コードネームは「椿」。

聞くならく、沙漠の神、火山の神であるヤハウェは、怒りの神・嫉みの神・裁きの神なりと。その祟りでもあろうか。



エス生誕の前夜に、愛妻と二人、agnus dei、すなわち「神の子羊」に引っかけてラムのリブをローストし(ニンニクをたっぷりなすりつけて、タイムで香りづけ)、『マタイ受難曲』を大音量でかけながら(しかも、盤こそあれ、かの峻厳極まるカール・リヒターのもの)、「神の血」たる赤ワイン(ローヌの、いささか荒いやつ)をがぶがぶやっていたのがヤハウェの怒りをかったのであろうか。



そもそも一軒目で断られた後、やけのやんぱち的に入った店に碌なとこがないことは、何度も痛い目にあってわかっていたはずなのだが、せっかく三宮まで出た以上、どこかで旨いものを食っていこうと考えてしまうのが俗物の浅ましさ。



その店はひっそりと路地を折れた鼻先、事務所のようなビルを二階に上がる。看板の雰囲気は悪くない、その上、前日しこたま葡萄酒をやってしまったものだから、今晩は和食ときめていたので、むろん初めての店ながらふらりと入ったのであった。



事務所というか、アパートを改装したような小作りな構え。他に客はおらず、カウンターキッチンの端っこに通してもらう。さて酒の肴は何々ぞ。金柑蜜煮・堀川牛蒡のなんとやら・生麩田楽といった品が献立に並び、コース(たしか「懐石」と謳っておった)に「祇園」だの「東山」だのという名前が冠せられていたから、おそらく京料理で修行してきた人なのであろう。


「本日のおすすめ」を書いた黒板から「鱈の雲子」を注文するに、「本日は切らしております」との御返答。驚愕のあまりのけぞりそうになる(もう一度記せば、他に客はおらず、「おすすめ」メニューに書いてあり、しかも入ったのは六時過ぎなのである)我が背骨を懸命になだめつつ、では剣先烏賊を代わりに、というと、いったん引っ込んだ(といってもワンルームマンションのごとき仕立てであるからして、ダイニングキッチンに目隠しをしたという程度)御主人が重々しく告げるには、「本日は烏賊があまりよくありませんので(もう一度だけ書きますけど、「おすすめ」黒板のいちばん上に「剣先烏賊」、と出ているのであります)・・・」で、どないなんじゃい。他はなにがあるのでございましょうか。「マグロとサーモン(サーモン!)とホタテ」と来た。わしゃ北海道料理のチェーン店に入ったのでしたかな。ホタテもサーモン(サーモンですってよ、奥さん!)も苦手なので鮪とやらを注文する。この時点ですでに人間としての誇り乃至意地の水準の問題になっていることを読者はよろしく察していただきたい。


ジャズらしい音楽が静かに、そうまことに静かに流れる(静けさと清らかな水とうつくしいことばとを人生の三楽に算えたのは奥本大三郎大人であった)中、しずしずと運ばれてきたのは、ああこれこそ野鄙なる江戸料理を別次元に見下し、雑駁なる大「坂」料理とも一線を画すところの、伝統一千年、日本文化の精粋たる京料理の神髄、心を奪い、目にもあやな小細工で・・・当方が「最後の晩餐」を食しにきた入れ歯老人と見えたとおぼしく、サイコロ状―というのは形だけでなく大きさも含むのだが―の肉片がちまちまと並んでいる。むろん京料理は日本文化の華であるからして、山葵はすりたて。


ようやくありつけた鮪に関して、味などを論うのは、東海の君子国の男児たるものの能くするところではない。こちらにも最低限の礼節というものがあるからな。ただただ恐懼して頂戴するばかりであった。




まあ、一週間から十日以前は爆弾低気圧で海は大荒れだったらしいから、鮮魚に事欠くのは致し方なし。渾身の力でもって「車海老と本占地土瓶」を誂えた。





土瓶が来た。(前にも一回やったが、ここは森鴎外ばりの文体でないと調子が出ない)



千円以下の値段であるからして、才巻一尾がまるまる入っているとは期待していなかったが、その綺麗に結ばれた半分(下半身の方)の身の固いこと。人食いバクテリアだのノロウイルスだのが流行っているからには、なるほどここまで衛生を考えなくてはならないというものである。ここまで徹底して火を入れるのであるから、別に車海老でなくとも、バナメイエビでもブラックタイガーでも良さそうに思うが、それはものの味を弁えぬ浪花贅六の僻みなのであろう。ちなみに海老・占地のあしらいは白葱。といっても白いところではなく、あえて青いところのみを切って入れているのが、ああこれぞ日本文化の精粋たる・・・もういいですかね。葱に焼き目は無し。





