松坂のダンナ~双魚書房通信(23) 菱岡憲司『大才子 小津久足』

 戯作者山東京伝が京屋傳蔵としてたばこを商い、国学者本居宣長は内科・小児科の医師を以て日常の業としたことはよく知られている。生活の資を得るためであることは言うまでもない。ただその場合、あきんど・職業人としての顔はいわば身過ぎ世過ぎの表看板であるのか、むしろその反対にがちがちの封建社会にあってしょせん舞文弄筆はかりそめのわざくれと見るべきなのか。

 この問いに対し、能うかぎり具体に即き、多面的に観察して答えようとしたのが『大才子 小津久足』である。小津久足(一八〇四~一八五八)なる人物とは・・・つまりこの一冊(本文じつに四百二十頁)まるごとの内容となるのだから、ここで要約して御覧に入れるわけには参りませんが、著者に先立ってざっくりご紹介申しあぎょうなら、

 *伊勢は松坂の干鰯商湯浅屋の六代当主であり、
 *嗣子春庭への入門によって、本居宣長の孫弟子でもあり(後に離反)、
 *西荘文庫なる一大蔵書を築いた書物好きかつ、馬琴を感歎させた(「大才子」)犀利な読み手であり、
 *自身膨大な和歌を詠み、また近世でも質量ともにすぐれた紀行文の作者でもあった

 まことにメンドクサイ、もとい一筋縄ではいかない御仁であることは明らか。この盤根錯節をとりさばくために、著者菱岡さんは小津久足の四つの「名」それぞれを一章に立ててその活動を叙するという方策を採った。まずこの構成がいい。門外漢にも綺麗にのみこめる工夫だし、もっと重要なのは、名の区別が単なる形式ではなく、久足という事象そのものの本質にも根ざしていることである。

 たとえば『森林太郎の生涯』(『鴎外の生涯』ではなく)とか『永井壯吉伝』(『荷風伝』ではなく)とかいった表題ならば否応なしに文学者の実人生(それも往々にして秘せられた面の暴露)という印象を与える、つまりははじめから仮象/真実という枠組みに押し込められてしまう。それに対し、久足の四つの名はそれぞれに厳密に使い分けられ(使い分けの意識の食い違いにより、馬琴と衝突もしている)、かつ独立した四面が四面であることにより、そこに久足という一箇の人物が揺らぎ出るという趣なのである。父と子と聖霊の位格の三にして一なるが如きか。

 閑話休題(あだしごとはさておきつ)。だから四面に価値の上下はないので、本屋でいわゆる近世文学の解説本の類いと思って手に取ったような読者は、第一章「湯浅屋与右衛門―伊勢商人の経済活動と思想」に度肝を抜かれ、そしてこの快著のために心配するのだが、書棚に戻してしまうのではないか。

 江戸時代における干鰯(つまり金肥ですね)の位置、流通のあり方、(昨今話題の魚種交替による)不漁の時期と湯浅屋の経営戦略まで、むろん一次史料を読み込んだ精細な記述が繰り延べられる。これは奇手にあらず。後年の紀行でみずから「商売が順調で金子に困っていないからこそこの風流もより楽しめるというもの」と言ってのける人間を相手取る以上、ホモ・エコノミクスとしての姿をしっかり捉えておくのは必要不可欠な手続き・・・と書きかけたが、そしてそれに間違いはないが、なにより著者が「なるほどなるほど」と経済史社会史の文献を愉しみながら平らげていたらしい風情がある。こっそりいえば、「むろん一次史料を読み込んだ」という評言、最近はめったに用いることも出来ませんね。

 閑話休題(あだしごとはさておきつ)。御用商人、言い換えれば政商となることを峻拒し、かといって「恥・義理・事をかくべし」「陰徳をつむなど無用のこと」「人に実意をつくすべからず」とうそぶく醒めた視線がなんとも鮮烈。これをまず示すことで、江戸の現実に立つ男の姿がしっかり浮かんできた。

