おぼれてもひとり~宇和島再訪(1)~

 「ああこの町にはもう一回来るな」と思いそしてブログに書いてから(「四国二分の一周② 宇和島~夢の街~」参照)、十年後の再訪は悠長に過ぎると見るべきか、それとも志操堅固にして有言実行(?)と見るべきか。

 ともあれ新幹線・特急「しおかぜ」「宇和海」を乗り継いで五時間。時分どきなれば、『ほづみ亭』で昼食。鯛めしやふくめんにはあまり食指が動かず、じゃこ天や「ほご」の煮ざかな(メバルかな。ぷりっとしてて旨い)で心ゆくまでビールを呑む。

 午後はお城や和霊神社を廻るつもりだったが、店を出ると南国らしい強烈、というより猛烈な陽差し・・・これは水に浸からねばなるまい。

 と思い立ってホテルでママチャリを借り、観光案内所で九島の海水浴場を目指したのだったが、これがすこぶる怪しい。第一案内所のおばさんにしてからが、「海水浴場?ありますかね」という反応で(電話して訊いていた)、道々案内の看板なぞひとつも出ておらず、そもそも鯨馬以外にはほとんど誰とも行き会わないのだった。

 それにしても四十七歳になってチャリの立ち漕ぎをすることになろうとは。汗づくでぜいぜいはあはあいいながら、軽トラすら危ぶまれるような道(ガードレールなど無い!)をくねりくねり行く。

 一応それらしい場所にはたどり着いたが、コンクリート打ちっぱなしの階段が無造作に海に突っ込んでいるだけ。砂もなく、砂利の浜が(二十メートルほどだろうか)続いている。むろん更衣室など無い。しかし大体当方以外誰もいないのだから、気にすることもないわけだ。と開き直って、階段で堂々と着替える。

 何重にも折れ曲がった海岸線の内側だけあって、さすがに波はかすかなもの。ハンモック型の浮き輪に仰向けに寝て揺られていると俗界の騒ぎ等はすぐに吹っ飛んでしまう。

 陽光の烈しさは避けようがないので、表になったり裏になったり二時間近くも半ばうとうとしながら水に融け込んでいた。・・・はて面妖な、かかるところへ人声とは。と目覚めると、いつしか地元の小学生らしき四人連れが海につながる小流れのところで遊んでいた。時折砂利浜に出てはミズクラゲを採取してはしゃいでおる。

 夏が過ぎ風あざみ、でまことに結構なのであるが、何せ階段ひとつっきりより無い場所である。はてオッサンはどこで着替えればよかろうか。三十分ほど水着を乾かしがてらギャラリーの退散を待ったが、一度ガキが遊びに熱中したら雷が鳴ろうと離すもんではない。

 悩みに悩んだ挙げ句、やはり階段で堂々と着替えることにした。通報されるのでは、などというオッサンの危惧もよそに、中年のハダカよりもクラゲやカニのほうに一心不乱になっているのであった(そらそうや)。

 夜は『うわじまの料理や 有明』。前回訪れた記憶があり、Facebookで「宇和島の料理研究会」なるところに問い合わせてみると「本人に訊くと、十年前にお話ししたことを覚えている、とのことです」と教えてくださった。たしか若主人(鯨馬と同い年)が神戸のホテルで修業していたはずである。

 若主人、えらくオッサンになった・・・のは当方も同じか。ともあれかけつけ三杯のビールを干し(不思議なくらいきゅうきゅうきゅうきゅう喉に吸い込まれていくのである)、後半は愛媛の地酒を頂きながら、

*ニガニシ貝の塩茹で(と聞いたが自信はない。ぬるぬると苦み少なく小味でよろしい)
*じゃこ天(黒いのと白いのと。やはりじゃりっとくる黒が断然旨い)
*地蛸のぶつぎり
*ふかの湯ざらし(辛子酢味噌。上方の白味噌でなく麦味噌で、しかも辛子がきいているからすこぶる日本酒に合う)
*小烏賊の塩茹で
*トラハゼの天ぷら

などを愉しむ。いつもどおり酒を呑んでると飯は食いたくなくなるので、天然鰻のうな重は明日の昼に回すことにし、本日の〆(というか最後のアテ)に汁ものを頼んだところ、石鯛のアラの味噌吸い物が出た。これが本日の秀逸で、あぶらぎってしかも爽やかな石鯛に麦味噌がよく合う。みるみる酔いも覚めていくようだ・・・と思ったけどこれは錯覚。直射日光は暑さ以上にカラダを疲れさせるとみえて、教えてくださった二軒目のバーでは二杯呑むと急激に睡魔が。ホテルでベッドに倒れ込みつつ、でも明日も泳ぐべしと誓う。(つづく)

