ジャレド・ダイアモンドに逆らって~双魚書房通信(24) ローラン・ビネ『文明交錯』

 以前ビネの作風を冗談まじりに「伝奇小説」と形容したことがある(当ブログ「鳥獣の王」2020.12.14)。新作を読んで、もう少しこれに注が必要と思った。  前言撤回というのではない。どころか、今回も話の結構は奔放を極め、というか荒唐無稽の域に達している。なにせ、あのインカ、ピサロなるごろつきによってあえなく征服されたまぼろしの帝国の皇帝アタワルパが、いいですか、こともあろうに(と言いたくなる)スペイン、当時の区分でいうところの神聖ローマ帝国をのっとってしまう(!)という筋書なのだから。そう、これはつまり十六世紀版ローラン・ビネ版の『高い城の男』なのである。  

 

 だから荒唐無稽。我が江戸の読本・合巻(の出来の悪いヤツ)や今なら異世界転生モノ(の出来の悪いヤツ)とは、しかし一線を画しているのは、げんなりするような出鱈目さや俗っぽいご都合主義のあの臭みがないからだ。  

 

 いやここらが微妙なところで、ちゃらんぽらんの具合やあきれるくらいの話の運び方が、にも関わらずある《軽み》のトーンで細心に整えられているから、読後莫迦莫迦しさを感じさせないというべきか。つまりは作者の意識がそれだけ精緻で尖鋭ということである。ローラン・ビネなのです。そうこなくてはならない。  

 

 分量からもまず明らかだろう。ノルマン人の一部族が新大陸をさすらい、あげく定住にいたる足取りを描いた神話的な、というかほぼ神話のパロディとなっている第一部(史実に照らせば十世紀ごろ)から、セルバンテスエル・グレコが新大陸(ここではアメリカ大陸のことです)に渡る第四部のあいだに、アタワルパの「新大陸」(むろんインカ帝国の皇帝から見ての)上陸、神聖ローマ帝国皇帝カール五世との駆け引きと対決、宗教改革、神聖ローマの帝位獲得、社会体制の変革と侵略・反乱を叙述して四百頁に収めるというのは、強靱な意志なしにできることではない。

 

 植民地政策や進歩史観、その根底にある西欧中心主義が厳しく断罪される現在だからこそ、地と図をひっくり返すというだけの思いつきは愚鈍(で軽薄な)な告発にとどまる。となればいっそ、歴史そのものを黒い笑いのなかに差し出すほか手はない、とユダヤ人虐殺や言語の夢魔的側面をかつて取り上げたビネは判断したのであろう。アタワルパの兄の執拗さ、メキシコ・イングランド連合(!)の残忍さ、スペイン異端審問所およびルターの頑迷不霊を見よ。

 

 まあ、いかにもフランスの小説家らしく、ユーモアの側面にはいささか食い足りないところはあるけれども。ただ、カール五世の登場場面では少しばかり薄味ながら、この捉えどころのない「大」君主の肖像を辛辣に描き出している。

 

 でもその分、やはりフランスらしく、あの懐かしいヴォルテールディドロたちの哲学的コントの瀟洒で潑剌たる味わいは確実に見て取れる。アタワルパを南から来たカンディード(それともパングロス?)と見立てることはできないだろうか。

 

 最後に思いつきひとつ。第三部のプレストの終わり方や、世界の不合理にあくまで晴朗に立ち向かう主人公の姿勢に、遠く十八世紀にまで遡らずとも、ウンベルト・エーコの『バウドリーノ』にビネはなにか得るところなかったかしらん(エーコのあの快作もまた哲学的コントの骨格をもった、「歴史改変」小説である)。

                      (橘明美訳、東京創元社

 

 

 

悪の文楽

 改めて人間国宝認定おめでとうございます、吉田玉男さま。

 夏の文楽公演は二度に分けて見物。十年前と違い、二部続けてはとても無理。腰が痛くなって見物どころではない(もっとも十年前だって楽ではなかった)。そのぶん前後の時間に多少余裕はあるのだけど、この猛烈な(災害級というんですか)×××のなか、ましてたださえ××苦しい大阪の街中を歩くのはどうにも気ぶっせいで、いつものうどん屋・割烹・鮨やもよしとする。
※目から耳から散々流し込まれて皆様閉口でしょうから、一部伏せ字と致しております。

 まずは第三部の『夏祭浪花鑑』。米朝師匠が、いかにも懐かしそうな口調で「昔は浪花の俠客の芝居をようやってましたな」とおっしゃっていたのを思い出した。それくらいこの俠客なる人種というのは気疎いものなのである。義理や面子、男気を重んじるというのは観念的にはわかるが、舞台で観る立場から「いよっ、俠客かたぎっ!」とはまったくならない。なんだか無気味なものがそこにごろっと転がってる、というほうが実感に近い。