 痛快なのは第二章。ここでは「小津久足」、つまり国学者としての一面が描かれる。先に見たように宣長の嗣子である春庭に入門するのだが、鈴屋の学風に慊らないものを感じはじめ、というよりはもっと積極的に嫌悪感を抱くようになり、ついには正面切って批判するようになる。もっともその際にも宣長の注釈は評価しつつ、古道論(思想的側面)を捨てるという姿勢に注意せよ、と著者は説く。評者が按ずるに、これは久足のバランス感覚というものではなく、批評性の冴え(と菱岡さんが見ている)なのではないか。というのは、宣長、そして真淵を難じて久足は「英雄人を欺く」と称する。あの気宇壮大にしてむやみに景気がよくて、そしてなんとはなしにうさんくさいような両大人のあの学風(学臭?)を評するのにまことに絶妙なる表現。この一斑を以て久足という大豹ならぬ大才子の才子たるゆえん、察するべし。

 第三章では蔵書の形成や『八犬伝』の評をめぐって、これまた具体的な書簡の読み込みから、江戸時代における都―鄙という主題が見え隠れに浮かび上がってくる。いわゆる三ヶ津、京大坂江戸だけではなく、名古屋や金沢、そして久足が生きた松坂のような大/中都市のあいだで、ヒト・モノ(書簡や貴重な手稿本をふくむ)・カネ、そして情報がめまぐるしくかけめぐっていた。無論富裕な商家の主人なればこそ可能であった部分も大きかろうが、ここでもやはり化政天保の江戸の空気のなかに歩き回る久足を大事にする著者の姿勢がうかがえる。馬琴とのやり取りの内実はもっと詳しく読みたいものである(岩波文庫で注釈付き『八犬伝同時代評判集』なんて出ないかしら)。

 なにも書評子まで律儀に章を逐って論いすることはないか。ここで一気に本書の核心にとぶ。それは「近世的自我」という問題である。鯨馬のような門外漢にも、久足の《自我》が西欧近代のそれと一緒くたに出来ないだろう、と推測される。上田秋成のような強烈無比の「我」をもってしてさえそうなのだから。一方で「近世的自我」、これは学界でどこまで議論になったか知らないけれど、私見ではかなり取り扱いがむつかしい。

 というのは、元々空漠とした「自我」なる観念にかぶせるに、これまた抽象的なる「近世的」を以てしたのでは、結局「近世的自我」とは近世的なる自我のことであるという悪循環を免れ得ないからで、この伝でいけば「中世的自我」でも「古代的自我」でもなんでも言えてしまう(そして内実は一向にはっきりしない)。エウヘニオ・ドールスがバロックを、そしてルネ・ホッケがマニエリスム概念を跋扈乃至蔓延させて名をあげた(悪名か)ことが思い浮かぶ。

 菱岡さんは明敏な学者だから、はじめに記しておいたように、このワナに陥らぬよう最大限の注意を払い、とはつまり具体的なふるまい・発言を積み上げるという隘路から「近世的自我」のあり方そのものを差し出そうとした。言うに易く行うに難いこの手仕事、ここにすなわち『大才子 小津久足』として結晶。

 小津久足をめぐるネットワークというと少しく違和感を覚える。小津久足というネットワークと言い直すのが適切か。いやネットワークなんて語が野暮ったいな。仏説に因陀羅網ということがある。与右衛門・久足・桂窓・雑学庵、四つの宝珠がかたみに照らし合う奇観はそのままこの狷介不羈な男を一つの結び目とする編み目となって化政天保の江戸へと広がってゆき、そして最後には久足と著者との交歓(菱岡さんが久足の感性に共感を抱いているのは間違いないと思われる)にいつのまにか読者まで招じ入れられている。ただ文字をもってこの因陀羅網構築に成功した菱岡さんに敬意を表すると同時にお祝い申し上げます。

 さて、あとは評者の気ままな感想。第五章、「紀行文から時代を読む」の一段で、「下加茂・上加茂・東山の風景云々」と続く『桜重日記』の叙述を著者は久足の「私的京都名所ランキング」と断ずる。なるほど。そして江戸時代では「順位づけの発想は、すべてのものに身分とそれ相応の格式、すなわち分があるということを当然の前提する、身分制社会、江戸時代の反映である。久足の思考もこの時代の感覚のなかにおさまる」とする。なるほど・・・そう言われると反論しにくいけど、しかし真淵・宣長を一言を以て評しさるセンスの持ち主だけに、ここは素直に、批評すなわち位取りという常識が通用していたオソロシイ(つまりひとめで実力がみすかされる)世界における、典型的な批評と見ればいいのではないか。 そしてまた、劣らず京都好きであった宣長の『在京日記』に対抗する気持ちもあったのではないか。

 あと、『非なるべし』における苛烈とも思える商売哲学には海保青陵の口ぶりが響いているかどうか。