うにときうりの祭~八戸旅日記(3)~

 三年前(もう八戸に惚れ込んで三年にもなるのだ)、はじめて種差海岸に行った時は七月にも関わらず吹き付ける冷たい霧にこれがやませかと感銘を受けたのだが、今回はそれ以上だった。海を向いて一分も経たず眼鏡がべたべたになるほど、霧の流れがきつく、また濃い。三十メートルも離れれば白い闇のなか。海も大荒れに荒れていて、音がすごい。

 なめらかに広がる芝生とその上を奔る霧と向こうに荒れ狂う波と。たしかにこれは日本の他のどこでも見られはしない風景で、『波光食堂』が開店するまでの一時間半はあっという間に過ぎていた。

 ここは八戸の複数の知り合いが「海胆の店」と教えてくれたところ。やませですっかり体が冷えてしまったが、奇妙に喉だけは渇いているのでまずは生ビールかけつけ二杯。落ち着いたところにどやどやっと注文の品が来る。酒に切り替えてゆっくりつつく。

《刺身盛り合わせ》帆立、中とろ、しまあじ、牡丹海老、つぶ貝、鮑。やはり貝類がよろしい。鮑が旨かったので水貝でお代わり。
《生海胆丼といちご煮セット》海胆丼にも鮑が入ってた。飯はあらかじめ言っておいたので、なすくった程度。海胆はやはりよろしかったので、生海胆でお代わり。いちご煮(海胆と鮑の吸物。大葉が薬味)も酒の肴としては極上の部類である。酒をどんどんお代わりする。平日のせいか、思ってたより立て込まず、のんびり呑めた。


 夜は移転した『鮨 瑞穂』。
○枝豆、糠塚胡瓜、ばっけみそ※自家製
○鮑水貝(蓴菜とトマト)
○ホヤ
○鯨の自家製スモーク
対馬穴子の白焼き※山椒は庭木から取ってきたもの
○鮨五貫、玉子、しじみのお椀
 お店は洒落たつくりで、大将も若大将もいきいきはたらいてらっしゃるのがいい。アテもよろしい。週末とはいえ満席の賑わいで、既にして八戸の名店の風格。

 二軒目は『酒BAR ツナグ』。ここの店だとむしろ八戸の酒にこだわって呑むのは勿体ないので、この夜も全国の銘酒を愉しんだあと(『こもりくの里』がちょっと良かった)、三十年(!)物という味醂をいただく。そのままソースとして、ローストビーフにでも使えそうな、甘くて苦くて芳潤な逸品でした。

 みろく横丁はこのところご無沙汰気味でしたが、深夜のぞいて見ると人通りがだいぶ戻っているようで喜ばしい。新たに出店した『おでん いし井』で相も変わらずハイボールをがぶがぶやっているときに出会ったお二人が、以前からInstagramでフォローしていた方だと分かって双方驚く。驚きついでに更にハイボールがぶがぶ。

 みろくの繁盛で気をよくして調子に乗り、深夜のおいたが過ぎて翌朝は飯抜き。朝から銭湯で体調も心も入れ替えて、久々の十六日町『鶴よし』。おそれていた程混んでなかったので、カウンターの端っこにてゆっくり昼酒。「鰯の和風アヒージョ」も旨かったが(ただしニンニクの香りはかなり強烈)、なんといっても蕎麦ぬか漬けが素晴らしい。文字通り、蕎麦を挽いたときに出るヌカで漬けてあり、だから心地よい酸味と発酵系の旨味のあとにまぼろしのように蕎麦の香りがよぎっていく。種類も分量も多くて、いくらでも呑める気がする。勘定のとき長居をわびると「旅先で昼から、好みの肴でゆっくりと。これこそ幸せってもんですよ」と。次はえんぶりの時に来て、ここの名物である天然真鴨で、やはり昼からゆっくりやる。蕎麦ぬか漬けも忘れない。