 これは貶してるのではなく、むしろ今回玉男さんの遣う団七にひどく感銘を受けたことを言いたい。まず、「長町裏」で惨殺される舅義平次が悪人ではないとうことがある。義平次がしつこく述べ立てるように、このおっさん、団七のことをよう世話してるのである。無論だから義平次が善人とは到底言えなくて、あこぎでイヤな奴には違いない。で、ここが微妙なところなのですが、義平次とのやり取りから殺傷に及ぶ場面で、素直にとるかぎり、団七はけして舅のことば・振る舞いに感情的に逆ギレしてはいない。かといって俠客としての一分が立たないゆえにやむなく一線を越えたのでもない。逆鱗に触れるという古諺があるが、その本源的な意味において団七は怒っている。つまり余人には理解も予測も出来ないところにに分別も情けも喪わせる「鱗」があって、いったんその力が解き放たれたならば、暴虐はおよそ自然災害のようなもので、けちでねちこく胴欲な、とはつまるところ世間並みの「イヤな奴」に過ぎない初老の男などにはとても防ぎようもなくただただ切り刻まれ、足蹴にされる他ないのである。

 「住吉鳥居前」で、団七・一寸徳兵衛が一瞬で意気投合するくだりの気味悪さもこの線に沿って見ると腑に落ちる。玉島兵太夫に恩ある身、という徳兵衛自身が説明する理由はいかにも空々しくひびく。あれは化け物同士だからこそ伝わる世界なのだ。再び言うが、世の民草はその突発的な暴力には慴伏し、ときに無残な犠牲となるばかり。だからつむじ風(むしろ妖異かまいたちとすべきか)がひとしきり荒れ狂ったあとに、それでも世界を元通りに縫い合わせようとし、またそうする他ない生が憐れなのである。

 あまりに近代的に過ぎる解釈だろうか。江戸の作者がそこまで考えてはなかろう。否定はしない。しかし少なくとも団七の玉男さんと義平次の和生さんは、「今の自分たちがこの芝居をするならこう演じるしかない」と考えて遣っているのだろう、と推測する。そこに抜き差しならない「リアル」があるのだと思う。殺し終わったところで幕切れとせず、ひと呼吸あって「八丁目さして」闇へ走り込む姿がじつに生々しかった。

 それに比べると、第二部『妹背山婦女庭訓』の「入鹿誅伐の段」はなんだか悪い意味で芝居じみていて、普通にはよりスケールの大きな《悪》であろう入鹿がちっともコワくない(ま、入鹿の姿勢がめりこみがちで柄が小さく見えるせいもある)。直前に見せられるお三輪の最後が可哀想で、付け足りにしか映らないのか。おなじ公卿悪でも、車引の時平は無気味だからなあ。うん、それにしても勘十郎さんのお三輪、殿中で官女にいびられながらふらふらと立ち上がる姿はまるでゾンビ(!)みたいでコワかった。それまでかなり精細に(あえていうなら執拗に)仕草をつけていただけに余計コワかった。


○マシュー・ベイカー『アメリカへようこそ』(田内志文訳、KADOKAWA)・・・・・・いい小説家見つけた。
ロジェ・カイヨワ『石が書く』(菅谷暁訳、創元社
○ルッツ・ザイラー『クルーゾー』(金志成訳、白水社)・・・・・・夏に読めて良かった。ジョン・ファウルズ『魔術師』のような世界。あれも名作だと思いますが、こちらは現実世界の崩壊との重ね合わせが味をより複雑にしている。
○長尾宗典『帝国図書館 近代日本の「知」の物語』(中公新書
○ルネ・セディヨ『フランス革命の代償』(山﨑耕一訳、草思社
○長谷部恭男『歴史と理性と憲法と 憲法学の散歩道2』(勁草書房)・・・・・・学海余滴の贅を尽くすエッセイ集シリーズ。良識を諄々と確認する姿勢が矯激に映るのは、もちろん世間が狂ってるからである。
○バート・S・ホール『火器の誕生とヨーロッパの戦争』(市場泰男訳、平凡社
元木幸一ファン・エイク 西洋絵画の巨匠』(小学館)・・・・・・大きな本なので、エイクの精緻華麗なマティエールをなめるように観賞出来る。ヴェラスケスやルーベンスより、エイクやペトルス・クリストゥスの方が落ち着いて見られる。少なくとも夏はこちらのほうが暑苦しくはない。
○デイヴィッド・ホックニー他『はじめての絵画の歴史 「見る」「描く」「撮る」のひみつ』(井上舞訳、青幻舎インターナショナル)
○ジェームズ・チェシャー『地図は語る データがあぶり出す真実』(日経ナショナル・ジオグラフィック社)
○近衛典子他編『江戸の実用書』(ぺりかん社
山辺晴彦・鷲巣力『丸山眞男加藤周一』(筑摩選書)
榎本秋『戦国坊主列伝』(幻冬舎新書
○エリザベス・タウンセンド『「食」の図書館 タラの歴史』(内田智穂子訳、原書房)・・・・・・このシリーズ、ちょっと質がよくない。どれもかいなでの記述で構成に工夫がない。せっかくの企画なのに、編集者は何をしておるのだ。
○田谷昌弘・萬福寺萬福寺普茶料理』(GAKKEN)
北國新聞社出版局『鏡花文学賞50年』(北國新聞社)・・・・・なんと嵐山光三郎さんが受賞作全て(!)に解説をつけている。

