市中の大人(たいじん)~追悼 田辺聖子

 たとえば『道頓堀の雨に別れて以来なり』でもいい。ひとまずは川柳作家・岸本水府の評伝である。「ひとまず」というのは、水府個人の人生の足跡を辿るにとどまらず、大阪そして日本全体の同時代の川柳界の動きをあやまたずとらえ、そこから近代川柳史のみあもとまで時にさかのぼり、合わせて主として戦前の大阪という都市の政治経済社会生活のくまぐまを生き生きと描き取る。近代川柳の詞華集にもなっている。

 

 文庫版では当然ながら上中下、合わせて千六百頁になる。見るだにうんざりする分量。ところが読み始めると、これがいつまでも頁が減らないようにと祈りたくなるくらいに面白い。ひとえに作者の《眼》の冴えによる。全冊どこのくだりを取り出してみても、田辺聖子の声がぴぃーんと響き渡る。

 

 しっかり調べて、じっくりと眺め、なで回し、得心のゆくまで(あるいは得心には到りえないと悟るまで)考え抜いた。何よりその過程一切を存分に愉しんでいたことは明らかである。愉しむ、とはつまり文学者として対峙していたということであって、博引旁証は知識情報の羅列に堕さず、かえって論旨に花をそえる。蛇足だろうけれども、愉しみと身の細るほどの苦心とはこの場合一つことである。

 

 当世風俗の取り入れ(特に食べもの、食事の活かしかたは絶品であった)、大阪ことば、エッセイでの軽妙なやり取り、そして世に名高きタカラヅカびいき・・・どれも田辺さんを語るには欠かせないエッセンスではあるけれど、文藝における機微、人生における「あや」(西欧語では「修辞」と同じ語で表される)、両方をごく自然に透徹してしまう《眼》の持ち主を形容するのに、本質的に知的だった、という以上の表現が思い浮かばない。

 

 大阪ことばへのこだわりは単なるローカリズムではなく、相対的な思考視線の謂であるし(そこでは東京文化だけでなく、無論大阪の気質・人性・風土も相対化して眺められるのである)、『女の長風呂』シリーズでの精彩に富んだ掛け合いは家族も仕事も所詮は関係ない、人間はひとり、というきびしい認識に裏打ちされたものだった。

 

 だからといって、世を白眼視する偏窟な隠者のイメージにちっとも結びつかないとこがいかにもこの作家さんらしい。だいぶ前になるが、田辺さん行きつけの某店に入ったことがある。「いつも楽しそうにお酒呑んではりましたでえ」と店主に聞いて、ありそうなことだ、いやそうあって然るべきだ、そうこなくてはならんのだ、とこちらまで愉快になって杯を重ねたのである。

 

田辺聖子の小説作品をひとつも挙げてないではないか。しかしこちらの見方では田辺さんの小説は出来不出来の差があまりなく、というよりは洋菓子にするか和菓子にするかという、その時々での気分に任せて愉しむのにふさわしいものだから、特定の作品をあげるのは意味がないのである。

 

 

 

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緑陰読書

 即位改元のめでたさはそれとして、なんだあの上皇后という称号は。「言うに事欠いて」という表現はあるけれど、皇太后なり大后なり由緒正しいことばがある以上、「事欠いて」ですらない。鰻丼や鮨食ってんじゃああるまいし、全く何たる呼びざまか。「(「皇太后」という呼称には)過去に権勢を振るったというマイナスイメージがあるから」などという言い訳をしてるようだが、それならば「上皇」はどーなる。代わりに「上天皇」とでもするのか。この言い方のいかにもいかがわしい響きからして、役人や政府関係者の思考が愚劣、少なくとも日本語、とはつまり日本文化の伝統に関しては鈍感極まるものであることが分かる。戦前でなくてよかったねえ、きっと蓑田胸喜あたりに狂気の如く噛みつかれてあげくテロの標的になってたところですよ。

 

 連休中もしずかに本を読む。合間に筍をゆがき、蕨をアク抜きして天日干し。無論その合間にも絶えず酒。思いがけない「プレゼント」もあったが、これは書かない。うっしっし。

 

○揖斐高『蕪村』(笠間書院)・・・「コレクション日本歌人選」の一冊。主題別の編輯となっている。揖斐先生ご自身が「詩」の分かる学者だけに、鑑賞文も過不足無し。

青柳いづみこドビュッシー最後の一年』(中央公論新社

大貫隆『終末論の系譜』(筑摩書房)・・・「新訳」「旧訳」に出る終末論の特徴的イメージを整理。イエスが宴会好き、といった、「おっ」という指摘も多い。

佐藤彰一『宣教のヨーロッパ』(中公新書)・・・直接関係ないけど、今の教皇、初のイエズス会出身者なんだってね。

○アルベルト・フックス『世紀末オーストリア 1867~1918』(青山孝徳訳、昭和堂)・・・社会思想よりの視点で、ショースキーのウィーン論の陰画になっている。

○松本栄文『日本料理と天皇』(エイ出版社)・・・なにが言いたい本なのか?