 そうそう、えんぶりといえば、またも愛する八戸に来られた御礼を申さねば。というわけで、昼から長者山新羅神社にお参り。夕景までは目的もなく町なかをぶらぶら。ブックセンターで青森グルメ(?)マンガ『めじゃめし』の新刊を買い、銭湯に寄ってからホテルで読む。今までは八戸に対する扱いが冷淡なのが気にくわなかったけど、だいぶバランスが取れてきてよろしい(抗議の声もかなり上がったのではないか)。

 夜は陸奥湊の『湊のいろは二代目』へ。サメ酢和え、雀焼き、鯨汁などで端然と、かつまた猛然と呑む。横に座ったニイチャンは地元在のYouTuberらしい。どうしたらチャンネル登録者が増えるか悩む若者に、冗談交じりのアイデアを怒濤の如く投げつける。上方モンはこーゆーことになるとえらくアタマが回るものであります。

 二軒目『大衆酒場源氏』再訪。味のあるマスター夫婦に迎えられて焼き鳥をつまむ。なぜかタイ風海老カレーなんぞも出てくる。そのためか知らんが、また持ち直して、やっぱり深夜のみろく横丁で「うにっ!」「糠塚きゅうりっ!」とさんざんほたえたおしたのでありました。

湊高台の一夜~青森・八戸旅日記(2)

 


 朝から細心にチューンアップしてお腹が鳴るほどである。いざ『Casa del Cibo』。

 この日のコースの内容以下の如し。

◎トピナンブールのビスコッティに挟んだペリゴール産フォアグラのテリーナ・・・「トピナンブール」は菊芋のこと。ペリゴール産だから、あぶらは綺麗で、でもやっぱりフォアグラだから濃厚で、これから始まるぞよ、といやが上にも気分が盛り上がる。
◎八戸産ヒラメの椎茸〆カルパッチョ仕立て・・・つまりアレです、昆布〆の昆布を乾燥椎茸に変えたわけです。すごいなこの発想。昆布では香りがつよくなりすぎるので椎茸、そして椎茸もたとえば和食で使うような干し椎茸を粉にしてまぶしたりはしないところ、むしろ洗練された日本料理を思わせるような絶妙のイケコロシの按配。おかげで平目が馥郁と香る。
◎漁師『三宝丸』さんの水ダコのポルポアフォガート2021・・・池見シェフはInstagramで、「ここの水蛸はどこの真蛸よりも旨いと思っています」と書いてらした。明石蛸を食べつけている人間としては少なからず引っかかる発言である。神戸の客と分かっているシェフは「前言撤回はしません」とばかり、悪戯っぽい笑顔でこの皿を出してきたのだった。元々はナポリの郷土料理で、要するにトマト煮。「美味しいのですが、料理屋で出すにはやはりもっさりしてるので」と組み直したのだそう。見るにふてぶてしい構えの水蛸の足が器の中央にとぐろを巻いている。そこに澄んだスープを注ぎ込む。蛸本体はぐにゃぐにゃでもなく、真蛸もとい明石蛸のようにきしきしでもなく、噛んでいくと歯ごたえがあらわれるという風情。スープが爽やかに味を引き締める。訊くと、蛸の臓物とドライトマトでとったコンソメだとか。こういう発想もプロですなあ。上に塗られた力強いソースもセロリの芽も、上方歌舞伎でいう「つっころばし」のような味わいの水蛸を上手に盛り上げている。うーん、明石だって上方だからこの比喩いささか具合が悪いか。ともかく、池見さんの創意工夫にて、真蛸水蛸一本勝負は引き分け(住み分け)ということと、自分のなかで決した次第。ちなみに料理名は「おぼれダコ」の意だとか。この日本語のほうが可愛らしくていいと思います。ワインはエトナの赤。
◎八戸産生うにとフルーツトマトの冷たいスパゲッティーニ・・・パスタと同量の海胆が和えてある。それだけ生海胆を使っていて、なぜかくも清らかな味になるのか。てんで納得がいかない。椎茸〆や「おぼれダコ」の目を見張る一手間のさなかで、こういうちょっとした一皿をゆるがせにしない緩急がすばらしい。
◎八戸産活穴子の焼きリゾット・・・これも遊び心が横溢した愉しい料理。穴子を赤ワインで程よい固さまで煮込み、下に飯をかためている。上には赤ワインベースのソース。つまりどう見ても穴子ずしの「やつし」であって、しかも添え物にはカリカリに揚げた牛蒡、風味付けに山椒を散らしているのだから念がいっている。そのくせ穴子のぷりぷりした舌触りといい、瀟洒なソースといい、やっぱりこれはイタリア料理という仕上がり。
青森県地鶏シャモロックのトルテッリインブロード・・・前回はすっぽんのトルテッリ。見た目は地味だけど、すごく手がかかってることが分かる一品。シェフも「こういう詰め物系はともかく手数が多いけれど、その分組み合わせも多様だし、やりがいがある」と話していた。澄んだスープの伸び具合はさすがシャモロック、であります。
◎八戸産幸神メヌケの鱗焼き・・・深海魚メヌケのなかでも、いちばん格が高いとされるのが幸神メヌケ。あんこうほど水っぽいわけではないが、かといってあぶらべたべたでもなく、しっとりと品がいい肉質。だけにいっそうしゃりしゃりした鱗との対照が楽しめる。クミン?ウイキョウ?の風味が刺戟的なソースがいい。
◎イタリア産仔牛のアッロースト ポルチーニセッキのソース・・・少しでも火が入りすぎると途端にどうにもつまらなくなってしまう仔牛をよくぞ官能的に仕上げてくださいました。さぞかし仔牛も随喜の涙をこぼしておりましょう。あ、なぜここまで柔媚なテクスチャーに出来たかというと、切り落としなどの部分を練り上げたものを肉本体に巻き付けて焼いているからです。
久慈市フォレストキッチンさんのダマスクローズとサクランボのグラスデザート
エスプレッソの軽いアイスとミルクジェラート