 

 

 

 

この豊饒なる小世界

 バルコニーがたいへんなことになっている。90平米の部屋に対してその半分ほどもあって、ルーフバルコニーの方はピクニック(?)したり、プールを出したり、こたつに火鉢を出したり(気違い沙汰)して堪能しているが、今回はそちらではない。生き物係からの報告である。

 めだか鉢に入れる水草、毎年アナカリスやホテイソウ、フロッグピットでは面白くない。今季はやや値は張るけど侘び草を投入。アクアリウムに興味ない方に注しておきますと、これは数種の水草を寄せ植えした商品で(@AQUA DESIGN AMANO)、ある程度育成されているから育てやすく、土も付いているのでそのまま水槽にほうりこめる。要はチートモードの水草なのです。

 南向きとはいえ直射日光は当たらず、ナウシカの故郷くらいにいつも風が吹きとおる立地という条件がよかったのだろう、あっという間に繁茂して、鉢からこぼれんばかり。光合成して成長する過程で水中には充分な酸素も供給され、水質も浄化してくれる。だから時々足し水するくらい。黒メダカ五匹で始めたところ、今では針子(稚魚)がどんどん殖えている。爆殖というヤツである。

 爆殖してるはメダカだけではない。コケ(藻類)殲滅のために送り込んだミナミヌマエビ部隊もまた「産めよ殖やせよ鉢に満てよ」とばかりに子作りにはげんでおる。五ミリ足らずの針子と子エビがつまつまちまちま動き回ってるのを見てると、なんとなく笑みが溢れてきて気がつけば小半時くらいにたにたしながら水面を眺めている(気違い沙汰)。

 ミナミヌマエビでもとどまらないのです。メダカ及びこれは室内の熱帯魚の餌用にと、スチロールケースで飼養しだしたミジンコがまあまた殖えること殖えること。顕微鏡もってないのでルーペで覗くくらいなのですが、ひっきりなしに文字通り微塵のような連中が蠢動してる光景には、何かこう、人をして「ほうと」とせしむる(@折口信夫)ものがある。今やエサというより愛玩のために飼ってる(といっても時折植物プランクトンの素をふりかけてるだけ)ような按配である。地球上で人類がちょこまか愚行にふけってるのを眺めてる神様もおんなじような気持ちなのだろうか。


○ピエール・グロード、ジャン=フランソワ・ルエット『エッセイとは何か』(下沢和義訳、選書りぶらりあ、法政大学出版局
酒井順子『日本エッセイ小史』(講談社
○澤井繁男『ルネサンス文化講義 南北の視座から考える』(山川出版社
○藤原聖子編『日本人無宗教説 その歴史から見えるもの』(筑摩選書)・・・・・・言説分析の手法による、通史的叙述(ただし明治以降)。すなわち無宗教か否かの判定には立ち入らず、《無宗教》という軸が立ったその時からいかなる問題系が産出されるかを追っていく。主に新聞記事に載った論者の主張を見てると、どんな概念でもイデオロジックに操作可能なんやなあ、と痛感する。
○山本淳子『古典モノ語り』(笠間書院)・・・・・・モノを語って、でもいつも《文学》の中心からそれない姿勢が好もしい。
三枝暁子『日本中世の民衆世界』(岩波新書
ジュール・ヴェルヌ『シャーンドル・マーチャーシュ』上下(三枝大修訳、ルリユール叢書、KADOKAWA)・・・・・・ヴェルヌ版「巌窟王」。元からSFの開拓者としてのヴェルヌはあまり評価してなかったので、『カルパチアの城』とか『黒いダイヤモンド』とか、本作みたいな伝奇・冒険モノの方がよほど楽しめる。
ジョージ・オーウェル動物農場』(吉田健一訳、中央公論新社)・・・・・・吉田健一オーウェルの取り合わせ!
○児玉聡『オックスフォード哲学者奇行』(明石書店)・・・・・・飄々とした語り口がなかなか読ませる。ショーペンハウエルやらシェリングやら、奇矯な世界観の発明者ならともかく、日常言語の分析に足場を置くオックスフォード学派なればこそ、よけいに「奇行」ぶりが際立つ。ただし、アンスコムとその師匠であるウィトゲンシュタインが突出しすぎていて、他は「まあ、おるわな」と思ってしまいますね、正直。付録の、イギリス生活にあたっての細々した報告(水道料金どうする、とか)が興味深い。日本はこういう点、かなり効率的になってるのではないか。
○茂木誠『世界史講師が語る教科書が教えてくれない「保守」って何?』(祥伝社)・・・・・・臆面もない張り扇調が愉快。しかしこのように超越的な視点から保守かそうでないかを裁断する姿勢って、「保守」なのか?
○シルヴィア・アサー『大いなる探究 経済学を創造した天才たち』上下(徳川家広訳、新潮社)
○浅野和生『エルサレムの歴史と文化』(中公新書
○後藤淳一編著『はじめての漢詩作り入門』(大修館書店)・・・・・・練習問題が用意されていて、実用的。
○金澤裕之『幕府海軍の興亡 幕末期における日本の海軍建設』(慶應義塾大学出版会)・・・・・・整理が行き届いているから、近世的「軍役」から国家軍への転換の生々しい過程がよく分かる。嘉永まで大船建造を禁じていたのが怪我の功名で、陸軍より早く創設できたのだ。ま、転換した途端に幕府はつぶれてしまうのだが。海舟に人望がなかったというのは意外。
刑部芳則『公家たちの幕末維新 ペリー来航から華族誕生へ』(中公新書)・・・・・・あきれるほど詳細に、ペリー来航以後の宮廷におけるごたごたを記述している。新書の規模でここまでまとめるのはたいへんな苦労だったろう。昭和のいくさに際しての、革新官僚どもの跳ねっ返りぶりを否応なく想起させられる。いま流行り(?)のターム(罵詈雑言?)でいえば、公家、それも中流以下の公家はサヨクだったんですな。観念的で一方的で暴力的。オレが一橋慶喜だったら全員ギャクサツしていたな。それにしても、「御一新」の後、ようやく華族として正式に表舞台に立ったときには、真の意味での政治生命がすでに終焉を迎えていたというアイロニイの痛烈さよ。