ここらで卓をひっくり返して出るのが客の礼儀ではあろうが、野蛮人はなんだか面白くなってきちゃったのですな。調子に乗ってもうひと品注文してしまった。もっとも吉田兼好氏は「気違いのふりをしてなりきった者は本質として気違いに等しい」と言っておられる。悪趣味を衒う者は、粋の極みなんかではなく単に悪趣味なのである。





もう少し悪趣味な文章にお付き合い願いたい。何はなくとも御酒一献。「秋鹿」は忠実無比の味で(とはつまり「秋鹿」を呑んだら「秋鹿」の味がする、ということだ)、これを頼りに「甘鯛かぜ干し」(か「ざ」干しの誤記にあらず)を指さしてみる。甘鯛というのは好きな魚で、むろん皮を引いて昆布締めにしたやつを細く料って加減酢をかけて出すなんて芸当は素人の手には負えないけれど、不細工に二つにしたままを酒蒸しにしたのだけでもずいぶん呑める。身の柔らかさはウリと言えばウリ、でも少し風に当てて引きしめたものだといっそうその芳脆が愉しめるからなあ。できれば酢橘、それも京料理らしく綺麗に飾り切りを入れた酢橘を添えてくれたらいいのだけれど。酢橘の酸味に合わせるなら、「秋鹿」は切り上げて熱燗に変えようかしらん。





いったん引っ込んだ御主人のたまはく、「本日は甘鯛は切らしております。」ですよねー。空気を読めないアタシが全部悪いんですよねー。「本日でしたら、鰆の味噌漬けの具合がよろしいです。」とな。それは、要するに二日前に仕入れたものの出なかった鰆を有効活用したということなのでありましょうか。





アタマの中ではリヒター指揮するところの『マタイ』ががんがん鳴り響いている。なにくそ、耶蘇邪宗門なんぞに屈してたまるものかと幻の甘鯛にかえて注文したのは「揚げ胡麻豆腐」。我ながら自分の頭の良さにうっとりする。なにせ、「揚げ」た「胡麻」の「豆腐」である。これならどうもこうも転びようがないではないか。「本日は切らしております。」のでない限り。





椀が来た。



胡麻豆腐はたしかに揚げてあった。それに餡がかかっていた。餡は甘味のきいた味付け(京料理ではこれを「こっくりした」味とかいうのであろう)。餡にはイクラ(わはは)と水菜がちらしてあった。水菜はやはり衛生面に最大限気配りをした火の通し方であった(わはは)。胡麻豆腐にイクラをあしらうとは実に斬新(惨新?)な趣向で、その生臭さの活かし方といったらない。驚きのあまり盃を取り上げる手が止まってしまったものだ。





勘定しめて六千円(酒三本を含む)。何年か前、新潟の裏町で入った飲み屋で土偶そっくりのネエチャンに相手された時以来のお値頃感である。いや、京料理の精粋を学ばせて頂いた授業料と思えば、どうってことはないのかもしれぬ。出がけに、惨めな客を憐れんだのか、御主人のいわく、「ウチは予約が99%なんです」。エウレーカ!そっか、あらかじめ言っておけば車海老も水菜もぱっさぱさのくったくたに煮込まれず、胡麻豆腐にイクラを掛けられることもなかったのだ。我ながら迂闊なことではあった。




その後で行った店の「和風ハンバーグ(大葉と蓮根のみじん切りが入ってる)」と出し巻き、のどぐろの塩焼き(半身をたっぷり。アタマの部分が濃厚で芳醇で)、おでんが、じゅうじゅうと音を立てて喉を通るように思われたくらい、おいしかった。




タイトルの意味。椿の一品種が店名であります。茶花として好まれることで有名な、あれです。茶人(「変わったことを好む人。一風変わった物好き」by広辞苑)を自認されるあなた、ぜひトアロード脇のこの店に見参なされよ。



※注記。『Hanako』の「関西おいしい店グランプリ」に出ているようである。今までてんでバカにしてた雑誌だったが、読者にはよほど茶人が多いと見える。愛読者になれそうである。
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