 この日、池見さんの料理のために横浜から来たという客もいた。その価値はあるよ。なんでも五年以上毎月(!)来ている人もいるらしく、しかも同じ料理はひとつも出していない(!)くらいなのですから。それに八戸の食材がかけ合わさったら鬼に金棒どころか閻魔にバズーカ砲というところでしょう。

 その、食材やら八戸の話題やらをシェフ、奥様(ワイン担当)とのんびり語りながらコーヒー。食事は美味しいだけではなく、楽しいものでないといけない。というか、一人であろうと自宅であろうと、楽しく食べられる食事は美味しいに決まっている。

 ともあれ、お二人に感謝感謝。まだまだ二月と七月を一度ずつクリアしただけですから、これから末永くよろしくお願いします。(つづく)

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森とみずうみのまつり~青森・八戸旅日記(1)

 久々に青森市で一泊。ホテルに荷物を預けてすぐに橋本の『鮨処 すずめ』へ。ここははじめて。「はじめにアテで呑みます、その後でおすしを」。

《アテ》
○烏賊の鉄砲煮
○栄螺壺焼き・・・きちんと鮨やの壺焼きになっている。
○造り・・・鰯の酢〆・大間の鮪(赤身)・イシナギ。イシナギは初めて食べた。旨味が強い白身
○鯉の吸物
○牡蠣・・・味噌と卵黄でグラタン仕立て。
○水蛸の唐揚げ・・・明石の真蛸を食べつけている人間は正直「水蛸ねえ」と思ってしまうが、ほろほろして、いいものである。
《すし》
○鮃
○帆立
○牡丹海老
白身二種(失念)
○〆鯖
(牡丹海老の頭の吸物)
○大間の鮪二種(赤身、中とろ)
○槍烏賊
○鮃エンガワ
○海胆・・・旨かったので、というより今回の旅の主目的だったので、お代わり。

 たいへんお値打ちに思ったが、しかし当方以外誰も入っていなかった。青森県内での感染者はごく少数だけど、観光客がいないとやはり厳しいらしい。店主に明日奥入瀬渓流を見に行く、というと細かく名所を教えてくれた。

 さて、昼からは世界遺産に登録がきまった三内丸山遺跡に行く予定だったのだが、久々の青森市だし、とやっぱり立ち飲み『新改商店』に足が向いてしまう。おかあさん相変わらず元気。こちらも嬉しくなり、ハイボールがぶがぶ。

 「まちなか温泉」で一時間ほどぼーっとしてホテルで小憩。ここまではごく順調だったのですが、あとはどうもツイてなかった。夜一軒めは古川にある老舗の有名居酒屋。ホヤも名物の干鱈の黄身和えも良かったのだけど、端っこの常連とおぼしき二人連れがブツブツ嫌みを言うのでさっさと出ることにした。二軒め。その裏にある『立ち飲み 十七番』に入ると店長のだいちさんが休みで、店番の男の子は野球中継に見入ってこちらの注文をなかなか聞いてくれないし、なんだか悄然として、しかしやはりハイボールはがぶがぶ。ここは本当は酒とそれに合うアテの種類も豊富なのだが、だいちさんがいないのではやむなし。がぶがぶやってるうちに、「まあ、これで厄落としをしたと思えば」と鷹揚な気持ちになってくる。

