み終わるとなんだかうすら寒い気分になる。やっぱり俺が小学校のときに駄菓子屋からチョコレートを万引きしたり(今はしてません)、中学生のときにエロ本やCDを万引きしたり(今はしてません)するのとは違うものだなあ、とくだらない感想。

上野修『哲学者たちのワンダーランド 様相の十七世紀』・・・著者は大阪大学の哲学教授。ではありますが、めっぽう読みやすくまたじつに面白い。デカルトスピノザホッブズ、そしてライプニッツとくると、たしかに十七世紀がある意味哲学の黄金時代だったと納得させられる。しかも著者の切り口によれば、はじめの三人がそれぞれの仕方で世界の底が抜け、深い深淵が横たわっているという認識を提出し、最後のライプニッツが「世界の修復」に大わらわになったという図式が見えてくるのである。ぞくぞくしちゃうじゃありませんか!スピノザマキャベリズムやライプニッツの無限収束に関する解釈も興味深いけど、従来社会思想史的にとらえられがちなホッブズの「リヴァイアサン」論の哲学史的再検討が圧巻。ホッブズその人がリヴァイアサン的怪物だったのではないか、と思えてくる。

*アラン・ブレイ『同性愛の社会史』・・・副題は「イギリス・ルネサンス」。ジェームズ1世という王様についての本を何冊か読んでいるうちにここにたどり着いた。同性愛は悪魔も嫌忌していた、というのが面白い。著者の解釈によると、デモノロジー(悪魔学)はキリスト教カトリック)神学のいわば陰画として成立したために、神の作った秩序には含まれない同性愛はすなわち悪魔の世界にも存在しないと考えられたため、とのこと。ナルホド。もっとルネサンス期のイングランド宮廷におけるエピソードの紹介が欲しかったが、同時代の資料(たとえば諷刺詩)における同性愛への言及が必ずしもその盛行を示すものではないことを、諷刺詩そのものの伝統的あり方に考慮しつつ指摘しているあたり、史的研究の精髄が見えてそういう意味でも興味深い。これが日本の江戸時代になると『男色大鑑』(西鶴)になっちゃうんだからなあ。

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