○園部平八『京料理人、四百四十の手間』(岩波書店)・・・「平八茶屋」主人の自伝。若狭ぐじコース、食べてみたいなあ。

池上良正『増補死者の救済史』(ちくま学芸文庫)・・・柳田國男梅原猛の「日本古層論」が批判されているのだが、著者の提出する図式とそれらとの違いがもひとつよく分からん。

レオ・ペルッツ『どこに転がっていくの、林檎ちゃん』(垂野創一郎訳、ちくま文庫)・・・汚された名誉のために復讐を誓う主人公の思い入れの強さがぴんとこないが、あとはさすがペルッツという話運び。フレミングが絶讃したそうです。

鹿島茂小林一三』(中央公論新社)・・・さすが鹿島茂、あまたある小林一三論とは違って、お得意の人口論を切り口に、ぐいぐい読ませる。先行著書への批判はことごとく当たっている。健全な思考というのがいかに強靱か。どんな人にもお勧めできる本です。

釈徹宗細川貂々『異教の隣人』(晶文社)・・・シク教ユダヤ教などの「異教」のコミュニティ探訪録。神戸の登場回数が群を抜いて多い。それだけ風通しのいい街なのだ、ここは。

○犬丸治『平成の藝談 歌舞伎の真髄にふれる』(岩波新書

ニール・ゲイマン『墓場の少年 ノーボディ・オーエンズの奇妙な生活』(金原瑞人訳、KADOKAWA)・・・墓場の住人(つまり死者)と近隣の街の住民(もちろん生者)とのパーティーのエピソードがいい。

井伏鱒二『七つの街道』(中公文庫)・・・全集は持っているけど、こういう形でまとめられた文庫本はやはり有り難い。所々で出てくる井伏調がたまらん。

○宮下規久朗『そのとき、西洋では』(小学館)・・・「そのとき」というのは「日本美術史がこのステージにあった、そのとき」ということである。カラヴァッジョ研究の第一人者による日本/西洋美術史の比較論。鎌倉彫刻と盛期ゴシックが同時代だったんだーなどと気づかされる。「考へるヒント」満載。当方個人としては、王朝文化の影響がかくもながく残ったことと、日本美術―というより日本文化一般―における「草書」的性格(アシメトリや破調の重視など)との関連、という宿題をもらった。

橋爪大三郎小林秀雄の悲哀』(講談社選書メチエ)・・・一応江戸時代のことを専攻してた人間から見ると、小林『本居宣長』の失敗は「勉強不足でしょ」の一言で済ませたくなるが、橋爪さんは丁寧に、あきれるほど丁寧に小林の本文をフォローしつつ、“敗因”を分析していく(川村二郎の文藝時評ははやくに指摘していたことであるが)。それにしても、みんななんでこんなに小林秀雄にこだわるんだろうな。

武田雅哉西遊記』(慶應義塾大学出版会)・・・猪八戒という窓から見た『西遊記』。武田雅哉さんにはどんどん『西遊記』周辺の「神怪小説」を翻訳紹介していただきたい。

 

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酒と桜

 二日連続の花見。どちらも当たり前ながら昼ひなかで、恰度気温が高く、うらうら照る日の下でぼけーっと花を見るような見ないような顔つきで酒を呑むのは格別の味わいでした。

 

 職場からの帰りに通る宇治川沿いは神戸でも割合有名な花どころで、この二日とも人出が多かった。ことに老夫婦が手をとりあってゆっくり歩いているのはまことにめでたい眺めながら、個人的にここの花は夕景以降、それも歩くのではなくバイクで三〇キロほどのスピードで抜けていくのが一等味わい深いと思う。連チャンの花見の翌日は、仕事帰りにこのやり方で独り桜を堪能した。

 

 灯ひとつに花ひともとの世界かな  碧村

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 研究職でもなく(=大学の本が利用できず)かつシブチンである(=新刊本はなるべく買わない)人間は大倉山の中央図書館を利用することが多い。ここの三階(専門図書のフロア)の特集コーナーは行く度にのぞいてみる。最近物故した作家の本など、「ほぅ、こんなのもあるのかね」というのが見つかるのだ。今頃はアレか・・・と思っていくと案の定「日本酒」と「桜」の二本立てでありました。テーマは宴会系でも選択は学術書中心のシブいところが心にくい。前の読書メモからからだいぶ経っているけど、今回まずはここで見つけた本から。

 

石毛直道編『論集酒と飲食の文化』(平凡社

○宮永節夫『日本水鳥記器』

○吉田元『江戸の酒』(朝日選書)・・・時代は江戸だが、地域毎の特色で章立てされているのが嬉しい。

○岩﨑文雄『サクラの文化誌』(北隆館)・・・花見の歴史から、サクラの挿し木の方法まで。ゆるりとぬる燗の対手にするに最適。食卓に載っけるにはかさばるサイズだが。

 

 その他の本。

コーマック・マッカーシー『ブラッド・メリディアン』(黒原敏行訳、早川書房)・・・恩師が教えてくださった本。でもなければアメリカ文学が苦手な人間(ピンチョンを除く)が読むことはなかっただろう。いやー実に「元気な」小説であった。まだインディアン(と呼んでおく)と白人が争闘を続けていた時代のアメリカ。インディアン狩りで報奨金を狙う一隊は、合衆国と対立するメキシコ人のみならず、アメリカ人さえ殺戮の対象として、頭皮(証拠にするのである)を容赦なく剥ぎ取っていくという無法ぶり。ほとんど『北斗の拳』的な世界なのだが、なんというか、アメリカらしくどこか脳天気でパワフルなのですな。延々と直喩が連なる癖の強い文体も奇妙にユーモラス。あとは、《判事》と呼ばれる登場人物の印象(優雅で教養があって人好きがして、冷酷残忍)もすごい。登場した瞬間からオールド・ニックだな、と正体はすぐ分かり、そしてラストではいかにもそれらしく再登場する。映画にもなるそうだが、この場面は確かに映画の画面で映えるだろうなあ。

○同『ザ・ロード』(黒原敏行訳、ハヤカワepi文庫)・・・『メリディアン』が面白くて、すぐに注文。同じく暴力と退廃の支配する世界にしても、こちらは本当の世界終末モノ。舞台もそうだし、父と男の子の放浪だから話に波瀾も華もありはしないのに、一気に読ませる。男の子の内面の成長が(しかし未来はおそらく無い)親子の会話からにじみ出るところがうまい。

マーガレット・アトウッド『オリクスとクレイク』(畔柳和代訳、岩波書店)・・・現代カナダを代表する作家なのだとか。当方はマッカーシー以来、久々に終末モノの小説が無性に読みたくなって手に取った。三部作の第一。『ザ・ロード』とは異なり、こっちは世界破滅の原因・過程がはっきり書かれている、というよりそれがプロットとなっている。天才とうすらとんかちとのコンビという設定が効いている。このジミーなる抜け作くんが魅力あふれる人物である。ベニー・プロフェインかポール・ペニフェザーのよう、と言ったのではちょっと褒めすぎかな?