 

 

 

酔仙歌仙

 小説家丸谷才一は玩亭という俳号を持つ。句集もたしかふたつ出しているが、それよりも連句の方で名高い。ふるくは夷齋石川淳・流火安東次男、晩年は大岡信・乙三岡野弘彦といった人たちと一座している。鯨馬が宗匠役で巻いた歌仙記録を差し上げたところ、礼状が届いたというはなしは一度書いた(「精励恪勤」)。その末尾にいわく、「でもやはり歌仙は一堂に会してなさるのが本筋ですよ」。新型ウイルス騒動よりずっと以前のことだからリモートを意識していたわけではないけど、互いの多忙を言い訳にして、文音(手紙などで付句をやり取りする方式)でばかり巻いていたのは、やっぱり「本筋」ではなかったなあ、と反省する。

 というのは、先日神戸の友人たちと拙宅にて「一堂に会して」興行したのだが、これがまあやたらに愉しかったのである。芭蕉翁の戒めに拘らず、酒も肴もふんだんに出す。それで酔っ払ったからというわけではけしてなく、ときに箸をあやつりときに盃を口に運び、そしてもちろん談論風発、優に雅な話柄から俗の俗なるゴシップまで乱れ飛ぶその合間に腕を組んで句を案じる趣が堪えられない。

 といってもやっぱり多少(?)は回ってるから、あとから見返すと我ながらいやになるくらいの稚拙なミスや月並みな付けが目立つけれど、それ以上に一座で同じ空気を吸いながらぐんぐんスイングしていく感じはメイル歌仙(最近はLINE歌仙)ではけして味わえないものだった。次はいつにしようか、ともう考え始めているほど。

