双魚書房通信(20)~少年は歴史を動かした 『エドガルド・モルターラ誘拐事件』

 山本夏彦曰く、「人生は些事から成る」。とすれば歴史もまた些事により動く、と言ってよいかどうか。

 そうかも知れない、と本書を読み終えた人の多くは思うだろう。舞台は一九世紀のイタリアはボローニャ。ある夜、ある一家のアパートに、複数名の警察官が突然おとずれた。おびえる両親に警察官は告げる―あなたの息子さんを我々の保護下におかねばなりません。

 両親から日常的に虐待を受けていたのか、と思うのは二一世紀の日本人だからである。この一家はユダヤ人で、当然問題の男の子、エドガルド・モルターラもユダヤ人(だから、もちろん、というより、つまりはユダヤ教徒)。そのエドガルドはキリスト教の洗礼を施されたらしい。よって彼をモルターラの家で育てさせるわけにはゆかない。

 ここら辺、ユダヤ人問題が身近でない人間には分かりづらい。当時の法律では、ユダヤ人の子どもが洗礼を受けた時は(時には両親の知らない状況であっても!)、「善良なる」キリスト教徒を「邪悪なる」ユダヤ教徒から引き離すことが認められていたそうな。ちなみにこの事件がおこったボローニャカトリックの首領たるローマ教皇領。

 当然両親は抗議し、狼狽し、愁訴するが、多少時間かせぎが出来た程度で、結局エドガルドは連れ去られてしまう。

 いくら二百年前のこととはいえ、アメリカ独立とフランス革命を歴たあとのヨーロッパでしょ、と思うが、一九世紀でもユダヤ人の扱いは相当にひどかったらしい。ゲットーに強制収容されるのは無論のこと、さすがに外出には黄いろの星を付ける義務はなくなっていたものの(後年ヒトラーが復活させたやつだ)、謝肉祭には屈辱的な恰好で町を歩かされ、住民から嘲弄され罵られゴミなんぞを投げつけられる風習があった。えげつないのは神聖な安息日たる土曜日にミサに出ること(!)を強要されたという慣習である。いささか品下る譬えながら、これは毎週同性愛者が異性相手のセックスを強要される(逆もまた真なり)ようなものではないか。

 ヨーロッパのユダヤ差別の根深さをうかがわせるのは、教皇がおおむねユダヤ人を保護する姿勢をとっていたこと。ヒューマニズム、なんてものでは当然ないので、キリスト殺しの罪深き民族に寛大な心で接するのこそ(そして彼らを忌まわしきユダヤ教から愛にあふれた真実の宗教たるカトリックに導くことこそ)が真のキリスト教徒にふさわしい態度と考えられたから、らしい。やれやれ。

 ともかく、イタリア、特に教皇お膝元のローマ在住のユダヤ人は独特のコネクションをヴァチカンに持っていた。両親の訴えをきいたユダヤ人コミュニティははたらきかけを開始する。

 不運だったのは時の教皇がピウス九世だったことだ。敬虔で真摯なキリスト者であったことは間違いなかろうが、同じくらい確実に頑迷不霊でもあった。合理主義・自由主義進歩主義を頑なに嫌忌し、回勅ではこれらを並べ立ててすべて否定した。

 「エドガルド問題」でも妥協するはずがない。ルネサンス期、あるいはロココ時代の教皇だったら、あるいはと想像がふくらむところである。ミュンヘン一揆のあと、ヒトラーがもし処刑されていたら、と仮定してみるように。

 ただこの教皇さま、強気一方というのではなくて、それどころか「お前(エドガルド)のために私は集中砲火をあびている」と愚痴る始末。

 それというのも、やっぱりアメリカ独立とフランス革命後、正確にはナポレオン戦争後のヨーロッパだからであって、ピウス七世がいくら力み返ろうと、英仏はすでに引き返しようのないくらい近代的国民国家への道を歩み始めていたのである。世俗国家からしてみれば、教会の統治など受け容れられるはずがない。事件を奇貨として、今で言うネガティヴ・キャンペーンを国際的に展開する。

 イタリアはまだ四分五裂の状態だったけれど(なにせ中央に教皇領がでん、と構えているくらいだ)、皆様高校の教科書でご存じサルデーニャ王のヴィットーリオ・エマヌエーレ二世と宰相カヴールは、イタリア統一を目論んでいる最中。ひそかにフランスと款を通じて教皇庁に圧力をかけてくる。

 そう、エドガルドの「保護」=「連れ去り」は図らずもイタリア統一という大きな大きな歴史のうねりを呼び起こす蝶の羽ばたきとなったのだった。

 それだけなら、最初に記した「些事が大事を成す」の感銘だけにとどまる。本当にすごいのは、この一連の国際世論の動きのなかで両親の嘆きがやがて藻屑のごとく押し流され、そして無視されていくという過程である。「大事は些事を圧しつぶす」のである。

 まだ、ある。肝腎のエドガルド。カトリックの坊主ども薫育よろしきを得て(もしくは洗脳の巧妙さにより)、髄までのキリスト教徒となっていたのだった。これをしも皮肉というなかれ。評者は人間の真実(あるいは悲惨)に感動した。日本語にはこういう時に使える「もののあはれ」という精密な表現がある。

 エドガルドの死を叙してこのノンフィクションは終わる。『パルムの僧院』の愛読者なら、あの放胆なロマンのプレストによる終幕に似た感銘をおぼえることだろう。

 いささか文章の騒々しいのが残念。それでも奇にして妙なる材料を歴史の波間から掬い上げてくれたことには感謝しないと。

 

エドガルド・モルターラ誘拐事件 少年の数奇な運命とイタリア統一

エドガルド・モルターラ誘拐事件 少年の数奇な運命とイタリア統一

 

 

 

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