 翌朝は、深夜のおいたにも関わらず至極元気で、でも心づもりがあって朝食は軽め。本当は、けの汁やかやきといった郷土料理で朝酒と洒落込みたかったのですが。

 元々それが目的で来てるのであるからして、どこも見物せず、町中を散歩しては酒を呑むだけの旅に後ろめたさを覚えてはいない。半日もの予定を組んで奥入瀬渓流に遊ぶつもりになったのは、それだけ強力な誘因があったわけ。Instagramで知り合った青森の写真家トザキ・タカシさんの投稿に瞠目していたのである。

 八甲田の紅葉はいちど見たことがある。真っ紅に染まった橅が目路の限り広がる、凄絶とさえ形容したくなる眺めだった。あの橅が今度は若葉を思うさま繁らせている様子をトザキさんの写真で見て、すっかり魅惑されてしまった。

 とはいえ、クルマの免許を持たない人間が奥入瀬に出かけるのは時間的にかなり厳しい。せっかくの緑と水の中をバスの時刻を気にしてコセコセ動き回るのはあまりにもったいないので、観光タクシーを借り切って回ってもらうことにした。

 9時半に青森駅前で待ち合わせし、まずは奥入瀬を越えて十和田湖へ。運転手はおそれていたような、観光案内を立て板に水でしゃべりまくるタイプではなく、のんびり話しながら向かう。

 昨日の街の様子から察していたとおりに、この青森屈指の観光名所にもやはり客の姿はほとんど見かけないのだった。カップルもいない。男性もいない。つまり女性一人客がぽつぽつと。つまりそれだけ静謐には恵まれたというわけで、一時間の散策時間の大半を湖畔の芝生に座って、あるとしもなき波音に耳をすませていたのだった。中の島の岸壁に露わな柱状節理が猛々しいのと(安山岩玄武岩?)奇妙な対照を為しているのが、なんとも快い。放心していたおかげで、周囲のホテルの荒廃ぶりに気をとられずに済む。

 だいたいほとんどの施設が閉まっているのだから、昼食は①ヒメマス、②バラ焼き(十和田の郷土料理らしい)の二択に実質限られる。鯨馬はそのどちらにも目をくれず、瞑目してただイチゴソフトクリームをなめる。

 宿酔か。さにあらず。夜に予約した八戸は湊高台の名店『Casa del Cibo』での食事を十二分に愉しむための計画的な節制であります。前回もすごいヴォリュームだったからねえ。※拙ブログ「えんぶり感傷旅行(1)~艱難辛苦は神の声~」(2021/2/22)をご参照ください。

 さていよいよ奥入瀬渓流へ。さすがに観光客の姿は増えてきたものの(小学生の遠足も一組見かけた)、それが全く気にならないくらいの圧倒的な美しさ。水というエレメントにどうしようもなく惹かれる質の人間にとって、奔り、旋回し、跳ね、踊り、振り撒く景がどこまでも続く(しかも水の常として、千変万化しつづける景)のはほとんど性的快感に近い。旅の直前にiPhoneを買い換えたばかりで、随分カメラ機能も進歩したなあと感嘆していたけど、ここに来ると人間の眼がもっとずっと精緻で正確であることが痛感される。ですから素人の画像はあえて載せません。どうかトザキさんの素晴らしい写真をご堪能ください。

 しかも素晴らしいのは、いわゆる「絵になる」風景が対象として眺められのではなく、絵の中にすっぽりと包み込まれて、とはつまり風景と主体との区別が融け失せる感覚に充たされること。これは視覚だけでなく聴覚・嗅覚・触覚総動員の(文字通りの)体験ゆえのことなのだろうけれど、彼我の別が無くなるという意味では性的であることは無論、逆に見れば自分が自分でなくなることでもあり、これは要するにエクスタシス=忘我という意味で宗教的な体験でもある。

 実際に、木漏れ陽のなかを水がたぎり落ち、空一杯まで黒々とした岩がそびえ立ち、鮮烈なそして多様な緑が響き合うなかにいると、容易に人は「神」を直覚できる。むろんここでいうのは『もののけ姫』的に現れるような、ああいったカミである。