 ここでは歌仙ではなく、久々に気合入れた料理の献立を記しておく。

*向付(代わり)……生海胆と滑子の柚釜。生海胆はもちろんのこと三陸産(八戸産は見つけられず)の塩水海胆。
*汁(代わり)……ミズの水もの。ミズは別名うわばみ草。当方は青森の食堂でこれを知った。全くアクの無い蕗みたいで、さくさくした歯触りがいかにも涼しげな山菜。水ものもその食堂で教えてもらった。昆布を浸けた水に、さっと湯がいて色出ししたミズを数時間浸けて出す。鷹の爪も小口切りで。冷たくして出すので、洒落た夏の吸物になります。上方にはないものなので、喜んで頂けた。
*飯(代わり)……若生おむすび。津軽の伝統的な作り方だと中は白飯だけど、今回は生姜飯。
*造り(代わり)……鰯の卯の花漬。鰯は三枚に下ろし、塩して三時間⇒酢洗い後、酒・酢に浸けて一晩。卯の花は乾煎り⇒酒・塩・酢・昆布出汁でさらさらするまで炊く。仕上がりどきに人参の繊切りと人参葉のこまごまを混ぜる。鰯の腹に卯の花を詰めて一晩置く。出すときは一口大に切って。卯の花「鮨」ではなく「漬」がミソで、一晩置いて味をなじませる。これは発酵ものと言えるのかな?
*椀盛……鱧とじゅんさいの清汁仕立て。吸口は柚大へぎ。
*焼物(代わり)……焼き穴子の山葵和え。湯がいた三つ葉を刻み、炙った穴子と混ぜ、淡口・酢・山葵を直前にかける。天盛りにはこれも焙りたての海苔をもんで。穴子・山葵・三つ葉・海苔で香気の勢揃え。鯨馬が考える最上等の酒の肴。
*煮物(代わり)……すき昆布と身欠き鰊の煮物。酒・濃口・味醂(少々)でややこっくりめに。すき昆布はもちろんのこと八戸産。
*焚合(代わり)……白和え。これを焚合代わりとするのは、今回具材とした木耳・銀杏・三度豆・芹・干し椎茸・干し茄子それぞれを別に炊いたから。やたらめったら手のかかったひと品で、「本日のスペシャリテです」と言ってお出しした。
*強肴(一)……蛸おくら梅肉和え。たたいた梅肉は煮切酒でゆるめる。黒胡麻も混ぜる。蛸はもちろん八戸産の水蛸・・・ではなく我らが明石蛸也。『Casa del Cibo』の池見シェフ、すいません!
*強肴(二)……小芋辛子和え。小芋は昆布出汁で茹でておく。白味噌に辛子と淡口少々。本来なら摺り柚が出会いなのだけど、もう柚は使ってるから、今回は青海苔を振って出した。神戸の誇る名居酒屋『金盃森井』のうつしである。本歌はうんと上品な味付けですがね。鯨馬の好みで辛子を効かせた。
*強肴(三)……ずいき酢味噌和え。なんか和え物ばかりだけど、汁やら揚げ物やらは、連句しながらはどうにも手がかかりすぎる。これは言うまでもないだろうが、ちべたーーくして出すのが肝腎。
*強肴(四)……糠漬け。茄子、胡瓜、茗荷、人参。


ヨナス・ヨナソン『華麗な復讐株式会社』(中村久里子訳、西村書店)……今どき珍重すべき古風な因果ばなしにして(悪口にあらず)、ブラック・コメディ。しかしこの邦題なんとかならんかったのか。
○ギョーム・アポリネール『腐ってゆく魔術師』(窪田般彌訳、沖積舎)……アポリネールにこんな作品あったんや!怪物・妖魔・魔術師総出演という趣だけど、フロベールの『聖アントワーヌの誘惑』みたいにあぶらっこくなく、洒落ていて、どこかメーテルリンクさえ連想させるけだるさがよい。
○尼ヶ崎彬『利休の黒』(尼ヶ崎彬セレクション1、花鳥社)……選集を出すにあたっての書き下ろしだそうな。
○下橋敬長『幕末の宮廷』(羽倉敬尚注・解説、平凡社東洋文庫)……畏友のブログで知った。細部の情報がじつに面白い。なにかと幕府からみそっかす扱い受けてたというイメージしかない江戸時代の宮廷だけど、むしろ一切の「実」を喪失してこそ「名」、つまり有職・儀式への妄執めいたこだわりが輝き出すんだなあ。あと、著者の語り口も幕末の京の雰囲気を伝えて貴重。
○山本幸司『狡智の文化史』(岩波現代文庫
島薗進『日本仏教の社会倫理』(岩波現代文庫
○飯田真・中井久夫『天才の精神病理』(岩波現代文庫
幸徳秋水『兆民先生 他八篇』(梅森直之校注、岩波文庫)……秋水(そして兆民)、こんなに漢籍の教養を重視してたとは。たしかにアナーキズムの檄文には漢文の錚々と鳴る調子がふさわしいのかも。
○西田知己『大江戸虫図鑑』(東京堂出版
坂田明『私説ミジンコ大全』(晶文社)……いまベランダで当方もミジンコを飼ってというか熱帯魚の餌用に培養していて、その一助にもなるかと思って読んでみると、目が点になる詳細さ。坂田さんがミジンコの大家(?)とはかねて仄聞していたけど、これほどとは。専門家三氏との対談でも一歩も引けを取ってない。すごい。坂田明万歳。そしてミジンコ万歳。

雨にうたるるめだか鉢

 気象庁の「梅雨入り宣言」とは、例年の梅雨の時期・一週間程度雨が降る・当日も雨という基準で出されるのだそうな。そんなふわっとした「基準」ならいっそ出さなくても誰も困らないと思うのだが。宣言あろうがなかろうが、週間天気予報見れば雨かどうか分かるわけだし。