○同『洪水の年』上下(佐藤アヤ子訳、岩波書店)・・・三部作の第二。前作のほうがはるかに出来がいい。後半『オリクスとクレイク』の世界に物語が絡み出して、それは楽しかったのだが(ことにジミーが登場するところは)、あまりにも律儀に前作と符節を合わせたような筋の運びが少々ダレる。未訳の第三作に期待をつなげよう。

熊野純彦本居宣長』(作品社)・・・哲学者による国学テキスト読解の試み。長大な研究史整理の部分もたっぷり語ってくれている。

○エトガル・ケレット『クネレルのサマーキャンプ』(母袋夏生訳、河出書房新社

ジェフリー・フォード『言葉人形』(谷垣暁美訳、東京創元社

○ノエル・キングズベリ、アンドレア・ジョーンズ『樹木讃歌』(悠書館)

向田邦子『海苔と卵と朝めし』(河出書房新社)・・・食べ物関係のエッセイを集めている。ファンには申し訳無いが、この作者とはやはりあんまり相性がよくない、と思った。

○工藤庸子『政治に口出しする女はお嫌いですか?』(勁草書房)・・・工藤先生のファンなので、早速読んだ。『評伝スタール夫人』のエッセンスとも言おうか。言論空間のありように焦点を当てて論じていく。サロンが公共でも私的でもなくその間に漂う言論の場だという指摘が興味深い。

○アントワーヌ・リルティ『セレブの誕生』(松村博史訳、名古屋大学出版会)・・・工藤庸子の前掲書で参考文献としてあげられていた。有名人、あるいは有名であることの誕生という視点からの近代史。たしかにこの角度から見れば哲学者と俳優も、大貴族と高級娼婦も同一平面に並ぶわけだ。「素朴で善良な植民地人」というイメージを徹底利用したフランクリンから、有名ゆえに肖像画のモデルになったのではなく描かれたから有名になったエマ・ハミルトン、そしてルソーにいたっては著名だから著名人、という同義反復になってしまう。のんびりと文化史の愉しさにふけることは出来るけれど、これ、無論もっとも現代的なテーマなのである。

○近衛典子校訂代表『動物怪談集』(「江戸怪談文芸名作選」第四巻、国書刊行会)・・・様式性に髄までからめとられたような江戸文芸でも、やはり一作一作に「文体」があることが分かる。「怪談野狐名玉」の上方口調が面白かった。どこがどう上方なのか、うまく指摘できないのだが。

木越治・勝又基『怪異を読む・書く』(国書刊行会)・・・木越治教授の古稀記念論文集がはからずも追悼論集となってしまった。木越氏自身の論文が面白かった。それにしてもここに平田篤胤が登場しないのはなぜ?彼こそは怪異を書くことの意味に徹底的にこだわった作者だったのに。

○ロナルド・ジェンナー、イヴィンド・ウンドハイム『生物毒の科学』(瀧下哉代訳、エクスナレッジ

塚本邦雄『百花遊歴』(講談社文芸文庫

○南塚信吾『「連動」する世界史』(岩波書店

○レーナ・クルーン『人間たちの庭 ホテル・サピエンス』(末延弘子訳、西村書店)・・・これも期せずして終末物。

坪内祐三『昼夜日記』(本の雑誌社

○中村邦生『推薦文、作家による作家の』(風濤社)・・・花やかな芸の見本帳のような一冊。

○坊城俊民『宮中五十年』(講談社学術文庫)・・・暴風の日に、子どもの著者と一緒に戸板を抑えていたという明治天皇のエピソードがいい。

小林登志子古代オリエントの神々』(中公新書)・・・小川英雄の説では伎楽の起源はミトラス教の儀式だという。ほおお。筆者はそれに対して「日本書紀にミトラス教の記述は無い」と言う。そらそうでんがな!

○鎌田茂雄『観音さま』(講談社学術文庫)・・・そうそう、観音さまも遠く中東の大地母神に起源があるのだ。

○國方栄二『ストア派の哲人たち』(中央公論新社)・・・文字通りのコスモポリタン世界になりつつある今、人々の意識を呪縛するのは復活するヘーゲルの壮大な物語か、あるいはストア派の「安心立命」かでなくてはならないのである。

○ジョゼフ・チャプスキ『収容所のプルースト』(岩津航訳、)・・・収容所の極限状況では、ことばは必然的に過去の記憶の中でしか用いられない、とは詩人石原吉郎の証言。無論その過去は幸福で豪奢な記憶なので、だからこそプルーストなのだ。カフカのことなど思い出すまでもない、ということだろう。

 

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ハイジン同盟

 酒の席でのふとした一言から拙宅で連句を興行することになった。さるにても酒席から始まる物事の多い人生であることよ。

 

 連衆は当然ながら呑み友だちばかり。芭蕉翁の戒め(「俳諧では酒三盃を過ぐすべからず」)に背いて、酒宴の設けも怠らない。というか、歌仙をダシに家呑みをしようという下心少なしとせず。

