たとえば『道頓堀の雨に別れて以来なり』でもいい。ひとまずは川柳作家・岸本水府の評伝である。「ひとまず」というのは、水府個人の人生の足跡を辿るにとどまらず、大阪そして日本全体の同時代の川柳界の動きをあやまたずとらえ、そこから近代川柳史のみあもとまで時にさかのぼり、合わせて主として戦前の大阪という都市の政治経済社会生活のくまぐまを生き生きと描き取る。近代川柳の詞華集にもなっている。
文庫版では当然ながら上中下、合わせて千六百頁になる。見るだにうんざりする分量。ところが読み始めると、これがいつまでも頁が減らないようにと祈りたくなるくらいに面白い。ひとえに作者の《眼》の冴えによる。全冊どこのくだりを取り出してみても、田辺聖子の声がぴぃーんと響き渡る。
しっかり調べて、じっくりと眺め、なで回し、得心のゆくまで(あるいは得心には到りえないと悟るまで)考え抜いた。何よりその過程一切を存分に愉しんでいたことは明らかである。愉しむ、とはつまり文学者として対峙していたということであって、博引旁証は知識情報の羅列に堕さず、かえって論旨に花をそえる。蛇足だろうけれども、愉しみと身の細るほどの苦心とはこの場合一つことである。
当世風俗の取り入れ(特に食べもの、食事の活かしかたは絶品であった)、大阪ことば、エッセイでの軽妙なやり取り、そして世に名高きタカラヅカびいき・・・どれも田辺さんを語るには欠かせないエッセンスではあるけれど、文藝における機微、人生における「あや」(西欧語では「修辞」と同じ語で表される)、両方をごく自然に透徹してしまう《眼》の持ち主を形容するのに、本質的に知的だった、という以上の表現が思い浮かばない。
大阪ことばへのこだわりは単なるローカリズムではなく、相対的な思考視線の謂であるし(そこでは東京文化だけでなく、無論大阪の気質・人性・風土も相対化して眺められるのである)、『女の長風呂』シリーズでの精彩に富んだ掛け合いは家族も仕事も所詮は関係ない、人間はひとり、というきびしい認識に裏打ちされたものだった。
だからといって、世を白眼視する偏窟な隠者のイメージにちっとも結びつかないとこがいかにもこの作家さんらしい。だいぶ前になるが、田辺さん行きつけの某店に入ったことがある。「いつも楽しそうにお酒呑んではりましたでえ」と店主に聞いて、ありそうなことだ、いやそうあって然るべきだ、そうこなくてはならんのだ、とこちらまで愉快になって杯を重ねたのである。
※田辺聖子の小説作品をひとつも挙げてないではないか。しかしこちらの見方では田辺さんの小説は出来不出来の差があまりなく、というよりは洋菓子にするか和菓子にするかという、その時々での気分に任せて愉しむのにふさわしいものだから、特定の作品をあげるのは意味がないのである。
道頓堀の雨に別れて以来なり―川柳作家・岸本水府とその時代〈上〉 (中公文庫)
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