○戸川隆介編纂『中国料理食語大辞典』(如月出版)
○ロジェ・グルニエ『パリはわが町』(宮下志朗訳、みすず書房)……断章による自叙伝(作家と街との)。杉本秀太郎『洛中生息』と並ぶべし。
筒井ともみ『舌の記憶』(新潮文庫)……文体が合わなかった。
○谷田博幸『図説ヴィクトリア朝百貨事典』(ふくろうの本、河出書房新社)……ディケンズなど読む時に重宝する一冊。鹿島茂『馬車が買いたい!』と並ぶべし。
○エイドリアン・トミネ『長距離漫画家の孤独』(長澤あかね訳、国書刊行会)……えらくnaiveやなあ。嘉村磯多か。
○ウォルター・バジョット『イギリス国制論』(上)(遠山隆淑訳、岩波文庫)……イギリス人らしく、大統領制をクサし王制を持ち上げるのだが、結局のところはそれが役立つからという臆面もないイギリス的プラグマティズム。欣快の至り。
小野紀明『政治思想史と理論のあいだ』(岩波現代文庫
○持田叙子編『安岡章太郎短篇集』(岩波文庫)……学生の時以来の再読となる「蛾」、やはり素晴らしい。
ヘーゲル宗教哲学講義』(山﨑純訳、講談社学術文庫
レアード・ハントインディアナインディアナ』(柴田元幸訳、東京 twililight)
石井恭二編『武田泰淳エッセンス』(河出書房新社
佐藤友哉『子供たち怒る怒る怒る』(新潮社)
フレデリック・C.バイザー『啓蒙・革命・ロマン主義 近代ドイツ政治思想の起源1790-1800年』(叢書ウニベルシタス、杉田孝夫訳、法政大学出版局
○M.H.エイブラムズ『鏡とランプ ロマン主義理論と批評の伝統』(水之江有一訳、研究社出版
橋爪節也監修『はたらく浮世絵 大日本物産図会』(青幻舎)
○ニーナ・バートン『森の来訪者たち』(羽根由訳、草思社)……えらくnaïveやなあ。いかがわしく感じるのはこちらがすれっからしに堕落してるせいなのか。多分違う。
馳星周『煉獄の使徒』上下(角川文庫)
○槇佐知子『くすり歳時記』(ちくま文庫
○槇佐知子『古代の健康法をたずねて 医心方の世界』(人文書院
○槇佐知子『病から古代を解く改訂版』(新泉社)
○ウラジーミル・ジャンケレヴィッチ『泉々』(合田正人訳、みすず書房)……変わらずエレガント。究極的に規定し得ない(しかしそれこそがアイデンティティーとなる)ユダヤ性を、にも関わらず、執拗に規定しては崩し規定しては崩しするエッセイ数編からなる第二部が圧巻。第一部はトルストイラフマニノフを扱う。ラフマニノフヴィルトゥオーゾの陶酔/臭みを避けてはならぬ断言する。反田恭平が協奏曲第三番を弾くのを聴いて(指揮は佐渡裕)、半音階的進行の鋭さ・不気味さに感心したが、それはコインの両面ということになるのだろう。余談ですが、反田さんにはリストでも晩年の無調的作品やバルトークシェーンベルクなどを手がけて頂きたい。
○菅原真弓『明治浮世絵師列伝』(中央公論美術出版
○塚原成夫『数学的思考の構造 発見的問題解決ストラテジー新版』(現代数学社
○マアザ・メンギステ『影の王』(粟飯原文子訳、早川書房
岡本綺堂『お住の霊 岡本綺堂怪異小品集』(東雅夫編、平凡社ライブラリー
○齋藤康彦『益田鈍翁 近代数寄者の大巨頭』(茶人叢書、宮帯出版社)……なんや茶の湯のことしか書いてへんやんけ!と思ったら、これは「茶人叢書」の一冊なのであった(ミネルヴァ書房の評伝シリーズと思い込んでいた)。経済史の専門家らしく量的手法を貫徹してるところがユニーク(誰と誰がどれくらい茶会に同席したか、等)。
○『和食店の鮮魚つまみ』(柴田書店
○有泉『中国陶磁の世界』(松田徹訳、科学出版社東京)
○岡嶌偉久子・山根陸宏校訂『花月日記』1(史料纂集古記録編、八木書店出版部)……寛政の改革を主導した老中松平定信の日記(ただし引退後)。雑誌『ビブリア』超長期連載の翻刻が刊行されはじめた。こちらが昔学問のまねごとに手を出していたころ、定信には少なからず縁があった。これを機縁にぽつぽつ読んでいこうと思う。言うまでもなく単なる趣味としてです。

今回はともかくこの2点。
○ジョン・W.ダワー『戦争の文化』上下(三浦陽一監訳、田代泰子他訳、岩波書店
○ローマン・マーズ『街角さりげないもの事典 隠れたデザインの世界を探索する』(光文社)

 

 

 

 

 

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断食気分

 週に一、二度断食をしている。といっても短くて十六時間、長くても丸一日程度だから正確にはプチ断食。健康を気遣ってではなく、偶々食事を抜いたあと体が軽く感じたので続けているだけのこと。ネットで方法は調べた。一日くらいならそこまで危険も無いみたいだから、適当にルールを組み合わせている。休日はともかく、仕事でばたばたしているときに水分だけはキビしいから蜂蜜入りの紅茶(某大量販売スーパーで売ってるような、安物のティーバッグが丁度よい)は飲むとか、アルコールは《対象外》とするとか(ただしこれも安物の缶チューハイのみ)。