 

 ともあれ、当日の献立は以下の如し。

 

○先付……茶碗蒸し(蛤の出汁に淡口を滴々と。へぎ柚子と三ツ葉を添える)

○造り……①鯖きずし(擂り生姜と大根おろし)、②平目昆布〆(山葵)

※前々日から湊川の市場を覗いて回っていたのだが、いかなご漁の時期と重なっていたせいで魚種が少なく、揃えるのに難儀した。

○炊合……鯛の子・蕗・筍・菜の花(鯛の子と筍以外は炊くのではなく、出汁に浸して味を染ませる。酒をたっぷり使う)

○八寸……①新若布と新子二杯酢、②菊の胡桃和え(菊は八戸の干し菊を湯がく。胡桃を摺りたおしたあと、自家製赤味噌と辛子で味を調える)、③独活と鶏皮の梅肉和え(梅肉は煮切り酒と味醂でのばす)、④穴子三つ葉の山葵和え(穴子は焼き。天盛りに焼き海苔をたっぷりと)、⑤分葱と烏賊のぬた(烏賊は鯣烏賊)、⑥蛸の小倉煮(小豆と煮る。砂糖と濃口でこっくりと調味)、⑦ひね沢庵と縮緬雑魚の炒め煮(沢庵は水にさらして塩抜き。味付けは酒・味醂・淡口と鷹の爪)、⑧山の芋の酒盗漬け(芋はアラレに。酒盗は酒でさっと煮ておく。一晩漬けたあと、鯛の子でつくった塩辛をまぶし、摺り柚子をちらす)

○煮染……里芋、蓮根、牛蒡、椎茸

○強肴……①茹でタン(一週間ソミュールに漬けておく。クレソンを下に敷き、マスタードを添える)、②蒸し鶏比内地鶏のももを、鶏ガラスープに一晩漬けておく。出す時に大蒜・生姜・長葱の微塵を盛り、辣油と胡麻油を掛け回す)、③若菜のサラダ(コゴミ、菜の花、クレソン、三ツ葉、芹、ブロッコリー、スナップ豌豆、独活菜。ドレッシングはオリーヴ油・シェリービネガー・塩・胡椒・蜂蜜・マスタード

○飯……酒鮨(鯛・平目・鰺・鰆は塩をして酢洗い、鳥貝・烏賊はさっと湯がいて酢洗い、焼き穴子は細かく刻む。蕗・筍は地酒(という鹿児島のリキュール)・塩で煮る。芹は湯がく。上に錦糸卵と木の芽をのせ、地酒をふんだんにふりかけて一晩圧しておく)

○汁……浅蜊汁(浅蜊を酒蒸しのあと殻を外す。その出汁に昆布出汁を混ぜ、アラレに切ったトマトを入れ、豆乳と赤味噌で調味。吸い口は粉山椒)

○香の物……毎度気張るのはココ。今回は、①菜の花辛子漬け(塩麹で一晩、食べしなに溶き芥子で和える)、②壬生菜二種(昆布・鷹の爪・塩で青々と漬けたものと、同じく昆布・鷹の爪だが、塩糠で鼈甲色になるまで漬けたのと。後者はかなり酸味が出ている)、③白菜漬け、④胡瓜の味噌漬け、⑤沢庵

 

 大皿を何枚も並べる余裕が無かったので、八寸は銘々ぶんを松本行史さん作、胡桃・拭き漆の手刳弁当箱に盛り付けた。これは色々応用できそうな使い方ですな。

 

 あと、作り手として一等気に入ったのは菊の胡桃和え。もう少し辛子を効かせれば、鯛や烏賊の造り身や隠元と和え混ぜにしたり、薄切りの蕪で巻いたりと展開できるはず。

 

 酒はお持たせ。こちらの提供した赤ワインも含め、案の定ぺろりと空いてしまう。

 

 さて一応はこの日の眼目たる句会ですが、予想通り半歌仙(十八句)を過ぎたあたりで時間切れ。連衆お三方のうち、洒落神戸・和韻御夫妻は俳句の方では経験を積んでらっしゃるが(夏井いつき先生の弟子なのです!)、俳句も初めてという咲月さんも含めみな連句は未経験者。捌き手としては、無論あれこれ言いたいことがありますが、仏がおでどんどん通しちゃう。初手は旨い汁を吸わせておいて、行きも退きもならぬ所までハマったところでおもむろに「鬼の宗匠」と変化しようという、素人をなぶる賭場のヤクザなみの深謀遠慮が隠されているのであった。

 

 ここで書いたのでは深謀遠慮にならないわけですがね。

 

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女中的視点

 大阪市立美術館フェルメール展、早めに御覧になるほうがいいですよ。これからどんどん混んでくること間違いなし。それくらい充実した出品でした。ま、フェルメールの名前が付いてるならどのみち人気が出るんだろうけど。

 

 お目当ては『手紙を書く女と侍女』。ずいぶん前にたしか上野の美術館で見て魅惑されたおぼえがある。今回も他の絵はすっ飛ばして駆けつける。人だかりはしているものの、大阪市立に『真珠の耳飾りの少女』が来た時ほど押し合いへし合いではないからちょっと時間をかければ充分観賞できます。

 

 誰だってまずは画面左に立つ侍女の表情に目が行くだろう。女主人が一心に手紙を書く卓の後ろに控えて、例の如く外光が柔らかく射し込んでくる窓の方を見遣っている。

 

