フジミのあいつ

  生きのよい川津海老が安かったので、茄子とくっつり炊いた。この日は鹿の子に包丁目を入れて水にさらしただけだったが、丸のまま揚げてから炊いてもいい。味はこころもち濃いめ。肝腎なのは一晩味を含ませること、冷たく冷たくして食べること、摺り生姜を忘れないこと。ビールよりは冷酒かな。

  この日はこれに冷麺というなんだか変な組み合わせとなった。冷やし中華はあまり好まないけど、冷麺はむしろ好物。麺は半人前づつ使う。けちっているのではなく、具とスープで十分くらいだからだ。胡瓜の細打ち、自家製塩煮豚も細く切って、それにトマト、もやし、えびの塩ゆで、キムチ(贅沢にするときは蒸し鮑も細く切って)をどっさりのせていただく。まあビールのアテの小皿を一鉢にぶちまけたような感じになるわけです。

  さて冷酒をのみながらの本は塚本邦雄西行百首』(講談社文芸文庫)。雑誌連載からいきなり新刊文庫として出たという変わった成り立ちの一冊。道理で知らなかったことだ。書店で見かけたときには、著者名と西行との組み合わせに、大げさに言えば目を疑ってしまった。

  というのもこの前衛歌人は大の西行嫌い、そして定家びいきを生前から公言していたからである。晩年にいたってこれまでのドグマ(といいたくなるくらい、古典詩歌評釈における塚本邦雄の否定/称揚の措辞は猛烈だった)から「転向」したのか!?と思いつつ読み始めてみると、すごいですね、一冊のいたるところに攻撃的な言辞がみなぎっている。

  犀利な鑑賞者である彼だから、西行の歌すべてを否定しているのではない(それどころかほめるときは無茶苦茶にほめあげている)。真の「敵」は西行本人というより、西行びいきの強固な心情的伝統にあり、という気配が濃厚である。

  つまりそれは日本文学史のメインストリーム全体を敵に回しているようなものである(それにくらべると、讃仰もされたものの定家の敵のなんと多いことか)。断言の激しさや毒に満ちた言い回しには、ぼくでさえ鼻白むところが少なからず。

  大歌人と趣味が同じだと麗々しくいうのも気恥ずかしいものだが、こちらも何となく西行という歌人は苦手である。花月にひたすら心寄せる数寄の者と見せかけて、実は政治的かけひきや歌壇の名誉に人一倍執心していた、という筆者が繰り返し指弾するその分裂が疎ましいのではない(したたか者は大好きである)。

  たしかスタンダール嫌いのナボコフが、『パルムの僧院』の作者をけなすのに「破廉恥なまでに天衣無縫」というような表現をつかっていたと記憶するが、それに近い感じ(スタンダールは好きなのだけど)。たくんだものにせよそうでないにせよ、あまりにすらりと、「エアリアル」(これは大岡信の評言)に詠み下された歌の姿に、気恥ずかしさを覚えてしまう。これはこちらが定家の精妙巧緻や良経の暗愁幽晦の趣に強く惹かれる質であるせいか。

  ここからが本題(やれやれ)。

  さきほど定家の敵(正岡子規はその代表格)の多さといった。「敵」の弾劾の口吻はだいたい一致している。頽廃している、人工的に過ぎる、というのである。だがそれは本当に真率な批判となりえているだろうか。

  定家の歌が頽廃していない、自然に流露している、というのではない。末世に生きる人間が、頽廃に「自然」に反応することこそが自然ではないか、殊更に無技巧を押し立てる心性のほうがどこかひねこびているとはいえないか。そういう疑いをついもってしまう。


  あっという間に本題おわり。『新古今』(と定家の家集である『拾遺愚草』と『平家物語』)が日本の古典にいかれた初めだった人間としてはコーフンしてしまう。冷麺と茄子を食べ終えて、まだ酒が止まらない。明石で買った干しダコをあぶってかじりながら、岩波古典大系の「平安鎌倉私家集」その他をひっぱりだしてあちこちの頁を繰り続ける。


  それにしても和歌はなんといっても短いから、酒の肴には最高だ。今の季節にぴったりの、定家と良経の和歌を最後に(いずれも新古今に撰入)。



   うちしめりあやめぞかをるほとゝぎす啼くやさつきの雨のゆふぐれ 良経
   夕暮はいづれの雲のなごりとてはなたちばなに風の吹くらむ    定家