双魚書房通信・二〇一四年回顧(4)

 年を越したら前厄というのに、あんな没義道な仕打ちをしてくれる店で終わったのでは、いかにも幸先が悪いというもの。気を取り直してふたたび北野の『城助』さんへ。あん肝(そこここで出されるあん肝たぁ、あんの肝が違わい、といいたくなる品)はじめアテが七種類、白身を柱に寿司が十二、三貫、これに酒が六本で一万八千円。某店(もう一回だけ言わせて下さい。あの品で六千円です)に比べて、むしろ安く感じたくらいである。店主の対応に色々意見があるようだけど、どうでしょうか。単に自分が出したい鮨を一途に考えてやってきたというだけではないかね。むろん若さ故の瑕はなしとせず。それを見守ってゆくのも客の仕事である、なんぞといっぱしの口をきいておる。

 すさを塗り込めた折り上げの土壁(カウンターの向かい、店主が仕事をしている後ろ一面に広がっている)が綺麗だ、とほめるととってもいい笑顔で応えてくれた。鮨やに来て造作を褒めるというのも気の利かない話ではあるが。

 ともあれこれで充分以上にゲン直しが出来た。気持ちよく新年を迎えられそうな、と調子に乗っている場合ではないな。今年はほんとにいい本に恵まれた一年だった。双魚書房通信でもいくつかご紹介したが、まだまだ残っているのでありました。ただこちらも一家を構える身。大掃除(水槽の掃除もあるのですな)やら年末の買い出しやらで用事の無いわけではない。粗略な扱いを筆者・訳者ご一同さまにお詫びした上で、駆け足で並べてみます。

山崎正一串田孫一『悪魔と裏切者 ―ルソーとヒューム』(ちくま学芸文庫)…“天使のごとき”ヒュームと“野獣”ルソーの織りなす葛藤劇、は表現がぬるいな、大げんか。哲学にまったく興味のない人でも愉しめます。たしか林達夫が初版の書評を書いてたはず。

中井久夫訳『リッツォス詩選集』(作品社)…中井先生のあたらしい訳詩集がまだ読めるなんて!リッツォスは現代ギリシャの代表的な詩人の一人。ただしおなじくギリシャのカヴァフィス(こちらはギリシャといわず、二十世紀屈指の大詩人)とは対照的で、カヴァフィスが劇的構成と神話性を以て鳴る詩匠なら、こちらはむしろ小太刀の冴えが特色。カヴァフィス=唐詩・リッツォス=宋詩という見立ても可能なのではないか。短いのを一篇引いておく。「四つの窓は韻を踏んだ四行詩。/海と空が韻を踏んで部屋の中に吊るされている。/ヒナゲシは夏の手首にはまった腕時計。/正午を告げる時計だ。/太陽はきみを追って髪をつかみ、/きみを光と風の中に宙吊りにする。(『夏』」

エリザベス・シューエル(高山宏訳)『オルフェウスの声 詩とナチュラル・ヒストリー』(白水社)…高山さんが惚れぬいた怪物的学者の代表作。ベーコンとリンネとワーズワースリルケが一筋の線(細くてしかも強靱な線)でつながれる文学史っておもしろそうでしょ?

◎ヨセフ・ハイーム・イエルシャルミ(小森謙一郎訳)『フロイトモーセ 終わりのあるユダヤ教と終わりのないユダヤ教』(岩波書店)…フロイト自身はヘブライズムに対してかなり微妙な態度をとりつづけていたが、ユダヤ史の専門家であるイェルシャルミは、かなりきわどい手続きで「ユダヤフロイト」と「変形されたユダヤ教としての精神分析」という像をあぶりだす、というか幻出させてみせる。徹底して啓蒙思想の嫡出子としての面に注目したピーター・ゲイの評伝(『神なきユダヤ人』)(名著である)と、イエルシャルミの本に丁寧かつ犀利に批判を加えたエドワード・サイードの『フロイトと非−ヨーロッパ人』を横において読むべき本。

 それでは皆様、よいお年をお迎えください。