 わずか一時間半しか散策出来なかったのがまことに名残惜しい。呆然としたままタクシーで拾ってもらい、夢見心地で外を眺めていると、『すずめ』の店主が教えてくれたとおり、谷地温泉の先では車を取り囲むように橅の大群落が迫ってくる。時折、「ヌシ」の如き大木が辺りを払う威厳で立っているのが見えると、思わずどきりとするくらい。つまりまだカミに憑かれている。

 冬の酸ヶ湯温泉に来たときには、雪に埋もれた橅林にびっくりしたものだが、それよりさらに神聖な感じがする。生命の萌え出でる勢いというものなのだろうか。(つづく)

 

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水無月盡

 六月も終わりと気付いて慌てる。こうやって人は死に近づいてゆく。明日からは青森。

○竹村牧男『唯識・華厳・空海・西田』(青土社
ジーナ・レイ・ラ・サーヴァ『野生のごちそう』(棚橋志行訳、亜紀書房
○ジョージ・サルマナザール『フォルモサ 台湾と日本の地理歴史』(原田範行訳、平凡社ライブラリー)・・・男の読み物は旅行記と博物図鑑に極まると喝破したのは種村季弘大人。双方兼ねた本書なぞはさしずめ最強の一冊というところか。思えば『ガリヴァー』は言うに及ばず、マンデヴィル『東方旅行記』などこういう〈綺想〉の旅行記は昔から好物だった。エーコの小説では『バウドリーノ』を最も好むのもそのせいか。
金井美恵子『〈3.11〉はどう語られたか』(平凡社ライブラリー)・・・相変わらず執拗極まる語り口がすばらしい。いささか自家中毒気味ではという箇所もあるが、ここまで表現に徹底して目を凝らす姿勢を見ると、何も言うことは無くなってしまうのである。
○樋口健太郎摂関家の中世』(歴史文化ライブラリー、吉川弘文館)・・・外戚という根拠による摂関⇒家の職としての摂関という流れが分かった。
ハルオ・シラネ鈴木登美『〈作者〉とは何か』(岩波書店
玉川奈々福『語り芸パースペクティブ』(晶文社)・・・充実の一冊。ちゃんと基本的な参考文献もあるので、日本の語り物についてまさしく展望が得られる。
○佐藤岳詩『「倫理の問題」とは何か』(光文社新書
○キャサリン・ダン『異形の愛』(柳下毅一郎訳、河出書房新社
○國方英二訳『エピクテトス 人生談義』上下(岩波文庫)・・・快挙。
増田義郎『アステカとインカ 黄金帝国の滅亡』(講談社学術文庫
○マイケル・フリーデン『リベラリズムとは何か』(山岡龍一他訳、ちくま学芸文庫
伊藤亜紗ヴァレリー 芸術と身体の哲学』(講談社学術文庫
○繁延あづさ『山と獣と肉と皮』(亜紀書房
○情景師アラーキー『凄い!ジオラマ』(アスペクト
井上ひさし『小説をめぐって』(発掘エッセイコレクション、岩波書店
○図師宣忠『エーコ薔薇の名前』 迷宮をめぐる〈はてしない物語〉』(世界を読み解く一冊の本、慶應義塾大学出版会)
古井由吉『書く、読む、生きる』(草思社
○楠家重敏『変革の目撃者 アーネスト・サトウの幕末明治体験』上下(晃洋書房
○新谷尚紀『不安と祈願』(講座日本民俗学、朝倉書店)
鈴木健一佐佐木信綱 本文の構築』(近代「国文学」の肖像、岩波書店
○齊藤寛海『イタリア史2 中世・近世』(世界歴史大系、山川出版社
○藤井建三『格と季節がひと目でわかるきものの文様』(世界文化社
○良原リエ『食べられる庭図鑑』(KTC中央出版
徳川林政史研究所『森林の江戸学』(東京堂出版
安田喜憲『森の日本文明史』(古今書院
○ジョン・パーリン『森と文明』(安田喜憲訳、晶文社
○姉崎一馬『日本の森大百科』(CCCメディアハウス)
○伊藤進『森と悪魔』(岩波書店
池内紀『森の紳士録』(岩波新書
○ロバート・P・ハリソン『森の記憶』(金利光訳、工作舎

 

 

 