 従僕の目に英雄なし。そんな格言が思い出されるような、皮肉なような物言いたげな表情で、実際この情景から侍女の内面に焦点を当てていくらでも物語を紡ぎだしていくことも可能だろう。そう言えばむかし祖母の家に家事手伝いに来ていたノブコおばちゃんは時折こんな表情をしていたような気がする。使う者と使われる者との隠微な葛藤はいずこも同じ・・・。

 

 という、言ってみたら小説的(いっそ二時間ドラマ的と言おうか)感興が今回ほとんど湧き上がってこなかったのは意外だった。それよりもタブローから《魂の状態》が波のように放射されていることにびっくりした。絵画はここまでのことが出来るのか。

 

 感情でも心理でもなく《魂》。だから言語で分析して伝えることは無理なのだが、二人の女性の別々の《魂》が、フェルメール一流の光と、窓外から伝わってくる街の音(高からず低からず)とひとつになって、ある時間として流れ出してくる感覚。純粋持続とはこういうものなのだろうか。

 

 

○フィリップ・イードイーヴリン・ウォー伝』(高儀進訳、白水社)……ウォーの伝記はずいぶん出ているらしい。人間としてのウォーがずば抜けて面白いというよりも(いや、相当なタマなのですが)、イギリス人がそれだけウォーのこと好きなんだろう。筆者はウォーの子孫から膨大なアーカイヴを提供され、それをしっかり使いこなしている。うーん、やっぱり伝記の国だけはある。「評伝」などという甘っちょろい読み物には非ず。それにしても、宝くじかなんかで大金が入ったら、つまり仕事しなくてもいいようになったら、いま出ているというウォーの決定版全集に、日がな一日読みふけりたいものである。

○駒井稔『いま、息をしている言葉で。』(而立書房)……近年の文庫では最大(かつ最良とも言える)の企画である光文社古典新訳文庫編集長の回想録。週刊誌でエロ記事書いてる人だったとは知らなんだ。書物としては、個人的な回顧が多くそれほど読ませるわけではない。

横山百合子『江戸東京の明治維新』(岩波新書)……《御一新》後の江戸=東京の零落ぶり、大名や大身旗本の屋敷があれよあれよと桑畑に変じてゆくのをほとんど原風景であるかの如く描き出したのは明治モノにおける山田風太郎。その裏側のごたごた・すったもんだを色んな角度から照射してみせた一冊。風太郎のサブ・テキストとしても読める。実際小説の素材の宝庫である。鯨馬は最後の弾左衛門(非人の首領)の「もはやこの方の支配もこれまで」という嘆声に深い感銘を受けた。それにしても、明治維新って大袈裟に称揚する向きも少なからず。たしかに偉業ではあるのだが、これを顧みるに一大喜劇だったのではないだろうか。

トクヴィル『合衆国滞在記』(大津真作訳、京都大学学術出版会)……名著『アメリカの民主主義』が理論の結晶だとすれば、これはそれを支えるフィールドワーク。クエーカー教徒との出会いなど、むしろ普通に読んで面白いのはこっちの方かも。

○ジャック・ブノワ・メシャン『庭園の世界史』(河野鶴代訳、講談社学術文庫)……文庫一冊での「世界史」だから、クレイグ・クルナス並みの迫力は期待しないけど、やっぱり中国・日本の扱いは紋切り型そのものだなあ。

庄野潤三『水の都』(小学館)……妻の親戚で古い大阪のことを知っている人物に話を聞きに行くだけ、という小説(随筆?)なのだが、それこそさらさらと流れる文章が気品があって読んでてまことに気持ちよい。本書で紹介されてた『笑われ草紙 大阪昔がたり』、早速買いました。

福本邦雄『表舞台裏舞台 福本邦雄回顧録』(講談社

○廣野由美子『批評理論入門 「フランケンシュタイン」解剖講義』……あまりに律儀すぎて、なんだか笑えてくるのですな。

山崎正和『リズムの哲学ノート』(中央公論新社)……『装飾とデザイン』『神話と舞踏』と本書で山崎世界史の三部作になる、と思っている。題名から分かるとおり、これまでの切り口と違って、リズム一元論―というか汎リズム論―に到達しているが、細部の示唆がなによりの御馳走というのは変わらない。たとえば無常観。あれは流れ去ることへの感慨ではなく、リズムを感じ取ったときの感銘なのだという。あっ、という日本文化論ではないです?

○湯澤規子『胃袋の近代』(名古屋大学出版会)……《孤食》は今に始まったことではない。戦前の小説(私小説系統か否かを問わず)のかなりの部分が孤食小説と見ていいのではないか、とか思いながら読む。

鈴木健一編『輪切りの江戸文化史』(勉誠出版)……『人類の星の時間』江戸版。

上野誠折口信夫的思考』(青土社)……長篇批評かと思ったら、既発表の論文・エッセイ集なのだった。全体に食い足りず。折口の小説の読み込みも特に清新とは言い難い。それより、万葉研究ではとっくに民俗学的方法は破綻している、という一言にぶつかって、へえと思った。そんなもんなのですな。

古山高麗雄『編集者冥利の生活』(中公文庫)

○『橋本多佳子全句集』(角川文庫)

 

 工藤庸子先生(愛読者であります)の新刊及び関連書については次回で。

 

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金沢

 白山比咩神社の境内にもほとんど雪は無かった。義理堅く立春春一番が吹いて気温が異様に上がったせいらしい。一年前は三十数年ぶりとかの大雪で営業を休んで雪かきに追われたのを思うとまるで嘘のよう。

 

 とは『料理旅館和田屋』の仲居さんの話。今回当方が通されたのは一階の部屋で、目の前に池が見えるのだが、そう聞くと鯉の動きも心もち潑剌として見える。暖房もすぐに切ってもらったほどで、床の白椿と千代女の軸(「竹の音丸ける頃やみそさゝゐ」)にわづかに冬の気配を探る、といった按配。

