中年という愉しみ

 酒後の事故や、体調崩すのが増えたこともさりながら、何の気なしに久々に読み返した本に感銘を受け、以て我が身の秋を知る。いやまあ、「ついにアラフォー」「四捨五入すれば五十路だわい」と騒いではいたけれど、秋のあはれ同様、身に染み出すところが肝腎。

 その本とは、グレアム・グリーン『事件の核心』と『池波正太郎の銀座日記〔全〕』。いずれも新潮文庫。とはつまり、文庫オリジナルの『銀座日記』ならともかく、グリーンは全集版でもその文庫化であるハヤカワepi版でもない、伊藤整訳(実際の訳は永松定)の古いもの(奥付を見ると昭和四十年の第七刷)。こうも読みづらい版面(そう、文庫程度に難渋してしまう眼の衰えもあるのだった)で、でも行きなづむことなく読了したのだから、やはり相当に身が入ってたのに相違ない。

 誤解されるかもしれないのだが、カトリックの信仰やら罪やらに関してはむしろ学生の時の方が鮮烈に感じた。衝撃といわないのは無論こちらが今に至るまでキリスト教的魂にはさっぱり縁が無いことによる。また、冷め切った関係の妻に注ぐ哀れみに惻々たる思いをしたのでもない(だいたいこちらはずっと独り身なのだし)。今回一等惹きつけられたのはスコービイの土地への愛着である。ねばっこい熱風に始終まとわりつかれる植民地には病気と貧困と汚職とがはびこっている。スコービイの立場が結局宗主国側であるのは、言うまでもないけれど、それを含めて深い諦念のうちにこの風土をembraceするたたずまいに親近感をおぼえたのだった。吉田健一言うところの「住んだところが故郷である」という剛毅な決意のようでもあり、種村季弘大人が落魄こそ男のエロティシズムの最たるものという、その風情のようでもあり。そもそも数年来、文学で形象される、植民地に吹き寄せられるように堆積していく《しようのない》白人の姿が伏流水のように気にかかっていたのが、ここにいたって噴出したということだろうか。これら塵あくたのような白人(の男))どもに否応なく惹きつけられると、たとえばピンチョン(『V. 』)もダレル(『アレクサンドリア四重奏』)もちっとも難解でも複雑でもなく、「肺腑をえぐる」おもしろさですいすい読めてしまうのである。ま、両方とも、中年なんて意識することすらない時から愛読してた小説だけど。若い時分から老けてただけか。

 『銀座日記』にしても、惹句に「死生観」とあるし、また作者自身が病気に苦労する記述はたびたび出てくるのだが(実際この連載直後に急逝したのではないか)、それよりも、映画の試写に出かけ、新しい料理やを見つけ、画集を堪能し、昔のジャズを思い出し・・・・・・という日常をじつに丹念に過ごしている姿勢に瞠目した。これはよほどの意志(と柔軟な思考)がないと持続しない。若気の読書では、当然次々出てくる料理や映画に目を奪われていただけだった。

 とまれ、こんな調子でどんどんめざましい読書(再)経験が出来るなら、どぶねずみ色の中年人生もしっとり雨にうるおう露地の飛石くらいには愉しめそうで、まんざらでもなさそう。どうせなら、小沼丹とかチャールズ・ラムとか林語堂とか、激シブの面子ではなく、夢野久作バタイユドン・デリーロなどむんむんこてこてしたやつらに、も一度食らいついてやろう、と思う。