魚菜記

 ようやく水槽を立ち上げることが出来た。生体はアフリカンランプアイをメインに、透明系のカラシンミナミヌマエビ水草は、百二十センチに二十種類で、大概のアクアリストが憫笑されそうな、とりとめのない水景だが、もともとこちらが雑草が生い茂る原っぱを理想としているので、これで、いいのである。

 バルコニーでも色んなハーブやら野菜の苗が根付きつつある。ただなにせ本当に前後左右何もないマンションなので、思った以上に風が強く、一度胡瓜の茎を折ってしまったのはむごいことをした、と反省。

 外に飲みに行けないからやむなく熱帯魚やらハーブやらの世話にかまけてる・・・わけでもなくて、うーむ。俺は元々飲みに行かなくても良い人間だったのではないか(酒を止めるわけには非ず)、と思い始めてるのがアブナイ。こーゆーヤツが増えたら、「平時」復帰後盛り場はどうなることやら。

 


○『Newton 別冊 絵でわかるパラドックス大百科 増補第2版』(ニュートンプレス
○瀧井一博『伊藤博文』(中公新書)・・・「知の政治家」の側面を強調。天皇制を国家組織に関連付けようと腐心した、という記述が勉強になった。
○本田創・高山英男『はじめての暗渠散歩』(ちくま文庫
山口瞳江分利満氏の優雅な生活』(ちくま文庫
○フィリップ・フォレスト『洪水』(澤田直訳、河出書房新社
デイヴィッド・ミッチェル『ボーン・クロックス』(北川依子訳、早川書房)・・・環境破壊などで終末を迎えつつある世界を舞台にした最終章の出来がやや落ちるが、世界幻想文学大賞にふさわしい。中年の作家を扱った一章がことに秀逸。
○ジョン・ランチェスター『最後の晩餐の作り方』(小梨直訳、新潮社クレストブックス)
○米虫正巳『自然の哲学史』(講談社選書メチエ)・・・自然の自己完結性、技術との二項対立を執拗に疑う思考こそがむしろ西洋哲学の本流に潜在していたことを説く。
○今井むつみ『英語独習法』(岩波新書)・・・たいそう売れているらしい。かなり本質的な議論を展開してるんやけどなあ。
都筑道夫『吸血鬼飼育法 完全版』(日下三蔵編、ちくま文庫
○ローレン・グロフ『丸い地球のどこかの曲がり角で』(光野多惠子訳、河出書房新社)・・・アメリカの小説読むたびに、身の回りの自然の勢いというか、威力に感嘆する。米虫さんの本ではないが、ヨーロッパとアメリカでも「自然」の肌合いは違うんだろうな。
○大沼宜規『考証の世紀』(吉川弘文館
○西田知己『血の日本思想史』(ちくま新書
永井均内田かずひろ『子どものための哲学対話』(講談社文庫)・・・『翔太と猫のインサイトの夏休み』『マンガは哲学する』系列の本。「上品」の定義が面白い。動物園で見る動物の威厳にいつも打たれるのだが、こういう補助線があるとすっきり納得する。これこそ哲学の真骨頂。
○ジョナサン・シルバータウン『なぜあの人のジョークは面白いのか?』(水谷淳訳、東洋経済新報社)・・・題名に関してはさほど収獲なし。いくつか使えそうなジョークを収集。
ブルーノ・シュルツ『シュルツ全小説』(工藤幸雄訳、平凡社ライブラリー
○若月伸一『聖人祭事紀行』(八坂書房
安岡章太郎『自叙伝旅行』(角川書店
○ウィリアム・シットウェル『食の歴史』(栗山節子訳、柊風舎)・・・お勉強。
○アンドリュー・リマス他『食糧の帝国』(太田出版)・・・お勉強。
○江後迪子『信長のおもてなし』(歴史文化ライブラリー、吉川弘文館)・・・お勉強。
○江後迪子『長崎奉行のお献立』(吉川弘文館)・・・お勉強。
○奥村彪生『日本料理とは何か』(農山漁村文化協会)・・・お勉強。
鶴岡真弓ケルトの想像力』(青土社
沓掛良彦オルフェウス変幻』(京都大学学術出版会)・・・沓掛先生、お元気!というか、枯骨閑人、少し老残の嘆き節をいうのが早すぎたんですね。
○吉田一彦他『神仏融合の東アジア史』(名古屋大学出版会)
長谷川ヨシテルポンコツ武将列伝』(柏書房)・・・一部の歴史シミュレーションゲームマニアに大人気の小田氏治、戦争に弱いという知識はあったが、居城を七たびも落とされたとなると、むしろそのたびに取り返していたしたたかさに目が行く。領民や家臣に慕われていたらしい。小説向けだなあ。
○谷晃『茶話と逸話』(茶書古典集成、淡交社
宮崎法子『花鳥・山水画を読み解く』(角川選書
○中務哲郎訳『フィロゲロス ギリシア笑話集』(叢書アレクサンドリア図書館、国文社)