 

 二年ぶりなので、「ジビエ尽くし」のコースを頼んでいた。料理以下の如し。酒は『菊姫』「鶴乃里」。やはり酒はその地で頂くのが一等旨い。

 

○前菜(菜の花ひたし、せんな粕漬け、鴨ロース、鮎粕漬け、鱒の松風焼き、柿とチーズ)

○椀(雉と能登椎茸の白味噌椀。どうせなら寒いなかふうふうしながら啜りたかった)

○造り(岩魚、ごり)

○焼き物(岩魚)

○煮物(熊鍋。岩魚を炙った囲炉裏に鍋を掛ける)

○しのぎ(岩魚の親子鮨。身と飯を大根でくるみ、その上に卵をのせている。じつに可愛らしい)

○蓋物(すっぽんの茶碗蒸し)

○強肴(鹿のソテー、バルサミコソース)

○飯(芹飯。彩りも香りも芹好きには堪らぬ。残りはおむすびにしてもらった)

 

 鶴来から金沢まではタクシーで戻る。北鉄金沢線は、周囲の風景といい列車の揺れ具合といい旅先の昼過ぎにはまことに結構な乗り物なのだけれど、時間がかかるのでこの日は行きのときだけ使った。

 

 無論金沢市内に雪は影も形も無し。ホテルで小憩の後、いつも通り足に任せて歩き回る。月曜だったせいか、長町辺りでも惧れていた程観光客の姿はなかったものの、知らない店がいくつもいくつも出来ていたり、新しいホテルをまだいくつも建ててるのには鼻白む。暖かいとはいえ北国二月の夕暮れの暗さのなかをいつしかとぼとぼ歩いているのであった。

 

 晩飯はここもお馴染み『天ぷら小泉』さん。鯨馬を除くとアジア系外国人ばかりというのも二年以前には無かった光景。もっとも、さすがに馴致されたのか比較的裕福な層が来るのか、皆穏やかに「辛口の酒を燗で」とか注文していた。

 

 この日のコースは、

○先付(ばい貝の酢味噌)

○造り(なめら(ハタである)、がす海老)

○椀(鴨と丸葉春菊、真薯、干口子)※春菊も干口子も小泉さんは英語で説明していた。「なまこノ腸ノ乾シタモノ」なんて言われて分かるんだろうかしかし。

に続いて天ぷらで、

○海苔の天ぷらに生海胆を乗せたのと、烏賊を乗せたのと。

○車海老二趣(そのままのやつと、頭のミソを残して揚げたのと)

○蕗の薹

○蟹

○牡蠣

○菊芋

能登椎茸

○鰆

○タラの芽

○海老頭

 最後に天ばらが出て、苺。「これは是非たっぷりまぶしてどうぞ」と出て来たのは和三盆。なんともすずしい甘さだった。酒は『宗玄』の「隧道蔵」というのが良かった。その名の通り、トンネルの中で寝かせたのだそうな。

 着たのは五、六回という程度ながら、来る度に天ぷらが旨くなってきているような気がする(前が旨くなかったわけではないのだが)。小泉さん、たしか茶の湯をやってらしたはず。一度懐石料理を食べてみたいなあ。

 

 その後が『quinase』で呑むのは、そもそもこの店を教えてくれたのが小泉さんだから、当方としては理の当然というところ。四杯で構成してもらった。はじめはシャンパーニュ。二杯目がブルゴーニュで、あとはこちらの希望でラム、そしてマディラ。

 

 金沢も変わったがこちらも変わった。この夜はこれで御帰館と相成る。ホテルのベッドでしばらく、金沢を叙した吉田健一の文章のあれこれ、その中のくまぐまを思い出し辿り返ししていた。

 

 翌朝は『和田屋』の芹飯とカップ味噌汁で簡単に済ませ、駅の方へ。これだけ訪れた割には港方面を見てないことに思い至って足を向けようと言うわけ。エムザ前で恰度金石行のバスが来たので取りあえず乗ってみる。正確な位置関係は把握しとらんが、ニューギニアの奥地に来てるのではなし。何とかなりましょう。

 

 途中、金沢駅から西の方は有り体に申せば埃っぽい市街地であって、特に奇とするものはない。ただバスの終点から歩き出すとすぐに車の音が消え、大きな蔵が見えてくる。金沢関連の本に、そう言えば大野の辺りは醤油醸造が盛んと書いてあったはず。年間を通して雨の日が多いことが良い条件になったらしいが、この日は上着も脱ぎたくなるくらいの晴天。ともかくも静かな町並みをゆったり急がず歩いていく。

 

 途中は海沿い(でも海面は見えない)の一本道が延々続くのに閉口したが、こまちなみという大野の中心地区の眺めは堪能できた。統一され、しっとり落ち着いた町屋が固まっていて、これは小声になるけど金沢の中心部よりよほど眺めがいい。観光客は誰もいないのもよろしい。

 

 こまちなみの中の立派な鮨やに食指は動いたものの、港近くに食堂があるらしいので今回はそっちを採った。昨日はオーセンティックな店ばかりだったしね。入ったのは十一時過ぎで初めは此方ひとりだったのに、三十分も経たないうちにほぼ満席。飯はいいので、アオリイカの刺身とキスフライを頼んだところ、大瓶ビール2本でようよう片がつくような量であった。さすが『厚生食堂』。無論船員の福利厚生という意味である。いかにもスマホで検索してきましたという観光客に交じって、これまたいかにも船員(船員くずれ?)というガラガラ声のおっさんが昼間っからコップ酒をちびちびやっていた。敬礼。

 