 実は体の軽さや減量効果は副次的なもので、何より断食明けの食事、つまり字義通りのブレイクファストの旨さがあるから続けられているのである。人一倍食い意地が張ってると自認してるし(飲み意地とすべきか)、自分の食べたいものを食べたいように食べる為の台所仕事にもかなり気を入れてるつもりだけど、やっぱりどこかでオートマティスムに堕してるところがあるんだろう、と思う。

 実際、明けの食事では茶の淹れ加減、飯の炊ける匂い、干し魚の焼き具合、ワインの味わい、発酵モノの熟れかたなど、はっ。と気づかされることが多い。

 ま、この伝でしばらく本を読まねば活字が目にしみるようだとか、久方ぶりの性交がしみじみと滋味深いという訳にはいかないのでしょうが。


○『啓蒙思想の百科事典』(丸善出版)……ディドロのことを調べるために手にとったが、面白い記事が多かったので拾い読みを重ねて結局ほぼ通読。斜め読みでもいったんこうしておくと、次に使いやすいし、参考書探しにも鼻がきくのである。
水上勉『精進百撰』(田畑書店)……『土を喰う日々』続編。繁縷や蒲公英、嫁菜といった野草を近くで採ってくるというのがなんとも豪奢。
井上ひさし『客席の私たちを圧倒する』(井上ひさし発掘エッセイ・セレクション、岩波書店
○津上英輔『美学の練習』(春秋社)……「美とは何か」。まず仮説を差し出して、ためつすがめつ検証を続ける。この角度の取り方(およびそこからの展開ぶり)が哲学のエチュードとなっている。板宿に住みだして二年、出勤のときは往復一時間ほど電車に乗らないといけない。空いてたら本を読むけど、そうもならん場合はこの問題を考えて時間を潰す。「美とは何か」。その十全なる定義は可能か。別に高尚ぶってるわけではなく、暇つぶし兼アタマの体操なのだから「日本料理とは何か」とか「ヘンタイとは何か」などいくらでも遊べるのである。
○坂内徳明『女帝と道化のロシア』(学術選書、京都大学学術出版会)
菊地秀行『妖神グルメ』(朝日ソノラマ文庫)……小学生(!)以来か。表紙絵(天野喜孝)があまりになつかしくて買った。
○ジョウゼフ・コンラッド『闇の奥』(黒原敏行訳、光文社古典新訳文庫)……これも久々。やはりヒトの動きやモノの形態については圧倒的に新訳の方がよい。西欧による収奪という文脈をいったん外してみれば、クルツもまた、帝国主義とともに増殖した、放浪者かつ敗残者であるところの白人(グレアム・グリーンとかに出てくるやつね)の一人なんだな。解説で、クルツの《血脈》として、『ブラッド・メリディアン』の判事をあげている(黒原さんはこちらも翻訳している)のには唸った。
○ジョージ・ミケシュ『これが英国ユーモアだ』(中村保男訳、TBSブリタニカ
○ケイト・フォックス『イングリッシュネス』『さらに不思議なイングリッシュネス』(北條文緒他訳、みすず書房
○佐藤良明『英文法を哲学する』(アルク)……目からうろこ!というほど斬新な指摘があるわけではないけど(しかしこれはよく考えたら当然の話ではある)、英語的見方/見え方という視点で統一的に説明されると説得力がちがう。時制のはなしなぞ、いわゆる入試英語に苦しむ受験生にも有用なのでは。
新井潤美『英語の階級』(講談社選書メチエ)……労働者階級より、むしろ中流階級(の中・下層)の言葉遣いが嘲笑の的になるそうな。そしてそれはアメリカ英語への蔑視とも共通する。どういうことかといえば、粗野野卑な表現ではなくむしろ気取った・もったいぶった・抽象的な表現がかえって《成り上がり》の典型と聞こえるらしい。本邦に例をとるなら、ちと古くさいが「ざあます」言葉みたいなものか。それにしても、フィクション(小説でも映画でも舞台でも)で、アクセントや語彙によって(特に前者)風俗の微妙な質感を描き出せる英語がうらやましい。

 

 

精進百撰

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花づかれ

 桜より断然梅派だったのだけれど、この三年の騒動を経て花のうつくしさがしみいるように思えてきた。無論こちらが断固たる中年になったせいもある。ともあれ、加賀金沢は別格としても、花隈城・須磨浦公園、そして妙法寺川と今季はかなりまめに出かけた。近場ばかりだが、別に名所に行きたいわけではなくただ花をながめくらしたいだけなので、これでいいのである。
 うらうら晴天の花隈城、暮れゆく海を背景の須磨浦公園妙法寺川の夜桜と趣が異なっていたのも嬉しかった。花隈城では『いたぎ家』心づくしの花見弁当、妙法寺川では高速神戸『立ち飲み しゅう』のあつあつ関東煮(川沿いの夜桜見物は寒いのだ)。来年はどのように花を見ているんだろうか。