あとは誰が何と言わなくても、

安田謙一『ライブ漫筆』(誠光社)。ロックもポップスも歌謡曲も全く聴かないけど、ともかく安田謙一の文章の中毒患者なのだ、ワタシは。こちらも行きつけの阪急六甲の某店にもいらっしゃるらしい。一度会いたい。そして呑みたい。

 

※Amazonでも書影が出てこない。。。

 

もうひとつ、

 

 

○『完全版 ピーナツ全集』(河出書房新社)をゆっくりゆっくり読み続けている。引越のときにマンガは全部売り払ってしまったけど(いしいひさいちの『ドーナツ全集』(!)は唯一の例外)、これも全冊持っておきたい。

 

 

 

 

 

 

今週のお題「おうち時間2021」

パン屋へ三里 豆腐屋へ二里

 板宿暮らしにだいぶん馴染んできた。前のマンションは一人住まいを始めて最も長くいたところだったから、引っ越しして一月半でここまで来たのは随分早い。と思ったが、自分が馴染めそうな町を選んで移ったのだから、まあ当たり前ともいえる。

 馴染めそうと感じた一番の理由は無論(と強調したい)、飲み食いする店が多いこと。大資本のチェーンも当然あるのだが、小体な個人経営のところが多いので気に入った。三宮みたいに、食べログミシュランに載って大流行り(してすぐ廃れるまたは味が落ちる)ということもなく、いつも地元の客でそこそこ繁盛してるという按配がよろしい。

 雨の昼下がりにお湯割りをすする店、じっくり旬の肴を味わう店、店主との会話を愉しむ店、とことん呑むための店、と自分なりのコースも出来てきた。

 そうそう、駅前の中心街に八百屋・魚屋などの市場の名残が頑張っているのも嬉しい。店のオバチャンに太刀魚の煮付けの作り方を聞いたその足で、若くてイケメンのコーヒー屋で好みの豆を買うことも出来る。

 これでそこそこの古本屋と、日本酒をしっかり揃えている酒屋があれば申し分ない。まあ気長に探すとするか(詳しい方は御示教惜しみ給はざれ)。あ、今回の題名ですが、多井畑厄神前の天然酵母パン『味取』さんにも、東山市場の『原豆腐店』さんにも原付でシュッと行ける、という意味であります。


○キャロリン・A・デイ『ヴィクトリア朝 病が変えた美と歴史』(桐谷知未訳、原書房
○ハロルド・ヘルマン『数学10大論争』(三宅克哉訳、紀伊國屋書店
○スーザン・グルーム『図説 英国王室の食卓史』(矢沢聖子訳、原書房
○赤松明彦『ヒンドゥー教10講』(岩波新書
宮脇孝雄『洋書ラビリンスへようこそ』(株式会社アルク)・・・ロレンス・ダレル(贔屓の小説家)の伝記が紹介されていたので、さっそくAmazonでポチる。
寮美千子『ノスタルギガンテス』(エフ企画)
○『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』(植村邦彦訳、平凡社ライブラリー)・・・岩波文庫の訳文は相性が悪く、この版でようやくしっかり読めた。ナポレオン3世というつかみどころのない「怪帝」(鹿島茂)を相手にマルクスがイライラしてる感がよく分かる。それにしてもやはり扇動家としては一流ですな、マルクス
○ジル・フュメイ他『食物の世界地図』(柊風舎)
○スチュアート・ファリモンド、辻静雄料理教育研究所『スパイスの科学大図鑑』(誠文堂新光社
○アンナ・シャーマン『追憶の東京』(吉井智津訳、早川書房
○『和辻哲郎座談』(中公文庫)
○岡本裕一朗『哲学と人類』(文藝春秋
○三谷康之編『事典 イギリスの民家と庭文化』(日外アソシエーツ
○辛嶋昇『インド文化入門』(ちくま学芸文庫