 かなりお腹がくちくなったので金沢駅まで歩いて戻ることにした。これは相当な距離なのである。天気は上々にしても、ともかく見るべきものの無い大通りで(県庁の他は、家具屋が多かった。土地が安い所為だろうか)、酔狂な旅人もようやく倦んできたあたりで駅が見えてくる。

 

 当然次は立ち飲み屋を探したのであったが、昼間で開いてるところと言えば近江町市場の中の一軒くらい。覗いてみるに観光客の喧噪、あたかも道頓堀かUSJの如し。さっさと退散し、結局は昼からぶっ通しで開けている、どこにでもありそうな居酒屋でハイボールをがぶがぶやって色んな渇えをなぐさめたのだった。

 

 ここまではまあ、一勝一敗といったところ。このあとは実にもう、連戦連勝の勢いであった。

 

 まずは温泉。何時間も歩いて棒になった足をもどすべく、某ホテルの屋上温泉に立ち寄る。いくら気温が高めといっても、二月の金沢、それも屋上の露天温泉である。浸かった瞬間に恍惚とする。おまけに片町交差点のすぐ側に立地しているので、中心部を上から見渡せるという余禄にもありつける。もっとも右にも左にもホテルらしい建築現場が否応なく目につくのには憮然としたが(そういう当方も高層ホテルの屋上にいるわけだが)。驚喜したのは、犀川上流の方に白山山系と思しき白く光る山並みがちらりと見えたこと。紅塵の巷から眺める「白山」はほとんど白昼夢のようだった。

 

 すっかり気分が良くなって広坂から新竪町にかけて散策。塗りの汁椀と九谷の角皿のいい具合のがあれば、と器・骨董の店を見て回る。結局両方とも行き当たらず、いつものように『オヨヨ書林』で数冊買っていったんホテルへ戻り昼寝。

 

 二日目の夕食は初見参の『八十八』。「はとは」と読む。木倉町も何度も歩いたが店に入るのは初めてなのだった。割烹よりやや居酒屋寄りの小体な店。元和菓子屋という風情ある建物をいい感じに再生している。食べもんやするならこういう店構えがいいなあと考えているうちに先付の茶碗蒸し(白魚と蕗の薹)が運ばれて来た。洒落た味。

 

 こういう所なら、と珍しく注文した鰤の刺身は芽ネギ・柚子・塩昆布などをあしらった、肴によく合う仕立て(鰤は酒より飯のオカズに合うように思う)。

 

 鱈の真子の旨煮も、同じく白子と葱の小鍋も、鯛わたの塩辛も按配よし。言葉少なで笑顔が素晴らしい御主人も御内儀の人をそらさぬもてなしもまたよし。銚子のお代わりもだいぶ進みまして、あれだけ歩いたのだから穏やかに一軒で帰るべしとの決意もどこへか、お勘定を済ませると、早速ナミコさん(御内儀)が奨めて下さったバーへと足が向いてるのでありました。

 

 あれ、ここ前はステーキか焼肉の店でしたよね。それが閉めたあとをバーに使ったのだそう。テーブル席のあたり、道理で贅沢な空間の使い方をしている。

 

 観光客がふらっと入れる所ではないのだろう(路面店ではない)、当方を除いてみな地元の常連さんばかりのよう。なるたけ空気を乱さぬようトーンと話柄を選びつつ、バーボンとカルヴァドスを愉しむ。とはいっても気兼ねしてる感じはないので、イケメンマスターのショウタさんが上手に相手をしてくれてたのです。

 

 と、角をはさんで隣に新手の客が。と思ったら『八十八』での相客なのだった。向こうは家族連れで話はしていないが、向こうから話しかけてきた。さっき、旅行客で次ここに来ると耳にはさんだ。ちょうど行くとこだったから。なんでも水産関係の大きな会社のえらいさんで、この店も毎週来ているとのこと。といって偉そうにするわけでもなく愉快な方で、談笑しながらついつい杯数が重なる。ここでショウタさんから提案があった。

 

 すぐ近くに元々働いていたジャズバーがある。これだけ召し上がるのでしたらご旅行のなぐさみにもう一軒いかがですか、とのお誘い。毒喰らわば皿まで。ではおかしいか。洋酒飲むなら樽まで。ドラクエするならロトの剣まで。○○するなら××まで。付き合いましょう。しかしここの店のほうはどうなさるので。

 

 マスターの同級生だという調理担当くんが「こういうことよくあります」と苦笑。ではあとよろしくー。

 

 というわけでショウタさん及び水産氏と三たり連れで犀川べりの件のバーに繰り込む。ちゃんとステージがあってマダムも唱うというなかなかの規模の店だった。こちらはジャズには全く縁がないので、マダムの艶のある声を愉しみながらバーボンをぐびぐびやるのみ。ショウタさんもあちこちの常連客に呼ばれて忙しそう。相当皆さんに可愛がられていたんだろうな。挙げ句の果てにカウンターの中で洗い物まで始めたのは気の毒だったけれど。逆にショウタさんもこの店好きだったんだろうね。実際磊落という形容がふさわしいマダムも、元気よく働く女の子たちも(健康な色気と言わんか)気持ちよい。

 

 横で水産氏がこっくりしだしたのを潮に立ち上がろうとすると、反対隣にいたS氏―元常連で、赴任先から久方ぶりに呑みに来たとか―からお声が掛かる。「〆にもう一軒いかがでしょう」。

 

 ・・・竜王倒したら宝箱コンプとも言いますし。ポーランドに攻め込んだらパリ陥落までとも言いますしね(言わない)。お付き合いさせてもらいまひょっ。

 

