森とみずうみのまつり~青森・八戸旅日記(1)

 久々に青森市で一泊。ホテルに荷物を預けてすぐに橋本の『鮨処 すずめ』へ。ここははじめて。「はじめにアテで呑みます、その後でおすしを」。

《アテ》
○烏賊の鉄砲煮
○栄螺壺焼き・・・きちんと鮨やの壺焼きになっている。
○造り・・・鰯の酢〆・大間の鮪(赤身)・イシナギ。イシナギは初めて食べた。旨味が強い白身
○鯉の吸物
○牡蠣・・・味噌と卵黄でグラタン仕立て。
○水蛸の唐揚げ・・・明石の真蛸を食べつけている人間は正直「水蛸ねえ」と思ってしまうが、ほろほろして、いいものである。
《すし》
○鮃
○帆立
○牡丹海老
白身二種(失念)
○〆鯖
(牡丹海老の頭の吸物)
○大間の鮪二種(赤身、中とろ)
○槍烏賊
○鮃エンガワ
○海胆・・・旨かったので、というより今回の旅の主目的だったので、お代わり。

 たいへんお値打ちに思ったが、しかし当方以外誰も入っていなかった。青森県内での感染者はごく少数だけど、観光客がいないとやはり厳しいらしい。店主に明日奥入瀬渓流を見に行く、というと細かく名所を教えてくれた。

 さて、昼からは世界遺産に登録がきまった三内丸山遺跡に行く予定だったのだが、久々の青森市だし、とやっぱり立ち飲み『新改商店』に足が向いてしまう。おかあさん相変わらず元気。こちらも嬉しくなり、ハイボールがぶがぶ。

 「まちなか温泉」で一時間ほどぼーっとしてホテルで小憩。ここまではごく順調だったのですが、あとはどうもツイてなかった。夜一軒めは古川にある老舗の有名居酒屋。ホヤも名物の干鱈の黄身和えも良かったのだけど、端っこの常連とおぼしき二人連れがブツブツ嫌みを言うのでさっさと出ることにした。二軒め。その裏にある『立ち飲み 十七番』に入ると店長のだいちさんが休みで、店番の男の子は野球中継に見入ってこちらの注文をなかなか聞いてくれないし、なんだか悄然として、しかしやはりハイボールはがぶがぶ。ここは本当は酒とそれに合うアテの種類も豊富なのだが、だいちさんがいないのではやむなし。がぶがぶやってるうちに、「まあ、これで厄落としをしたと思えば」と鷹揚な気持ちになってくる。

 翌朝は、深夜のおいたにも関わらず至極元気で、でも心づもりがあって朝食は軽め。本当は、けの汁やかやきといった郷土料理で朝酒と洒落込みたかったのですが。

 元々それが目的で来てるのであるからして、どこも見物せず、町中を散歩しては酒を呑むだけの旅に後ろめたさを覚えてはいない。半日もの予定を組んで奥入瀬渓流に遊ぶつもりになったのは、それだけ強力な誘因があったわけ。Instagramで知り合った青森の写真家トザキ・タカシさんの投稿に瞠目していたのである。

 八甲田の紅葉はいちど見たことがある。真っ紅に染まった橅が目路の限り広がる、凄絶とさえ形容したくなる眺めだった。あの橅が今度は若葉を思うさま繁らせている様子をトザキさんの写真で見て、すっかり魅惑されてしまった。

 とはいえ、クルマの免許を持たない人間が奥入瀬に出かけるのは時間的にかなり厳しい。せっかくの緑と水の中をバスの時刻を気にしてコセコセ動き回るのはあまりにもったいないので、観光タクシーを借り切って回ってもらうことにした。

 9時半に青森駅前で待ち合わせし、まずは奥入瀬を越えて十和田湖へ。運転手はおそれていたような、観光案内を立て板に水でしゃべりまくるタイプではなく、のんびり話しながら向かう。

 昨日の街の様子から察していたとおりに、この青森屈指の観光名所にもやはり客の姿はほとんど見かけないのだった。カップルもいない。男性もいない。つまり女性一人客がぽつぽつと。つまりそれだけ静謐には恵まれたというわけで、一時間の散策時間の大半を湖畔の芝生に座って、あるとしもなき波音に耳をすませていたのだった。中の島の岸壁に露わな柱状節理が猛々しいのと(安山岩玄武岩?)奇妙な対照を為しているのが、なんとも快い。放心していたおかげで、周囲のホテルの荒廃ぶりに気をとられずに済む。

 だいたいほとんどの施設が閉まっているのだから、昼食は①ヒメマス、②バラ焼き(十和田の郷土料理らしい)の二択に実質限られる。鯨馬はそのどちらにも目をくれず、瞑目してただイチゴソフトクリームをなめる。

 宿酔か。さにあらず。夜に予約した八戸は湊高台の名店『Casa del Cibo』での食事を十二分に愉しむための計画的な節制であります。前回もすごいヴォリュームだったからねえ。※拙ブログ「えんぶり感傷旅行(1)~艱難辛苦は神の声~」(2021/2/22)をご参照ください。

 さていよいよ奥入瀬渓流へ。さすがに観光客の姿は増えてきたものの(小学生の遠足も一組見かけた)、それが全く気にならないくらいの圧倒的な美しさ。水というエレメントにどうしようもなく惹かれる質の人間にとって、奔り、旋回し、跳ね、踊り、振り撒く景がどこまでも続く(しかも水の常として、千変万化しつづける景)のはほとんど性的快感に近い。旅の直前にiPhoneを買い換えたばかりで、随分カメラ機能も進歩したなあと感嘆していたけど、ここに来ると人間の眼がもっとずっと精緻で正確であることが痛感される。ですから素人の画像はあえて載せません。どうかトザキさんの素晴らしい写真をご堪能ください。

 しかも素晴らしいのは、いわゆる「絵になる」風景が対象として眺められのではなく、絵の中にすっぽりと包み込まれて、とはつまり風景と主体との区別が融け失せる感覚に充たされること。これは視覚だけでなく聴覚・嗅覚・触覚総動員の(文字通りの)体験ゆえのことなのだろうけれど、彼我の別が無くなるという意味では性的であることは無論、逆に見れば自分が自分でなくなることでもあり、これは要するにエクスタシス=忘我という意味で宗教的な体験でもある。

 実際に、木漏れ陽のなかを水がたぎり落ち、空一杯まで黒々とした岩がそびえ立ち、鮮烈なそして多様な緑が響き合うなかにいると、容易に人は「神」を直覚できる。むろんここでいうのは『もののけ姫』的に現れるような、ああいったカミである。


 わずか一時間半しか散策出来なかったのがまことに名残惜しい。呆然としたままタクシーで拾ってもらい、夢見心地で外を眺めていると、『すずめ』の店主が教えてくれたとおり、谷地温泉の先では車を取り囲むように橅の大群落が迫ってくる。時折、「ヌシ」の如き大木が辺りを払う威厳で立っているのが見えると、思わずどきりとするくらい。つまりまだカミに憑かれている。

 冬の酸ヶ湯温泉に来たときには、雪に埋もれた橅林にびっくりしたものだが、それよりさらに神聖な感じがする。生命の萌え出でる勢いというものなのだろうか。(つづく)

 

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