『皇帝フリードリヒ二世』(E.H.カントーロヴィチ)〜双魚書房通信⑧〜

  ヘリオガバルスの出藍の弟子?マキャベリの師匠?ゲーテの双生児? 

 オビにはこうある。「「世界の驚異」か?「反キリスト」か?」。
 だが「か」でつなぐ必要はないだろう、世界の驚異であり反キリストであった。そのうえ、皇帝でもあった。すでにして世界の驚異にして反キリストたる人物が皇帝であったところで、その「うえ」ということもないようなものだが、この大部の伝記の主人公たるフリードリヒ二世(一一九四〜一二五〇)が君臨したのは、史上あまた存在したなかでもとびきり不可思議な帝国、つまり神聖ローマ帝国だった。どのような概説書を読んでもどこが「神聖」で何が「ローマ」なのかいまだにさっぱりわからない。ドイツとイタリア(!)が一つの帝冠のもとに統治される、これこそ「絶対矛盾の自己同一」というものである。
 そしてフリードリヒという人物は、あまたの皇帝のなかで誰よりも皇帝らしい皇帝であり、同時に誰よりも皇帝であることが逆説的に見えるような人物でもあった。
 誰よりも皇帝らしい皇帝とはどういうことか。フリードリヒが支配したのは三百を超える諸侯が割拠するドイツと、イタリア半島南部およびシチリア島だった。ノルマン人の征服活動以後、アラブ、ビザンツユダヤ、そしてイタリア人が混在して国際色豊かな文化の華を咲かせたこの島については高山博『神秘の中世王国』に詳しいが、わずか四歳でシチリア王位に就いたフリードリヒは地元貴族の抵抗や叔父に当たるオットー四世(神聖ローマ帝国皇帝)のシチリア侵攻、歴代教皇の執拗な妨害工作を時に巧妙、時に果断に乗り切り国家体制を完成させてゆく。法典の整備。封建諸勢力の権益を取り上げて君主の直轄とする。課税制度の体系化。公平な裁判制度。
 外交にも長けていた。十字軍を率いて向かったエルサレムではスルタンの使節と流暢なアラビア語で交渉し、流血を見ずにキリスト教徒のエルサレム巡礼許可を認めさせた。時のローマ教皇が、異教徒を殺戮しないのは不信心の証だとして皇帝を一時破門した対応に比べると、つねに現実的結果をもとめ、冷静に計略をつみかさねていくフリードリヒの合理主義的思考の特色は、いやが上にも目に立つだろう。
 ではこの上なく有能な皇帝が、同時に皇帝らしくもないとはどういうことか。フリードリヒは詩人でもあった。精力的に国家の任務をこなしつつ、孜々として詩作を続けた皇帝としては中国清朝乾隆帝が思い浮かぶ。しかし中野美代子によれば、乾隆帝漢詩は、ほとんど日記に等しいおよそ退屈千万な代物であったという。一方フリードリヒは伝統と権威の折り紙つきの形式に字を埋め込んでいったのではない。著者によれば、「イタリアの詩の全歴史はシュタウフェン朝の詩歌をもって始まる」。
 科学者でもあった。珍奇な学問への没頭をいおうなら、澁澤龍彦が好んで言及したハプスブルグのルドルフ二世が思い浮かぶ。しかしルドルフの学芸好きは、かの「驚異の部屋(ヴンダーカマー)」に象徴される途方もない精神の混乱と魔術・錬金術への惑溺と一体化していた。一方フリードリヒの名前は、中世随一の正確さをほこり、そして類書では未だに凌駕するもののないと評される『鷹狩りの書』の著者としても有名である。全西欧がアリストテレスの権威のもとにひざまずいていた時代、フリードリヒはひたすらおのれの眼を、つまり実地の観察にのみもとづいて記述していく。フリードリヒ自身、序文でこう宣言している。「余の意図は、存在するものをあるがままに明示することにある」。
 かかる合理主義的思考、加うるに中央集権=絶対主義的志向、通商の重視、さらに反逆者に対する残虐な弾圧・・・こうして並べてゆくとどうしてもこの形容を口にしたくなる。《西欧の織田信長》。
 いうまでもなく、フリードリヒ=信長を「近代精神の先駆者」とする視角からの評価である。それはおそらく間違っていないだろう。だがしかし。
 冒頭の文句をもう一度引こう、いわく「「世界の驚異」か?「反キリスト」か?」。もう一度自分なりの答えを記せばこうである。
 「か」でつなぐ必要はないだろう、世界の驚異でもなく反キリストでもなかった。
 たしかに瞠目すべき闊達な精神ではあった。しかしその精神は、同時代(そして後世)の人々が「世界の驚異」と見るよりもむしろ、自分が生きる世界のありとあらゆるもの(イスラムの祈りの声から鷹の翼の動きまで)を驚異と見る精神と考えたほうがふさわしいのではないか。
 たしかにローマ教皇とは始終対立していた。しかし反(イエス)キリストであると同時に、反アラーでも反エホヴァでもあったのではないか。つまるところは徹底した非宗教的人間。
 著者カントーロヴィチは、先に引いたフリードリヒの言葉を「叡智の中の叡智、すなわちすべての事物はまずもってそれ自体でそのようなものとして存在するという明察」と評し、さらに次のような一節を続けている。