 四軒目はいかにもそれらしく新天地のなかにあった。こここそ観光客、どころか金沢の方でも一見では入りにくい超ディープゾーンではないか。注しておけば、ここで言う「入りにくい」は『つる幸』や『つば甚』が入りにくい、というのと正反対のニュアンスです、念の為。

 

 店主はいかにも一癖ある人物で、ひりりと山椒の効いた会話に興じつつハイボールを呑む。

 

 思うに、自分にとっての金沢はこういう段階に入ったのだと考えるべきなのだろう。新しいビルが出来ようと観光客が溢れかえろうと、にも関わらずしずかに沈澱する「金沢」を、その時々に遇えた方々の裡に探る。

 

 紅梅といふ秩序あり加賀ぐもり   碧村

 

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鳥獣大会

 一月はよう食べに出た。勤務先の事情で、連休が少ない月だったから、溜まったストレスを外食で発散する形となった。と言っても炭水化物に興味はないので、カツ丼大盛り!とか新規ラーメン店発見!なんてことにはならない。熱燗大盛り!とか新規漬け物開発!とかだったら食指が動くのですけれど。

 

 心に残った品々は、

 

○和え物二種(玄斎)……ひと品めは八寸のうち。青菜(嫁菜?芹?)を、荏胡麻を擂ったので和えている。香気が何よりの御馳走。ふた品めは河内鴨の皮のところを、牛蒡・人参・キャベツなどと、酢味噌で。童画のような彩りも愉しい。冷酒がすすみました。日本料理の店では、「椀さし」のような《花形》以外のこういう品にこそ料理人のセンス乃至エッセンスが顕れる、と鯨馬は思う。

○鴨のコンフィとハム(ロンロヌマン)……前田シェフのお店。『アードベックハイボールバー』『モゴット』と前ちゃんの料理を追いかけ、ついに草津にまでのしてしまいました(お慕い申し上げております)。もっとも神戸から新快速で一時間半。座ってればいいわけですから、草津はけして遠くない。さてハムは熟成を抑えてあでやかな香りと舌触り。コンフィあくまでも力強く、一緒に煮込まれた白インゲンも、変な形容ですが勇壮な味わいでよろしい。思い通りのキッチンで、思うような食材を用いてニコニコ料理しているシェフを見られるのがまた嬉しい。あ、ソムリエの奥様の選択もよろしかったな。セバスチャン・マニェンなる醸造家のアリゴテのブルゴーニュが気に入りました。

○葉にんにくのパスタ、人参のムース(AeB)……パスタはオレキエッテ。ソースに白味噌を使ってると中田シェフに聞いたような。それで菜の花などを和えているから茶料理のような瀟洒な口当たりで、そこに葉にんにくが小気味いいパンチをかませてくる。土佐ではこの野菜を擂ったものでハマチやカンパチを食べさせるが(旨い)、魚でなく野菜を和えても洒落た一鉢が出来るのでは、とひらめく。これから色々菜が出て来る時季なので、試してみるつもり。人参のムースはメインコースのあと、ドルチェの前に出された。甘味に移るまえの、言ってみたらインタルードに当たるひと品なのだけれど、これがまたすこぶる充実の味で、上に滴々とたらしたオリーヴ油の爽やかな香りと相俟って、ずっとこれで呑んでいたいと思わせる上等の出来でした。

ジビエのコース(TN)……こちらは初見参。全品ジビエで構成された限定二十食のコースと聞いては予約せずにいられない。「ジビエキターッ!」もしくは野田秀樹風に「野獣降臨ー!」というところ。猪のリエット(胡椒風味を効かせたサブレに挟んで)も、雉のテリーヌも(あんぽ柿を混ぜたマスタードで食べさせるという趣向)堪能した後で、御大登場という恰好でヒグマのロースト。人生初のヒグマを噛みしめるに、筋っぽくもなく、かといってとろける食感でもなく、ぎりぎりまで抵抗を示した後、しゃくっと崩れるような不思議な食感で、血の香りをさせながら喉をすべっていく感覚が妙になまめかしい。「二歳の牝なのでロースト」「年取った牡だと煮込みにでもしないと食べられない」と聞いて納得するくらい、柔媚な味わいなのである。それでもさすがは森の王者、いや女王か、だけあって脂のとこをしゃくしゃくやってますと、甘味の影から、むぉふぉっ。という感じで土と木の実と草の混じった香りが立ち上がる。やっぱキムンカムイ、すげぇわ、と品の無い表現で呟いておりますと、ヒグマの皿に次いで真鴨が来た。絶頂の上に重ねてメインが来る按配、さながらブルックナーマーラー交響曲の如し。抱き身のなめらかな味わいは普通に旨いとして、圧巻(書いていても段々興奮してくる)は腿やせせり身などを叩いたポルペッタ、つまり肉団子。芳烈にして濃醇。これに内臓をつぶして作ったサルミソースをつけて頬張ると堪えられません。なんだか自分がヒグマになって鴨に食らいついているようで、心中では何度か吠え声をあげておりました。肉に埋まった散弾を噛み当てると、その錯覚は一段と濃くなるのでした。

○肴・鮨(鮨三心)……ここも初見参。「お寒い中をいらしたので」と蛤の清汁(具なし)から始まる肴も良かったし、肝腎の鮨が旨かった。鰤なんて魚、鮨に合うわけがないと思い込んでたのに、千枚漬けで巻いて柚を振ると不思議や、見事に食べさせる品になってしまうんですね。他にもミソをふんだんに混ぜた捲き海老の握りなど、一体によく工夫がされているのが分かる。建物の風情もよし。予約の取りにくいのは当然でしょうね。

 

 さて二月は和風ジビエから始まります。久々の金沢旅は明日から。

 

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