 夜桜や鬼のことばのうつくしき  碧村


井上ひさし『うま ー馬に乗ってこの世の外へー』(集英社
○岡田精司『京の社 神と仏の千三百年』(ちくま学芸文庫)……代表的な神社の性格を丁寧にまとめている(つまり史料の羅列ではなく)。随時参考にできる一冊。
竹田青嗣『新・哲学入門』(講談社現代新書)……竹田さんの代表作(になるのであろう)『欲望論』のエッセンスだった。これだから新書はコワい、と思って読みさし(ならあげるな!)、改めて『欲望論』に取りかかることにする。
プラトンゴルギアス』(中澤務訳、光文社古典新訳文庫)……後半、カリクレスとの対話がやはり圧巻。弁論術を批判しながら恫喝・言い逃れ・論点ずらし・居直りなどなどのレトリック尽くしになっているところがすごい。現代のネット空間に溢れる言辞(政治家には限りません)とちっとも変わらない。いや、こんなに修辞の妙は尽くしてないか。あと、論駁されたゴルギアスの態度が立派。修辞学贔屓としては、「よっ希臘屋!」と声をかけたくなる。
○山口幸洋・河西英哉『大正女官、宮中語り』(創元社)……公家・梨木家に生まれ大正天皇に仕えた「椿局」のインタヴュー。大正天皇の肉声(口調)がやはり興味深い。あの「ご不例」は精神的なものというより、幼少期に女官が抱き落として脳震盪(?)を起こしたことに起因する、と断言している。なるほど。大正天皇の伝記見ても、結局よくわかんないんだよな。
○ロザリンド・H.ウィリアムズ『地下世界』(市場泰男訳、平凡社
○木村洋『変革する文体』(名古屋大学出版会)……書名だけで手に取ったら、大学の後輩氏の著述なのであった。
○三浦佑之『風土記博物誌』(岩波書店
○ティモシー・ウィリアムソン『哲学がわかる哲学の方法』(廣瀬覚訳、岩波書店
浅倉久志編・訳『ユーモア・スケッチ傑作展』(国書刊行会
○トマス・M.ディッシュ『SFの気恥ずかしさ』(浅倉久志他訳、国書刊行会)……読み応えあり。ブログ子、ほんっとに『歌の翼に』と『いさましいちびのトースター』しか読んでなかった。当然批評家としてのディッシュには初見参。若島先生の解説では「いじわるさ」に脚光が当てられている。たしかにかなり猛烈なものだけど、しかしこの辛辣さは、イギリス人やフランス人とはやはり違って、アメリカの作家一流の率直さと誠実さからくるところが大きいのではないか。たとえばスティーヴン・キングのエッセイのような。
○春日孝之『黒魔術がひそむ国 ミャンマー政治の舞台裏』(河出書房新社)……2005年、新都ネピドーへの遷都を突如敢行して国際社会を驚愕させたミャンマー。当時最大の支援者だった中国すら情報をつかんでなかったという。そのネピドー遷都を含め、現代ミャンマー政治史の裏にうごめく占星術・手相・厄払い・数秘術・霊能者信仰・精霊信仰などについて新聞記者が現地で取材した。遷都には合理的根拠があると筆者は判断する一方で、なにやらおどろおどろしい民間信仰の跡もまた見逃さない。まがりなりにも近代国家として成立したはずの国で、ここまでオカルト的風習が根を張っていたとは。とまずは驚愕する。ついで、しかしこうした「かのやうに」の体系が浸透してるというのは、それなりにスタビライザーとしても機能してるんではないか、とも考える。上座部仏教ならではの、出家者に対する敬虔な崇敬と両立しているのだ。魂の救済と御利益とを恬淡と使い分ける態度はいっそ見事とさえ言える。あと、軍政/アウンサンスーチー/ロヒンギャなどについて通り一遍の評価を下していないところも読み所。
○ウォルター・M.ミラー『黙示録3174年』(吉田誠一訳、創元文庫)……ディッシュの本から。第三部における医師と修道院長との倫理の対立は図式化されすぎの感はあったけど、このプロットにもかかわらずユーモアが滲み出る風情がいい。これでこそ最終場面が活きる。解説(池澤夏樹)はSFかどうかにやたらこだわっているのはやっぱり時代だなあ。今出たら「普通の小説」である(アトウッドを見よ)。
山本ひろ子摩多羅神』(春秋社)……『異神』著者によるマタラ神再考。服部幸雄などのマタラ=後戸=芸能神説批判もある(鯨馬は論証不足のように思う)。マタラ好きには見逃せない。
浅倉久志編訳『ユーモア・スケッチ傑作展』(国書刊行会)……なつかしのアート・バックウォルドも入っていた。要はああいう「スケッチ」です。