この豊饒なる小世界

 バルコニーがたいへんなことになっている。90平米の部屋に対してその半分ほどもあって、ルーフバルコニーの方はピクニック(?)したり、プールを出したり、こたつに火鉢を出したり(気違い沙汰)して堪能しているが、今回はそちらではない。生き物係からの報告である。

 めだか鉢に入れる水草、毎年アナカリスやホテイソウ、フロッグピットでは面白くない。今季はやや値は張るけど侘び草を投入。アクアリウムに興味ない方に注しておきますと、これは数種の水草を寄せ植えした商品で(@AQUA DESIGN AMANO)、ある程度育成されているから育てやすく、土も付いているのでそのまま水槽にほうりこめる。要はチートモードの水草なのです。

 南向きとはいえ直射日光は当たらず、ナウシカの故郷くらいにいつも風が吹きとおる立地という条件がよかったのだろう、あっという間に繁茂して、鉢からこぼれんばかり。光合成して成長する過程で水中には充分な酸素も供給され、水質も浄化してくれる。だから時々足し水するくらい。黒メダカ五匹で始めたところ、今では針子(稚魚)がどんどん殖えている。爆殖というヤツである。

 爆殖してるはメダカだけではない。コケ(藻類)殲滅のために送り込んだミナミヌマエビ部隊もまた「産めよ殖やせよ鉢に満てよ」とばかりに子作りにはげんでおる。五ミリ足らずの針子と子エビがつまつまちまちま動き回ってるのを見てると、なんとなく笑みが溢れてきて気がつけば小半時くらいにたにたしながら水面を眺めている(気違い沙汰)。

 ミナミヌマエビでもとどまらないのです。メダカ及びこれは室内の熱帯魚の餌用にと、スチロールケースで飼養しだしたミジンコがまあまた殖えること殖えること。顕微鏡もってないのでルーペで覗くくらいなのですが、ひっきりなしに文字通り微塵のような連中が蠢動してる光景には、何かこう、人をして「ほうと」とせしむる(@折口信夫)ものがある。今やエサというより愛玩のために飼ってる(といっても時折植物プランクトンの素をふりかけてるだけ)ような按配である。地球上で人類がちょこまか愚行にふけってるのを眺めてる神様もおんなじような気持ちなのだろうか。


○ピエール・グロード、ジャン=フランソワ・ルエット『エッセイとは何か』(下沢和義訳、選書りぶらりあ、法政大学出版局
酒井順子『日本エッセイ小史』(講談社
○澤井繁男『ルネサンス文化講義 南北の視座から考える』(山川出版社
○藤原聖子編『日本人無宗教説 その歴史から見えるもの』(筑摩選書)・・・・・・言説分析の手法による、通史的叙述(ただし明治以降)。すなわち無宗教か否かの判定には立ち入らず、《無宗教》という軸が立ったその時からいかなる問題系が産出されるかを追っていく。主に新聞記事に載った論者の主張を見てると、どんな概念でもイデオロジックに操作可能なんやなあ、と痛感する。
○山本淳子『古典モノ語り』(笠間書院)・・・・・・モノを語って、でもいつも《文学》の中心からそれない姿勢が好もしい。
三枝暁子『日本中世の民衆世界』(岩波新書
ジュール・ヴェルヌ『シャーンドル・マーチャーシュ』上下(三枝大修訳、ルリユール叢書、KADOKAWA)・・・・・・ヴェルヌ版「巌窟王」。元からSFの開拓者としてのヴェルヌはあまり評価してなかったので、『カルパチアの城』とか『黒いダイヤモンド』とか、本作みたいな伝奇・冒険モノの方がよほど楽しめる。
ジョージ・オーウェル動物農場』(吉田健一訳、中央公論新社)・・・・・・吉田健一オーウェルの取り合わせ!
○児玉聡『オックスフォード哲学者奇行』(明石書店)・・・・・・飄々とした語り口がなかなか読ませる。ショーペンハウエルやらシェリングやら、奇矯な世界観の発明者ならともかく、日常言語の分析に足場を置くオックスフォード学派なればこそ、よけいに「奇行」ぶりが際立つ。ただし、アンスコムとその師匠であるウィトゲンシュタインが突出しすぎていて、他は「まあ、おるわな」と思ってしまいますね、正直。付録の、イギリス生活にあたっての細々した報告(水道料金どうする、とか)が興味深い。日本はこういう点、かなり効率的になってるのではないか。
○茂木誠『世界史講師が語る教科書が教えてくれない「保守」って何?』(祥伝社)・・・・・・臆面もない張り扇調が愉快。しかしこのように超越的な視点から保守かそうでないかを裁断する姿勢って、「保守」なのか?
○シルヴィア・アサー『大いなる探究 経済学を創造した天才たち』上下(徳川家広訳、新潮社)
○浅野和生『エルサレムの歴史と文化』(中公新書
○後藤淳一編著『はじめての漢詩作り入門』(大修館書店)・・・・・・練習問題が用意されていて、実用的。
○金澤裕之『幕府海軍の興亡 幕末期における日本の海軍建設』(慶應義塾大学出版会)・・・・・・整理が行き届いているから、近世的「軍役」から国家軍への転換の生々しい過程がよく分かる。嘉永まで大船建造を禁じていたのが怪我の功名で、陸軍より早く創設できたのだ。ま、転換した途端に幕府はつぶれてしまうのだが。海舟に人望がなかったというのは意外。
刑部芳則『公家たちの幕末維新 ペリー来航から華族誕生へ』(中公新書)・・・・・・あきれるほど詳細に、ペリー来航以後の宮廷におけるごたごたを記述している。新書の規模でここまでまとめるのはたいへんな苦労だったろう。昭和のいくさに際しての、革新官僚どもの跳ねっ返りぶりを否応なく想起させられる。いま流行り(?)のターム(罵詈雑言?)でいえば、公家、それも中流以下の公家はサヨクだったんですな。観念的で一方的で暴力的。オレが一橋慶喜だったら全員ギャクサツしていたな。それにしても、「御一新」の後、ようやく華族として正式に表舞台に立ったときには、真の意味での政治生命がすでに終焉を迎えていたというアイロニイの痛烈さよ。