無可有郷への船

  体育の日の連休だけど、ジムと食材の買い出し以外はずっと家にこもって読書三昧。

  まずは井上ひさしの、没後刊行の二冊『グロウブ号の冒険 附ユートピア諸島航海記』『黄金の騎士団』。いずれも未完だが、完成していればひょっとしてあの『吉里吉里人』を超えていたのではと思わせる緻密で構えの大きい小説である。二作とも、井上文学の持続低音であったユートピアをテーマとしている。そして、まさに死児の齢をかぞえるようなものだが、あえて想像をたくましくすればこれまた井上ひさし的発想からしてどちらもユートピアの崩壊で終わるのではなかったろうか。

  ここで少し注をつけておけば、あくまでもユートピアは「崩壊」するものであって、そこからの「脱出」で物語が終わるわけではない(さしあたって日本文学で例をとれば、倉橋由美子の『アマノン国往還記』がこれにあたる)。ユートピアは完成したとたんに反ユートピアに反転してしまうという構造をもつのは、想像力の論理としてもはやいいふるされたことだろうが、あえて完成までの過程を出来うる限り遅延させ、そして最後の部品がはめ込まれる正確に一歩手前で自壊させる小説の結構に、かえって井上さんのユートピアにたくしたあふれるほどの思いを見て取ることが出来るような気がする。  

  もっとも崩壊の紋様は一作ごとに異なるのもまた当然のことで、たとえば少年(全員孤児である)たちが商品先物取引という舞台で国際資本に対抗する『黄金の騎士団』なら、かれらの文字通りのエル・ドラドはいったいどのような《破綻》を迎えていただろうか。ちなみにこの作品は平成元年の日付をもって中絶している。すなわちバブル経済崩壊後、およびグローバリゼーションとリーマンショック以降はこの小説世界において少々未来の話に属する。もしそこまでを視野に収めて描ききった小説になっていたならば・・・と思うと昂奮を禁じ得ない。二十(一)世紀日本の『人間喜劇』を、ぼくたちは持てたかもしれないのだ。

  もちろん、逆のパターンも考えられる。逆というのは、ユートピア文学が妍を競った十八世紀の哲学的コントのごとく、あえて軽薄に(ディドロ!)皮肉にそして優雅にすとんとオチをつけて終わる、あのやり方を思い浮かべているのである。『吉里吉里人』(これはコントどころか堂々たる大作だが)の、あのアッチェレランドのように(由良君美はもう少しじっくりとカタストロフを語ってほしかったと注文をつけていたが)。

  自分が書きたいと思っている(でも書いていない)小説は「一文明の崩壊」が全体の経(たてすじ)となっているためか、あれこれと妄想の広がる、つまりいい読書経験をさせてもらった。作者に合掌(これも遺稿である『一分ノ一』の刊行はまだか)。

  それにしても未完で終わったこの二作がかえって端正な完成の印象を与えるのは不思議なことだ。これもまたユートピア的想像力のある本質を示しているのかも知れない。


  ・・・まずはと書き始めたものの、だいぶん長くなったので他の本の感想はまた次回で。

グロウブ号の冒険――附 ユートピア諸島航海記

グロウブ号の冒険――附 ユートピア諸島航海記

黄金の騎士団

黄金の騎士団