  百年前、ドイツのそれ以外のところで人々が哲学と感情の高揚に身を委ねていたとき、ヴァイマルでは皆が「甲虫の脚を数えている」という理由で、多くの人が失望してヴァイマルを立ち去ったことを。

 ヴァイマルで甲虫の脚を数えていた筆頭は、いうまでもなく宰相ゲーテである。革命や民族主義の嵐のさなかに甲虫の脚をかぞえるのに熱中する精神とは要するに一個の少年、それも稟質世にこえたアンファン・テリブルなのではないか。残虐で好奇心旺盛で、情念にくもらず「理」でもって世界とわたりあうのは少年の特権だろう。
 晴朗闊達な神童の活躍ぶりを縷々語った本として見れば、二段組み・七百頁(!)はいかにも長過ぎるようである。であるが、この大著の後半は「アプーリアの少年」(フリードリヒの幼少の渾名)がまさしくローマ教会のいう「反キリスト」さながらの、血まみれの殺戮者となって泥沼の戦いにひきずりこまれてゆく過程を描き出す。
 戦乱はフリードリヒの実子でドイツ王であった皇太子ハインリヒの叛乱よりはじまる。急いでドイツに入り、自ら息子を断罪、ハインリヒは流刑地に赴く途中で崖から投身自殺する。ドイツでの叛乱が未然に終熄したのも束の間、今度は北イタリア、ロンバルディーアの自治諸都市が大同盟を組んでこの「絶対主義」君主に反旗を翻す。使嗾するのは、イタリアに統一権力が確立されることを何よりもおそれるローマ教皇庁。以後またもや破門されたフリードリヒはイタリア各地の反皇帝派を撃破するため、転戦に転戦を重ねることになる。反逆者は容赦なく拷問にかけられ、処刑された。降伏したフィレンツェ教皇党貴族は「鎖につながれてナポリに連行され、目を潰され体を切り刻まれた後、海に放り投げられた」。
 「反キリスト」と題された第九章は次のように書き出されている。

  「いまや余は鎚でありたい」。この標語こそニーチェにシュタウフェン家の皇帝を「自分に最も似た人物の一人」として讃仰させた言葉だった。

 詩人シュテファン・ゲオルゲフリードリヒ二世を讃美していたという話がいささか腑に落ちなかったのだが、後半はまさしくゲオルゲ派(クライス)の好みそうな、冥い英雄としてのフリードリヒが姿をあらわす。神童から世界没落の体現者へ。しかしいかにも第三帝国が利用しそうな、そんなきなくさい先入観を持たずに読めば、これは文句なし、世界史において第一級に興味ぶかい人間がそこによみがえる。小林公訳。

皇帝フリードリヒ二世 (-)

皇帝フリードリヒ二世 (-)

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