土地の精霊

 文楽四月公演第二部は『摂州合邦辻』。無論見せ場は合邦庵室なのだが、その前の万代池の段も良かった。「仏法最初」四天王寺という聖俗綯い交ぜの霊場の雰囲気、具体的には合邦の説法の猥雑さと零落の貴公子の嘆きとが一場のなかに自然と共存できる不可思議さがこの浄瑠璃にはどうしても必要なのだ(一時期あの辺りに住んでたことがあり、あの雰囲気は実感としてもよく分かる)。

 民衆の混沌たる信心も生の悲惨も何もかも受け止めてくれる場があればこそ、玉手御前の死も浄化されて見られるものとなる。だから、この段の最後が「仏法最初の天王寺、西門通り一筋に、玉手の水や合邦が辻と、古跡をとゞめけり」と閻魔堂の縁起を説いて締めくくられるのは、説経節の常套を引くものとはいえ、じつに巧い。というよりこうでなくてはならない。

 吉田和生さんの玉手がまたうつくしいのなんのって。父親の怒声を聞いているときの少しねじれた首の角度やまばたきのリアルさは震えるくらい。勘壽さんの合邦女房も克明でよかった。清治さんの三味線も痛切で良かった。玉手の出のところがよかった(ちっとも分析的に記述できず恥ずかしい)。切の太夫さんは、こういう芸風なのかもしれないけど、台詞がさらさら流れすぎてなんだか朗読のように思えた箇所がちらほら。

 公演は堪能しましたが、劇場の運営は相変わらず官僚的で苛々する。警備員が偉そうで陰惨な感じで芝居を見る楽しみが帳消しである。技芸の質は言うまでもないとして、都会生活に華をそえるような存在でないと、ホントに博物館入りしてしまいますよ。

レーモン・クノー『聖グラングラン祭』(レーモン・クノーコレクション、渡辺一民訳、水声社
○M.R.ケアリー『パンドラの少女』(茂木健訳、東京創元社)……映画を先に見た。ヒロインの過去語りや同行者とのロマンスは通俗だが、やはり結末のひねりは面白かった。ゾンビ物でもこういう路線は少ないんちゃうかしら。
エドワード・ケアリー『おちび』(古屋美登里訳、東京創元社)……ドイツ生まれの「おちび」がかのマダム・タッソーとなるまで。フランス革命前の宮廷での王女との出会い、繁華にして野卑猥雑なるパリ、そして革命の狂騒とぐいぐい読ませる。ヒロインの、敵役との和解もお涙頂戴に陥っていない。『タブロー・ド・パリ』の著者の肖像が印象的。
○アニー・ディラード『本を書く』(柳沢由美子訳、田畑書店)……「書く」行為を具体的なトポスとの結びつきにおいて語る。
アイザイア・バーリンマキアヴェッリの独創性 他三篇』(川出佳枝訳、岩波文庫
田島正樹『文学部という冒険』(NTT出版
○ジョン・ランガン『フィッシャーマン 漁り人の伝説』(植草昌美訳、新紀元社)……クトゥルフ神話のスケールに近接する場面もありつつ、全体の語りのトーンがおっとりと古風なのがよろしい。『ペット・セメタリー』は誰しも連想するところだろうが、街(共同体)の崩壊とそこからの治癒/浄化過程という点で『呪われた町』にも通じる気がする。
○長谷部恭男『神と自然と憲法と』(勁草書房)……読書ノート。アウグスブルク和議で取り決められた宗派選択について、「どうでもいいこと」であるが故に寛容でないといけないという論理が紹介されていて、これが興味深い。「かのやうに」みたいなものか。
ジョルジョ・アガンベン『王国と楽園』(岡田温司訳、平凡社)……エデンの園の精神史。アウグスティヌスによる原罪の「捏造」を精細に衝く。地上の楽園にこそ人間の幸福があるというダンテ読解にあっと驚く。
○『ジンメル宗教論集』(深澤英隆訳、岩波文庫
西谷修『”ニューノーマル”な世界の哲学講義』(アルタープレス)
○R.A.ラファティ『とうもろこし倉の幽霊』(井上央編訳、新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)……原・神話性を指向する作品が多くて梯子を外された感はあったが、これまたラファティじいさん一流のホラ噺と愉しめばよいのかもしれない。
○栩木伸明『ダブリンからダブリンへ』(みすず書房
佐々木マキ『ノー・シューズ』(亜紀書房)……文章ははじめてだが、マンガの線同様、もにょもにょ伸びていつの間にか世界が立ち上がる按配。つまり上手い。長田区出身とはしらなんだ。大倉山裏で同棲していたともしらなんだ。昔の長田の盛り場の描写に刺戟されて、次の本も読んだ。
加藤政洋『神戸の花街・盛り場考』(神戸新聞総合出版センター)
○谷川渥『孤独な窃視者の夢想 日本近代文学のぞきからくり』(月曜社
○パラグ・カンナ『移動力と接続性 文明3.0の地政学』上下(尼丁千津子訳、原書房
○高井ゆと里『ハイデガー 世界内存在を生きる』(大澤真幸熊野純彦編「極限の思想」、講談社選書メチエ
○城戸淳『ニーチェ 道徳批判の哲学』(大澤真幸熊野純彦編「極限の思想」、講談社選書メチエ)……『道徳の系譜学』のまことに暢達明晰な読み解き。「ルサンチマン」とか「遠近法」とかの用語の教科書的解説ではなく、書物の立つスタンスや論理構成の細密な解析が読ませどころ。当方、電車通勤にかわって一年、「発車します」とか「到着します」とか「お気を付けください」とかのアナウンスにほとほとくたびれているのですが、あれは結局無いと文句をつける輩に対抗する手段なんでしょうな。まことにニーチェ的な状況である。ニーチェさんよ、キリスト教の伝統が皆目存在しない国でもあなたの洞察の当たれることかくの如し。
○轡田隆史『空腹のハムレット』(左右社)
○スティーヴンソン『カトリアナ』(佐復秀樹訳、平凡社ライブラリー
村上陽一郎『エリートと教養』(中公新書ラクレ
○岡部勉『プラトン『国家』を読み解く 人間・正義・哲学とは何か』(勁草書房
川合康三編『曹操曹丕曹植詩文選』(岩波文庫